第1-13話 敗者の意地
「ハァッ……、ハァッ……。なんでこんなことに……」
ザルボの森でアルキュスは苦痛に喘ぎながら木にもたれかかる。彼女のそばからは木がミシミシという倒れる音が響いており、それに紛れるようにしてモンスターの唸り声も響き渡っている。
依頼中、いきなり森に姿を現したヒュドラに襲われた彼女。自分とヒュドラの力を天秤にかけ、逃げようかと一瞬思った彼女だったが、このモンスターを野放しにした場合の危険性を頭の中で想像し、応戦にかかった。こいつから逃げるわけにはいかない。その思いで立ち向かった。
魔法が弾け、巨躯が激しく蠢きながらの戦いは熾烈を極めに極めた。
だが、彼女の力はヒュドラの息を止めるには能わなかった。斬っても斬っても堪える様子のないヒュドラにアルキュスの集中力は、徐々に削られて行き、一瞬の隙をつく形で牙が身体にかすってしまう。
途端に身体中に回る猛毒。体験したことの無い苦痛に彼女の闘争心はあっという間に折られてしまった。
そこからは防戦一方を強いられ、彼女は逃げることしかできない状況に陥れられていた。何もできないままに毒に侵され、戦えなくなった情けなさに心を蝕みながら彼女は森の中を駆ける。
「ダメ……。このままこいつを町に行かせるわけにはいかない……」
迫りくるヒュドラにアルキュスはこいつを倒さずとも足止めするための方法を考える。しかし、ヒュドラは弱らせた獲物を嬲るかの如く、ゆっくりと、しかし着実に近づいてくる。あまり悠長に考えている時間はない。
「やるしかない……、か」
刹那の熟考の末、彼女は結論を見出す。自分の命を懸けた捨て身の一撃であるが、こいつを町に行かせるわけにはいかず、彼女に出来る手札がこれしかないことを踏まえると覚悟を決めるしかなかった。
自分の魔力、中でも最も得意な炎を操る魔法を自分の中で加速、膨張させていく。限界まで加速させ、高めた魔法を自分の中で炸裂させることで暴走を引き起こしヒュドラを討伐する、いわゆる自爆攻撃である。
彼女の魔力では森が丸ごと吹き飛んでしまうかもしれない。その余波で町にも何らかの被害が出てしまう可能性があるが、このヒュドラを町に行かせないだけで万々歳だろう。ヒュドラが町に向かえばその程度では済まないのだから。
だが、自分が死ぬのだと考えたその瞬間、彼女の脳裏に父親の顔が浮かび、思わず心が締め付けられ、唇がキュッと締まる。が、構っている時間はない。今の彼女には本当に時間がないのだ。親不孝者だと笑いながら、彼女は魔力を高め始めた。
かつてないほどの素早さと密度で彼女は魔力を高めていく。最大限の集中をもって自爆の準備をするアルキュスの魔力は着実に高まっていった。あともう少し。
だが、その彼女の集中力が仇となる。ふとした時、ヒュドラが動く音がしなくなりそのことを疑問に思った彼女は魔力を集めながら周囲を見回した。
そんな彼女の目に映ったのは、彼女を取り囲む九本の蛇の首、そこに着いた爛々と光る十八個の瞳であった。彼女の集中力が災いして懐に入られたことに気づくことが出来なかった。既に彼女はヒュドラの口の中であり、逃れうるのは困難であった。
「――ッ!?」
心臓が飛び出そうなほどの衝撃に集中が途切れそうになるが、鋼の精神力で抑え込むと急いで魔力を書き集め、自爆の準備を整えようとする。あと少し、あと少しなのだという自分を急かしながら魔力を集め燃える炎のように熱を込めていく。
だが、そんなことをヒュドラが許すはずもない。彼女が何かを企んでいることに気づいた彼は即座に彼女を息の根を止めるべく九本の首を彼女に殺到させ、その牙を突き立てようとする。
彼女が魔力を集めて自爆するのと、ヒュドラが噛みつきその牙を彼女に突き立てるのとではヒュドラの方が早い。ただでさえ、毒に侵され苦痛に呻いている彼女の身体にさらに毒を打ち込まれれば集中は途切れ、今までに溜め込んだ魔力はすべて無駄になる。
だが、今の彼女に魔力を溜めながら動いて逃げ出すだけの余裕はない。動かない身体で迫りくるヒュドラの口内を見つめながら魔力を機械的に溜め続けることしかできなかった。
