第二十二話 兄弟の想いと願い
「……兄さん」
基晴はノックもせずに信晴の部屋の扉をゆっくりと開ける。鍵は掛かっていなかった。
「……モト」
ふたりはしばらく見つめ合うと。
「ごめんな、モト。びっくりしただろ」
基晴が無言で頷くと、信晴は背伸びをして廊下を眺める。どうやら基晴ひとりだけなのを確認しているみたいだ。
「父さんから何か言われたか? さっきは情けないから勝手にしろ、みたいに言ってたけど、本音は心底怒ってる。そのせいでモトにまで怒りをぶつけるかもしれない。だからモトは呼びたくなかったんだけど、意味はなかったか。でもさ、しばらくの間、父さんとは距離置いて……」
「そんなのどうだっていいよ!!」
普段と変わらず落ち着いて優しい信晴からの助言を、基晴は大声で遮った。
「兄さん、本当に家を出るのか? 創成学園も辞めて? それが兄さんのやりたい事なら、そうなったら、これからどうするんだよ!?」
基晴にとって尊敬する操縦士だった信晴が、もう操縦士にはならない、と言い切った。
それは信晴の本音で、本当に将来は違う道に進むのか。
それとも父や母の言う通り、現在に疲れているだけなのか。
基晴はそれが確かめたくて、両親からなんと言われようと、信晴にはっきりと尋ねたかったんだ。
「……少しずつ考えるよ」
強い口調で問い詰めた基晴に、信晴は申し訳なさそうに答える。
「でも、あいつの傍では思考がまとまらないんだ。幼い頃は俺もあいつを尊敬していた……やっぱり父親だからな」
穏やかだった信晴の表情が憎々し気に変わっていく。あいつ、なんて単語で父を表すのも初めて聞いた。
「いつだろうな、ふと気付いたんだ……あいつが諦めた夢を息子の俺が叶えれば、あいつ自身が夢を叶えた事になって、堂々と威張るって……たとえ俺がどんな人間になろうが、あいつは未熟なままなのに」
父が憎くて離れたいのか? 段々と不安に、そして哀しくなってきた。
「モトは本気で宇宙船操縦士を自分自身の夢にしているけど……俺は違うんだ。たとえ努力して宇宙船操縦士になっても、俺自身の夢を叶えたことにはならない。あいつの夢を叶えるだけだ」
「兄さん……」
「久しぶりだな、モトからそうやって呼ばれるの」
泣きそうな声で呼び掛けると、穏やかに微笑んで頭をくしゃっと撫でられた。そういえばいつからか「アニキ」なんて不良ぶった呼び方をしていたもんな。
いつからだろう、基晴も兄の信晴を優等生としか見なくなったのは。
試験の結果で少し悩んでも、父からの嫌味交じりの説教にもめげず、しっかり努力も継続して、そのうち絶対に叶う夢へ向かってずっと走っている。
そんな、純粋な心の真面目な人間とだけ考えていたのは。
信晴だって自分や周囲の皆と同じくひとりの人間だ。様々な事につまずいて、黒々とした想いも溜まっているはずなのに。
「俺のせいでモトも疲れただろう、もう母さんと一緒に帰って、ゆっくり休め」
「うん。でも母さんは、まだ話し合ってるかも……」
「あぁ……俺のことで、あいつと口喧嘩してるのか」
信晴はがさごそとポケットからタブレットを取り出すと。
「あいつと母さんだとずっと話はすれ違うから、口喧嘩は長く続く。ふたりの傍に居るだけでもまた疲れるだろう。これで家に帰るか、どこかで時間をつぶしていてくれ」
幾らかの電子マネーを画面に示した。
信晴はもう基晴とも話したくないのか? 父の言葉通り、弟に色々問い詰められたら、兄の自分をみっともなく思うのか?
いいや、違う。信晴はただ、自分が起こしたトラブルのせいで、弟の心に負担が掛かるのが嫌なだけだ。基晴を気遣ってくれているんだ。
「うん……分かった」
自分で結論を出した基晴は、自分もタブレットを取り出して、素直に小遣いを受け取った。
信晴の部屋から出た基晴は、両親の居る客間には目もくれずに真っ直ぐに玄関へと向かい、静かに父の家から出て。
そのまま信晴から貰った電子マネーで地下鉄に乗り家へと戻ったが、母親は帰って来ず、眠れぬ一夜を過ごした。
朝になっても母の姿は無く、タブレットにメッセージも入っておらず。基晴から尋ねることも、ひとりで家で待つのも、再び父の家に向かうのも、どれも嫌で。基晴はいつものように学校へと向かう。
朝食も昼食も摂らずにぼんやりと授業を受けていたが、基晴は放課後にふと意識を失った。
「……う、ん……?」
固く閉じていた瞼が徐々に開くと、優しい灯りが目に映った。ここは……?
軟らかで暖かい布団にくるまれた身体をもぞもぞと動かす。額と首筋には冷却シートが貼ってあり、冷たく心地良い。
「おっ、やっと目が覚めたね」
聞き覚えのある声にゆっくり顔を傾けると、そこにはひとりの女子が座っており。
「基晴くん、意識、戻ったよ、っと」
口に出しながらタブレットにメッセージを打ち込み始めた。
「やごう……さん?」
「汀に連絡してるんだ。皆も心配してるからさ」
掠れた声で問うと、矢郷は基晴に向かって明るく笑い掛けた。なんで彼女がここに居るんだ? それよりここはどこだ?
「まだとぼけてるねー、分からない? ここ、わしづかの保健室だよ」
矢郷は部屋に置いてある冷蔵庫から小さい飲料ボトルを取り出して、基晴の寝ているベッドへと向かってくる。
「でも、どうして、矢郷さんがここに?」
「そりゃあ、いきなり天城くんがぶっ倒れた、なんて汀から連絡が来てさ」
ほいっ、と飲料ボトルを手渡すと、彼女は俺の寝ているベッドの脇に椅子を運んで腰掛けた。
「びっくりすると同時にサークル仲間として心配だから、変わりばんこで様子見る事に決めたんだ。そんでちょうど私の番だったの」
ぼんやり霞む視線で、小柄な矢郷の全身を眺めながら、はきはきした喋りを聞く。話し終えると基晴に渡したのと同じ飲料をごくごくと口にする。
「あっ、ありがとう。あと、ごめん、な」
「お礼や謝りを口にするより先に、栄養ドリンク飲みなー」
笑い交じりで言われ、基晴はぎくしゃくと起き上がると、ボトルの蓋を開けて冷たい液体を喉に注ぎ込む。柑橘の味がして、乾いた喉には心地良かった。




