第三十話 地上に建てられた大気圏
夕暮れ時なのに初夏の空気が蒸し暑かった。もう、わしづか専門学校に入学して新型有人宇宙機研究会に入会してから二か月、いや、三か月も経っているもんな。
「俺も最初は一緒に行こうか?」
美濃島からの支えの言葉はきっぱり断った。ずっと甘えるもの嫌だったが、昨夜も今夜も基晴の世話を焼いていれば、美濃島の母親にもまた心配を掛けるだろう。
東宮とふたり、モノレールに乗った後しばらく歩く。その間はなんの話もしなかった。
どんな環境か、どういう人々が居るのか。本当に自分が行って大丈夫なのか。
気になることはたくさんあったが、基晴が尋ねなかったのは、自分より大人の精神を持つ東宮を信頼していたからだ。
シンプルなレンガ建築の前で、東宮は立ち止まり。視線で指した看板を読むと大きく、Atmosphere、とだけ書かれてあった。
「あ、つ、も……」
「アトモスフィア」
たどたどしく英単語を一文字一文字読む基晴の姿を見て。さらりと東堂が呟いた。
確かその名前は、折尾先生にも言っていたっけ。初めて聞いた単語だけど、英語が得意な高浦なら知っているだろうか。
「大気、って意味」
ぼんやりと考える基晴の思考を読んだのか、東宮が呟いた。
「たいき、って……地球上の大気、とか大気圏……の大気か?」
「雰囲気、って意味もあるけど。そっちの意味だと教わってる」
天文学に関する名前なんだ。東宮も真剣に宇宙医師を目指しているし、宇宙が好きなひとが建てたのかな。
「おじゃま……します」
背中を屈めて基晴は東宮の後ろを進む。
「友達を連れて行く、そう連絡してある」
そう言われても、見知らぬ施設はやはり不安で怖い。
「峻、おかえりなさい」
突然の挨拶に驚いて動きを止めると、ひとりの男性がこちらへやって来た。峻、って東宮の下の名前だっけ。
「ただいま、岡野さん」
東宮も自然と挨拶を返したし、ここの施設の職員だろうか。
背の高く日焼けした、しゃんと姿勢の良い、スポーツ選手のような男性だ。
「岡野さん。アトモスフィアのひと」
淡々と紹介されても何も返せない俺の肩に手を置くと。
「天城くん。わしづか宇宙開発専門学校のひと」
東宮は次に、あっさりと俺の紹介をしてくれた。
「初めまして。自分の名前は、天城、基晴です。東宮峻くんに誘われて、今夜はここに泊めて貰いに来ました」
慌てて頭を下げると、なんだか変な自己紹介になってしまった。岡野、と紹介された男性は爽やかに微笑むと。
「初めまして、岡野賢斗です。自分はアトモスフィアを管理する職員だから、なんでも訊いて下さい」
偉そうでもなく、馴れ馴れしくもない、自然な口調で名乗って説明する。
「夕食は済ませたの?」
「ううん、まだなんにも食べてない。けれどそっちは疲れてるなら、軽い物だけが良いかも」
「そう、だなぁ……ありがとうございます」
岡野の質問に被せた東宮からの問いに、基晴は礼を言って頷いた。母との対話やメッセージから食欲を失い、昼休みも栄養ドリンクしか摂らなかったし。
「じゃあ食堂の係には、どう伝えようかな……」
「岡野さん、確かこのひとは食物アレルギーは無いし、風邪引いたときのメニューがいいかも。あとはさ、自分は夕食表のメニューを頂くね。お腹空いてるんだ」
口元に手を当てて考えながら呟く長身の岡野を見上げて、小柄な東宮は笑う。初めて見たな、こいつのこんな表情。いつも地下倉庫のサークルでは紙の本の読書に集中しているから。
一歳の頃からここで暮らしている、みたく言っていたし。職員とも本物の家族のようになっているのだろう。
「じゃあ、夕食も部屋で摂ったほうが良いか……峻と同室が良い? 空いてる部屋もあるから、ひとりでも大丈夫だけど」
岡野はそう勧めてくれたが、いきなり来てひとり部屋、っていうのも図々しいよな。
「ひとり部屋のほうがゆっくり休める」
返答に詰まった顔をちらり、と見た東宮が代わりに答えたので。その言葉にまた甘えて基晴は頷いた。
「じゃあ、ゆっくり休んで。なんでも必要な物があったら、まず峻に尋ねてみてね」
「はい。ありがとう、ございます」
基晴にも親し気になった岡野に、しどろもどろ礼を告げると。
「なんかあったらタブレットに連絡して」
「うん、東宮……今日は、色々とありがとうな」
さり気なく気遣いの言葉をくれた東宮にも礼を返した。
ひとりになった基晴は綺麗なベッドに寝転がる。
想像より居心地の良い場所だな、ここ……アトモスフィア……というシェアハウス。昨夜に美濃島と泊った折尾先生の家と同じような雰囲気だ。
Atmosphere。和訳すると大気。
その意味は確か、地球の表面を覆う気体。自然や生命を誕生させたもの……なるほど。
そんな事を考えつつ、基晴はタブレットを取り出し。
「基晴へ。信晴を説得しに行くため、しばらくの間留守にします。食事は家事代行サービスに任せてあります。なにかあったら晴義さんに相談してください」
母からのメッセージを読み返すと。
「しばらく友達の家に泊まります」
短いメッセージを返信した。
しかし、昨夜のようにタブレットの電源は切らないでおいた。
また心配と怒りの質問を次々ぶつけられたら、「ひとりで家に居るのが苦痛だから、優しい友達の言葉に甘えた」それだけ答えれば良い。
家で休めと命じられたら、母が留守なのに自分だけ帰宅するのは嫌だ、と言い返す。
そして基晴は、うとうとと眠りについた。