瞬間身体に押し寄せる無力感。同時に彼女は自分の未熟さを呪い、自分に訪れる死と呼ばれるものを理解しようとした。
しかし、そんな彼女に牙の突き刺さる痛烈な感触が走ることはなかった。代わりに感じたのはふわりと頬を撫でる風の感触と、内臓が浮き上がる様な浮遊感であった。
そこに既に彼女を覆っていた蛇の口内の景色はなく、代わりに木々の青々とした葉が一面に広がっていた。ものすごい速さで入れ替わっていく景色に彼女はアルキュスは困惑し、今まで溜めていた魔力を霧散させてしまう。
混乱する頭の中で、彼女は自分の身に起こった出来事を理解する。少し視線を上げれば、抱きかかえるような体勢で木の上に立っているレギアスの姿があり、視線を下ろすとその先にヒュドラがいる。
状況から考えると、つまり彼は目にも止まらぬ速さで近づくと、ヒュドラの絡まった首をすり抜け囲まれている彼女のもとに近づいた。そして彼女の身体を抱きかかえると、再び首の間をすり抜けて脱出し、距離を取るために木の上に登ったのだ。
一体どれだけ身体能力、身体捌きを磨けばその領域に至れるのか。果たして今の自分に十年後、何十年後になった時、あのような動きが出来るだろうか。恐ろしいほどのレギアスの実力に彼女は思わず涙が流すと崇拝の笑みを零した。
「生きてる……、だが毒に侵されてる。 このままじゃ助からないか……」
ヒュドラから目を離さないままにアルキュスの首元に手を伸ばし脈を測ったレギアスは彼女の状態を確認していく。小さな傷から毒に侵されていることを理解する。
「まあ、とりあえずこいつがいても邪魔になるだけか」
状態を確認した彼は治療をしなければ死んでしまうが、今すぐに死ぬわけでもないという判断を下すと、彼女をこの戦場から離脱させることにした。幸いにも木の下で威嚇を繰り返しているヒュドラの意識はレギアスに向いている。今ならば安全に彼女を離脱させることが出来る。
「ダメだ……、一人であいつを討伐するなんて……」
「アーうるせえ、まともに倒せずに毒に侵された奴なんぞ邪魔なだけだ。おとなしく家に帰ってパパの飯でも食ってろ」
レギアスとともに戦おうとする意志を見せたアルキュスだったが、その考えはすぐに一蹴される。
「おい!」
レギアスは上空に呼びかけるように声を張り上げるとアルキュスの身体を上空に力の限り投げつけた。本来であれば重力に従い、落下してくるはずの彼女の身体は一向に姿を現すことがない。代わりに降り注いできたのは上空で待機してマリアの声であった。
「ちょ、大丈夫なのこれ!?」
「危険な状態だが急ぎじゃねえ。せいぜい死ぬほどの苦痛を味わい続けるだけだ。お前は帰ってそいつの治療でもしてろ!」
「あんたはどうするのよ! まさかヒュドラ相手に一人でやるつもり!?」
「ああ、そのまさかだよ。こいつを殺したら俺は走って帰る!」
一人で戦おうとするレギアスに対し、抗議の声を上げるマリアだったがレギアスは聞く耳を持たない。
「言い訳ないでしょ! 私も一緒に……」
「そいつを無駄に苦しめたくなかったらとっとと行くんだな! ヒュドラの毒は死ぬほど苦しいぞ!」
一緒に戦おうとしたマリアだったが、レギアスの言葉にハッとさせられ視線を落とす。彼女の手の内で苦しんでいるアルキュスを見て彼女は決断する。
「……絶対に帰ってきなさいよ!!!」
「誰に言ってんだ雑魚女! その女、殺さず生かしておけよ!!!」
そういうとマリアとアルキュスの気配がレギアスから遠ざかっていく。同時に彼の立っている木が揺れ、強引に振り落とされてしまった。
地面に落下したレギアスが軽やかに着地し、前方に視線を向けるとそこには他所に意識を向けられ続けたことで怒りに狂っているヒュドラの姿があった。九本の首をくねらせながら蛇特有の音を鳴らして威嚇を繰り返している。今の双方の間の空気は罅の入ったグラスに水が満タンに入れられているようなもの。少しの振動で水がこぼれ、ヒビが広がり割れてしまう。そんな緊迫した状況であった。
それでもレギアスは戦闘態勢をとると、ニヤリと笑みを浮かべた。
「久しぶりだな……。ヒュドラの相手をするのは」
刹那、二人の戦いの火蓋が切られ、双方同時に動き出した。




