錬金術師グラス
思わぬ相手に、俺の動きが止まる。
正直、『錬金術師の変人』を相手にする覚悟は決めていたが、『錬金術師の女の子』を相手にする覚悟は決めていない。今までの人生で女性というものにほとんど縁がなかったせいで、相手の性別が女の子というだけで緊張してしまう。
「……あなたが」
「うん?」
「あなたが……錬金術師の、グラスさん、ですか?」
「きみは無駄なことが好きかい?」
俺の質問に対して、帽子の鍔を撫でてからそう答える少女――グラス。
「ぼくは名乗ったはずだ。天才錬金術師エリザベート・グラス。それがぼくの名だ。そしてきみが訪ねてきた相手は、間違いなくぼく、錬金術師のグラスであるはずだ。その上で、再びぼくに名を尋ねるような無駄な行動を好むのかな」
「……」
「拙速は巧遅に勝るという言葉もある。物事を急くことはあまり良くないことではあろうが、かといって分かりきっていることを再び質問するというのもいただけない。無駄な質問を行うのは、時間を稼ぎたいときか気を逸らしたいときだけだ。そして現状、ぼくときみの間にそういった事象は存在しまい。つまり、ぼくの名を再び問いかけるというきみの質問は無駄だと断ずるに値するだろう。もっとも、ぼくは寛大だ。きみが無駄な行動を好むような変わり者であるというならば、答えるに吝かではない」
「……」
「改めて名乗ろう。ぼくが天才錬金術師、エリザベート・グラスだ」
分かったことがある。
こいつは、非常に面倒くさい奴だ。
「こほん……失礼しました、グラスさん」
「ああ、実に失礼だった。ぼくに寛大な心がなければ、二度と我が家の玄関を潜るなと告げたところだよ。もっとも、二度と我が家の玄関を潜るなと告げたら、きみが帰ることができないという事実があったりする。玄関というのは訪問するときに潜るものではあるが、帰るときにも同じく潜るものだからね」
「……ありがとうございます」
頭を下げてから、改めて呼吸を整える。
多少の想定外はあったが、とりあえず目的の人物――錬金術師グラスと出会うことはできた。
明らかに十代くらいの少女という印象だが、実際の年齢は分からない。しかし見た目は大きな鍔のついた紺の帽子――その後ろに流れている銀髪に、整った顔立ちの少女である。こちらを値踏みするように細められた目元と、嗜虐的な笑みを浮かべている口元さえなければ、可憐な少女と言えるだろう。
まずは、彼女の目的から聞かなければ。
「今日は……あなたが侯爵家に届けたものについて、尋ねに来ました」
「ああ、無事に届いたようで僥倖だ。つい先日完成したばかりの、ぼくの研究の集大成さ。少し前にヨハンのところに赴いたとき、話を聞いたんだよ。妖精鏡なんて、文献もろくに残っていない素材を求めている者がいるとね。よくよく聞けば、あのノーマン領とザッハーク領の境に大結界を築いた人物だという話じゃないか。これはぼくの計画も捗ると胸が弾んだものだよ。もっとも、ぼくの胸は弾むほど大きくないが――」
「……これは本当に、妖精鏡なんですか」
グラスの無駄に長すぎる話には、とりあえず付き合わない。
ただ俺は、この素材について話を聞きたいだけだ。
「さてね。物事の真贋というのは、大抵の場合主観的に判断される。それが本物か否かという話であるならば、ぼくには『分からない』と答える他にあるまいよ」
「えっ……!」
「例えば箱の中に毒の入った餌と猫を入れて、その猫が箱の中で生きているか否かという質問のようなものだ。箱の中を見ることができない以上、その箱の中で猫が生きているとは限らない。箱の外から確認している限り、猫が生きている事象と猫が死んでいる事象が並行的に発生しているようなものだね。ゆえに、きみの質問に対して明確に答えることは少々厳しいと告げるしかあるまい」
「……?」
意味が分からない。
これは、俺の頭が悪いから理解できないのだろうか。
「その上できみにも理解できる程度の回答をするならば、それは限りなく妖精鏡に近い偽物だ。何せぼくは本物の作り方を知らない。つまり、ぼくは妖精鏡という実在する物質を、自分なりのやり方で作り出しただけのことだ」
「……なるほど」
グラスの言葉に、頷く。
確かに、ヨハンも「妖精鏡の作り方なんか知らねぇよ」と言っていた。そして当然、エルフの失伝した技術の一つであるため、その作り方など誰も知らない。
無論、グラスが偶然にもエルフの作った方法と全く同じ方法で作り出した可能性もあるが、彼女の言うところの『限りなく近い偽物』というのが、確かにしっくりくる言い方だろう。
「参考までに、聞きたいのですが」
「ああ、答えよう。ぼくも包み隠すことなく、胸襟を開いて話すとしよう。おっと、これはあくまで比喩だ。それとも、きみはぼくのようなロリィな体をした女の胸元を見る趣味でもあるかい?」
「これは、幾らで譲っていただけますか?」
グラスの言葉を無視して、そう尋ねる。
正直、俺の手元に現金はない。だが、既に模擬戦は三日後に迫っている。多少ならば、ルキアに給金の前借りという形で交渉することはできるだろう。
そして入手さえすれば、あとはどうにか魔術式を刻んでいけば――。
「ああ、別に対価はいらないよ。ぼくの手元には、同じ大きさのものがあと九枚ほどある。それも全部、きみに譲るとも」
「――っ!?」
「持ち帰って、好きに研究するといいよ。ぼくもノーマン領に住む一人の人間だ。《魔境》の脅威からこの地を救ってくれた恩人に対して、金貨を請求をするような厚顔無恥ではないさ。もっと必要だときみが言うならば、多少の時間は貰うが作らせてもらうとしよう」
「え……え……?」
俺の手元にある妖精鏡、そして笑みを浮かべているグラスの顔――それを交互に見ながら、俺は混乱の渦中にいた。
何せ、妖精鏡だ。現在の技術では作ることができないとされている、エルフの失伝した技術だ。それを再現したというだけでも、グラスは間違いなく天才だと呼べるだろう。
そんな彼女が作った妖精鏡を、無償で提供する。
俺は思わず、唾を飲み込んだ。
「……」
その上で、考える。
あまりにも、虫の良すぎる話だと。
確かに俺は、ノーマン領に大結界を構築した。グラスがこれからさらに妖精鏡を量産してくれたならば、大結界もさらに強固なものになってくれるだろう。
だが。
タダより高いものはない。
「……グラスさん」
「ああ、ぼくのことはグラスでいいよ。ファーストネームで呼びたいならば、エリザがおすすめだ。愛称で呼びたいと言うならばリズと呼んでくれてもいい。あと、その堅苦しい口調はやめてもらっていいかな。もっとフランクにいこうじゃないか」
「……俺に、何をしてほしいんだ?」
目を細めて。
にやにやと笑みを浮かべ続けるグラスへ、俺は短くそう問いかけた。
「等価交換が、錬金術の原則だよ」
グラスはそんな俺の問いに対して。
「ぼくは、《魔境》にいる魔物の素材が欲しい。雲魔龍の鱗、単眼鬼の眼球、森巨人の骨――想像するだけで、涎が出そうな代物ばかりだ」
「――っ!」
「そのためにぼくは、妖精鏡を投資する。そしてきみは、《魔境》に入ることができるための装備を……小型結界を作ることができる。そうだろう?」
そう。
極めて『変人の錬金術師』らしい答えを、返してきた。




