第二十話 突然の家族会議
梅雨入りしてしばらくが経ち。
しとしとと雨の降る帰り道から基晴がリビングの扉を開けて。
「ただいま、っと……」
少し濡れた身体をタオルで拭いながら、いつも通り独り言のように呟くと。
「あら、基晴。おかえりなさい」
「えっ? うん、ただいま」
返ってきた母の声に驚いて、基晴はさっき呟いた帰宅の挨拶を繰り返した。
母が仕事場から帰宅するのは、いつも夜の十一時前後で。早くても九時から十時なのに。リビングの時計を見るとまだ四時ちょっと過ぎだ。
「あなた、今日は帰り早いのね」
「今日はサークル活動が休みだったから……母さんこそ、ずいぶん早かったんだね」
体調を崩したとか、職場でのトラブルがあったとか、理由があっての早引きなら、母も基晴に簡単なメッセージを送ってるはずだ。基晴はちらりとタブレットを覗くが、やはり母からのメッセージは入っていない。
「ここには仕事場から立ち寄っただけで、また出掛けるんだけど……」
「具合でも悪いの? 病院に行くなら、バス使って一緒に行くよ」
母は仕事にも買い物にも自動運転の電気自動車を使うが。大事な仕事を早引けする程の体調不良なら、ひとりで行かせるのも倒れそうで心配だ。
「ありがとう。でも大丈夫よ」
不安気な基晴に、複雑な笑顔を見せると。
「普段より退社時刻が早いのは、もう先週に決めてあったのよ。それに、病気ではないの」
じゃあ、なんで基晴に黙っていたのだろう。サプライズパーティーでも開くのか? しかし記憶を探っても、今日がどんな祝いの日かは分からない。
「あなた、以前に信晴と会ったとき、なにか変わったことはなかった?」
いきなり信晴の名前が出てドキッとした。父親の家でサークルの皆と勉強会を開いたことは、母にも言っていないから。
しかし、父ならともかく、母なら厳しく叱りはしないだろう。
「以前、っていつ?」
「先月の食事会よ。あのひとの家に泊まったでしょう」
試しに質問で返してみると、苛立った様子で答える。どうやら母が気に掛けているのは勉強会ではなさそうだ。だったら言わない方がいいだろう。
「いや、別に、なにも……」
基晴が言葉を濁すと、母も戸惑いながらタブレットを開いた。
「先週、信晴からメッセージが来たの。『来週中に大切な話がしたい』そんな内容で」
「じゃあ、母さんはこれから、アニキに会いに行くの?」
「ええ。『直に会って話したい』なんて強気に頼まれて』
基晴が驚いて尋ねると、母も困惑した様子で頷く。
わざわざ日にちを指定して母を呼び出すなんて、どれだけ大切な話なんだ?
母と会うときの信晴は「母さんの都合の良いときで」が当たり前で、自身の予定は後回しにするのに。
「それで晴義さんとも予定を合わせて、今日の五時に決めたの」
「父さんも一緒に話し合うの!?」
いつも母は「あのひと」と曖昧に呼んでいるが、晴義、とは父の下の名前だ。
「そうなのよ。それも信晴に頼まれたから……」
基晴の頭の中には、操縦士試験について父から説教される信晴の姿が蘇り。創成学園で美濃島と比べられている信晴の姿も想像された。
そして基晴の心の中には、そこから暗い道に進む信晴の背中が見えて。
「俺も行く、母さん、俺も一緒に行く!」
心配も不安も超えて、基晴は母に向かって思い切り叫んだ。
「あなたはこっちの家で待っていなさい」
基晴は強く止められたが、母が疲れるまで懸命に頼んで。待ち合わせの時間が迫ってきたのもあり、母の車で基晴は信晴の待つ父の家へと向かった。
玄関の扉を開けた信晴は、母の姿を見て一瞬ほっとしたが。後ろに立つ基晴に気付くとその表情は険しくなった。
「三人だけで話したい、ってメッセージでは頼んだけど」
信晴が気まずそうに言うと。
「全部あなたの望みを叶えられるわけないじゃない。ここに来る時間を貰うために、私の職場のひと達にもしっかり頼み込んだのよ」
母も口調に怒りを見せたので、基晴は母より先に靴を脱ぎ、玄関に上がった。
「母さんはちゃんと、基晴は来るな、って言ったよ。でも俺がどうしても気になって、無理矢理ついて来たんだ」
険悪な雰囲気を消そうと元気にふるまう。どうしても気になったのは本当だ。
別れた両親を呼び集めての家族会議を開くなんて、信晴はなにを考えてどう話すのか。
信晴が客間の扉を開けると、ソファには苛々した様子の父が座っていた。
「やっと瑠璃子も来たか」
瑠璃子、とは母の下の名前だ。母は落ち着かない様子で客間を隅々まで見渡している。いつも信晴と会うときは外食だというし、この家には初めて来たのだろうか。父は基晴の顔も見たが特に驚かず。
「おまえが集めたのか?」
母に向かって強く厳しい口調で尋ねた。
「私はただ、信晴に頼まれて来ただけです」
苛立ちを見せる父に対して、母は感情を消してロボットのように答える。
「なんの話かは知らんが、おまえは断れば良かったんだ」
「断れるわけないでしょう。大切な話がある、なんて真剣に頼まれたのに」
「おまえはそうやって息子を甘やかす。だから、いつまでたっても成長しないんだ」
「親がしっかり話を聞かないほうが、子どもは成長しないと思いますが」
母も怒りを見せて来て、進化していく口論をする父母に向かって、信晴は冷静に口を開く。
「父さん、母さん、まずは自分の話を聞いて下さい」
真剣な口調に、母は何も訊かず父の向かいのソファに座り、基晴も黙ったまま母の隣に座った。
「操縦士試験についての相談か?」
父からの質問に信晴は頷き。
「私もそう聞いたけれど、試験内容の変更でもあったの?」
母からの質問には首を横に振った。
「さっさと話せ。早くに済ませたい」
父が叱っても、信晴はしばらく沈黙を通す。静まる空間で基晴の心臓は高鳴っていた。
操縦士試験の話だって? また、基晴も操縦士を目指すことを話すのか? でも、基晴はこの場に呼ぶな、と言ってたのだし……自分には隠して、父と母には「基晴を応援しろ」なんて話す気か?
「おい、信晴! 言葉を失くしたのか? ここに皆を集めたのはおまえだろう!」
疑問で渦巻く静寂を絶つように、父の声が響くと。信晴はゆっくりと口を開いた。
「自分は……次回の操縦士試験も受験しません」
どっさりとソファに腰掛けて腕を組む父は、ふぅ、と呆れたような溜息を吐く。
「また試験を見送る気か? ずっと挑戦しないなら、いつまでも敗者のままだぞ」
「あなた、そんな言い方は酷いわ。信晴、まさか体調でも崩したの?」
険しい表情の父と心配そうな母に。
「違います。自分はもう二度と、操縦士試験は受けません」
信晴はきっぱりと告げた。そしてまた、基晴の居る空間は静かな場所となった。




