閑話:惰弱な王と卑しい貴族
ネードラント王国、王都ユーザリア。
大陸の覇権を握る、その大半を支配している大国である。東は海向こうの島国も全てがネードラント領であり、西側には幾つかの小国が点在しているだけだ。そして、そのほとんどがネードラントに従属している状態である。
そんなネードラント王国の最東端に存在しているのが、王国の昔からの頭痛の種――《魔境》だ。
「……ふむ」
ネードラント王国当代国王、ウヴァル三世は小さく嘆息した。
王国そのものは封建国家であり、王家が管理している国領というのはほとんどない。ほぼ全てが高位貴族の領地という形であり、王家が直轄しているのは極めて僅かな場所だ。
貴族同士で何かのトラブルでも起こらない限り、貴族領に対しては原則不可侵――それが、現在のネードラント王国の在り方でもあった。
それは同時に、並み居る貴族家こそがこの王国を支配していることと、ほぼ同じでもある。
「……それが、最善の方法だと言うか」
「ええ、陛下」
ウヴァル三世は、豊かに蓄えた白い顎髭を撫でながら、そう呟く。
玉座の間というわけではなく、王宮にある会議室――有事の際には高位貴族たちを集めるための円卓があるそこにいるのは、ウヴァル三世ともう一人だけだ。
でっぷりと太った、体中に肉という肉を蓄えた男である。しかしながら所作は流麗であり、佇まいに品があるのは、彼が生まれついての貴族だからだろう。しかし、太った男にあるような愛嬌はなく、むしろ落ち窪んだ目は凶相とすら思えるものだ。
彼こそ、大陸の東端――そこに存在する広大な領土を任せていた男。
ヴァーキア・ザッハーク侯爵である。
「重ねて申し上げますが……我が家に任せて下さっていた《魔境》の管理、ならびに大結界を維持することができなかったことは、深くお詫びを申し上げます」
「うむ」
「しかし何度でも言いますが、《魔境》の管理については封印都市に任せてこそいましたけれど、私は封印都市からの書類については全て目を通していました。その上で、大結界が崩壊するような可能性は、全くありませんでした」
「ふむ……」
ヴァーキアの言葉に、ウヴァル三世は深い溜息を吐く。
ザッハーク侯爵家は、まだネードラント王国が大陸の東に存在する小国だった頃からの、国の中心にいた大貴族である。
何せその信頼は、崩壊すれば世界の存亡の危機すら訪れる《魔境》の大結界――その管理を何代にもわたって任せているほどだ。十代前まで王を遡っても、ザッハーク領だけは他の貴族に任せている記録がない。
同時にそれだけ、権力を持っている貴族でもある。
神話にかくあり。
元々、《魔境》はエルフと魔族が繰り返し戦争を行っている場所だった。
魔法技術に優れたエルフは、《魔境》に存在する多数の魔物を、広範囲の攻撃魔法で殲滅するほどの力を持っていたとされる。
しかしエルフは長寿であり魔法技術に優れる反面、種としての繁殖力は非常に低く、時を重ねるごとにその数を減らしていった。それに比べて《魔境》の魔物は瘴気から生まれ、瘴気がある限りどれほどでも増え続けるという厄介な相手だったのだ。
そのためエルフは彼らを封じるために、瘴気ごと大陸の端に追いやり、大結界を構築した。
それによってようやくエルフにも平和が訪れたが、その時点で既にエルフは数人しか残っておらず、新たな子を育むこともなく死に絶えた。
最後のエルフは偉大なるネードラント一世に大結界を託し、この世を去ったとされる。
そして、エルフの滅亡から現在に至るまで数百年。
ネードラント一世は大結界の近くに封印都市を築き、決して大結界が崩壊せぬようにと最も信頼する部下に管理を任せた。
それが、ヴァーキアの祖先であるザッハーク侯爵家である。
「決して、大結界が崩壊する可能性はありませんでした。間違いなく、ノーマン侯爵家の仕業です。でなければ、あの領地に突然出現した大結界に対する、説明がつきません」
「うぅむ……」
ウヴァル三世は、再び顎髭を撫でる。
大結界が崩壊したという報せを、彼が聞いたのはつい昨日の話だ。
ザッハーク領の視察に向かっていた官吏が、急いで馬を走らせて報告してくれたのだ。封印都市の大結界が崩壊し、《魔境》の魔物たちがあふれ出していると。
その事態にウヴァル三世は、すぐに周辺貴族に触れを出し、兵を集めさせた。《魔境》から魔物を解き放してはならぬ、と。
しかし結果的に、それは徒労に終わった。
何故なら――まるでそれを見越していたかのように、新しい大結界が構築されたからである。
「ノーマン侯爵家が、大結界を作ることなどできるはずがありません。間違いなく、封印都市から盗んだものでしょう」
「……」
ヴァーキアは、そう強い語気で告げる。
最東端を任せていたのはザッハーク家だが、そのすぐ西側――ザッハーク領と隣接する場所を任せている貴族家は、ノーマン侯爵家だ。
そんなノーマン家が、まるで大結界が崩壊することを読んでいたかのように、すぐに自分の領地に新しい大結界を築き上げたのである。
その結果、ザッハーク領は《魔境》に全て呑み込まれ、《魔境》と隔てる最前線はノーマン領という形になった。
「恐らく、私も消そうと考えていたのでしょう。私が偶然、王都に来ていたから良かったものの……そのような暴挙、許すわけにはいきません。そうでしょう、陛下」
「うむ……しかし、証拠は」
「証拠など、あそこに存在する大結界で十分でしょう。人間に、大結界を作るような真似はできません。間違いなく、ノーマン侯爵家は封印都市から大結界を盗んだのです」
「むぅ……」
ヴァーキアの主張に、ウヴァル三世は眉を寄せる。
数百年、何の問題もなく動いていた大結界。それが突然崩壊し、それと共に新しくノーマン領に現れた大結界。
この状況に対して、ヴァーキアは「ノーマン侯爵家が大結界を盗んだ」と主張している。エルフの失われた技術である大結界を、人間に作ることなどできない、と。
「ノーマン侯爵家は大結界を盗み、ザッハーク領を崩壊させた。そしてノーマン領を《魔境》との最前線にするために、自領に大結界を張った……そう考えるのが自然でしょう」
「……」
ウヴァル三世は、目を閉じる。
大結界を盗んだかどうかはさておき、確かにノーマン領の動きには不自然な部分があるのだ。
しかし、ただ不自然というだけで断罪をするわけには――。
「だからこそ、私は最善を申し上げます」
そう、悩むウヴァル三世に向けて。
ヴァーキアは、下卑た笑みを浮かべて告げた。
「ノーマン侯爵の卑劣な企て、許すことはできません。ノーマン侯爵家は爵位剥奪、財産没収、ならびに国外追放が妥当です」
「……」
「そして旧ノーマン領は、そのままザッハーク家が管理いたします。よろしいですね?」
そんなヴァーキアの、目の奥に宿る欲望を隠そうともしていない言葉に。
王であれど、実質的に国を貴族に支配されている惰弱な王は。
「……良かろう」
一言、そう答えた。




