閑話:侯爵閣下との酒の席
時間は僅かに遡る。
「ダリア、わたしとソル君のお茶を用意してくれ」
「はい、承知いたしました」
ソルと共に長い旅路から戻ってから、ルキアへ帰還の挨拶を行った後。
ルキアからお茶の用意を命じられるのは、予想のうちではあったけれど――。
「そうだな……今日は良い日だ。ブランデーをたっぷり入れようじゃないか。わたしの秘蔵酒から、二十年ものを出してもいいぞ」
まずい。
その命令を受けたダリアは、まずそう思った。
何せ、ソルは酒に弱い。筋金入りに弱い。毎日、寝酒をグラス一杯分も飲めずに寝てしまうほど弱いのだ。
そして、酒の入ったソルは色々大胆なことを言ってきて、しかも本人は全く覚えていないという悪癖を持っている。さすがに、ルキアの前でそのような醜態を見せるわけにはいかないだろう。
どうにか、この事態を乗り越えなければ――。
「そちらは……ルキア様のものだけ入れたのでよろしいですか?」
「何を言っている。祝いの酒だよ。ソル君のカップにもたっぷり入れてくれ」
しかし。
ダリアの微かな抵抗も、あっさりとかき消される。
そしてダリアの、本来の主人はルキアだ。その命令に、逆らうことはできない。
「……は。少々お待ちください」
ダリアは退室し、そのまま厨房へと向かう。
ルキアは普段、ほとんど酒を嗜むことがないけれど、こういう場では割と高い酒を開けることがあるのだ。その銘柄を酒蔵から取り出し、お茶を沸かし、入れる。
どうにか、少しでもソルが正気を保てるように――そう考えて、カップ一つをかなりブランデー薄めに、もう一つを濃いめに入れた。このくらいならば、ソルもさすがに酔っ払うことはないだろう、と。
思わぬ事態に動揺しながらも、ひとまず湯気の立つカップを二つカートの上に置いて、ダリアは再び応接間へと戻る。
「お待たせいたしました」
呼吸を整えながら、ダリアはルキアの前、ソルの前にそれぞれカップを置く。
あとはこれで、ソルが酔わなければそれが一番なのだが――。
「い、いただきます……」
「ああ、飲んでくれ」
ソルが一口、紅茶を口に含む。
そして同時に、はっ、と目を見開いた。その驚いた様子に、ルキアがにんまりと口元を緩ませる。
同じく、ルキアが紅茶を口に運んで――。
「ん……?」
そう、ルキアが疑問に眉を寄せた。
「どうかなさいましたか、ルキア様」
「ダリア。きみにしては大変珍しいミスだが、薄すぎる。わたしは濃いめに入れるよう言ったはずだ」
「えっ……!」
同時に、ダリアは自分の顔から血の気が引くのが分かった。
酒に弱いソルのために入れた、非常に薄く作ったブランデー入りの紅茶。そして代わりに、おかわりを要求されないように、ルキアの分はかなり濃いめに入れていたのだ。
そのカップが――入れ替わっている。
つまり、ソルが今飲んだのは――。
「そ、そんな……!」
「む? いや、別段わたしは怒ってなどいないが……もう少し、濃く入れてくれると」
配るカップを間違えたせいで、ソルが醜態を見せる可能性がある。
そう考えると、今すぐにソルに駆け寄りたい気持ちすら芽生えた。しかしルキアの手前、そのような真似が出来るはずもない。
しかし、そんなダリアの前で、ソルは。
「これは……美味しいですね、ルキアさん」
「ほう。ソル君、きみにも違いが分かるかね?」
「えっ……」
「そうですね。普段飲んでいるものより、大分上等だということは分かります。さすがは、ルキアさんの秘蔵酒ですね」
「うむ。わたしはあまり酒を嗜まないからね。こうして時々飲める日は、良いものを飲もうと考えているのさ」
「なるほど」
ダリアの予想とは、大幅に外れて。
まるで変わった様子がなく、ルキアにそう話しかけていた。
そんなソルの様子に、ダリアは首を傾げる。間違いなく、片方はかなり濃いめに入れたはずなのに、と。
「ダリア、わたしの方にブランデーを追加してくれ」
「えっ……あ、は、はい。承知いたしました」
「……どうした、ダリア。何か心配事でもあるのかな?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
ルキアから渡されたカップを手に取り、ブランデーを入れる。
そして、まるで様子が変わらないソルを見ながら、頭の中を支配するのは疑問符だ。
もしかして、間違えて両方とも薄く作ったのだろうか――そう思ってしまうけれど、記憶の中では間違いなく片方を濃く作っている。
つまり濃く作ったはずの方を、ルキアが薄いと言い出したのか。
そう、ダリアは一瞬安心して――。
「ルキアさん。そういえば、考えていたことがあるのですが」
「ほう、何だねソル君」
「ダリアさんを、俺の愛人にしていただけるという件ですが」
「ああ、その話か」
「えっ……!?」
ふむ、とルキアは顎に手をやり、それからちらりとダリアを見た。
当然、ダリアからすればそんな話、寝耳に水である。
確かにダリアは、ルキアに報告をした。少なからず、自分がソルという男に惹かれていることを。主人に対してそのような想いを抱いてしまいました、と。
しかし、まさか。
それがルキアから、ソル本人に伝わっているとは全く考えておらず――。
「ダリアさんは綺麗ですし、とても魅力的な方です。ですので……俺のような男が愛人として囲うには、あまりにも勿体ない女性だと思います」
「ほう」
「それに、女性を愛人として扱うのは、不誠実なことだと思います。れすのれ、ルキアさんには申し訳ないのれすが、俺はダリアさんを愛人として見ることがれきません」
「……ほう。まぁ、きみは誠実だからね。そう言ってくるかもしれないとは、考えていたが」
ルキアが、ソルの言葉に頷く。
しかし、ソルの言葉の随所に、どこか呂律が回っていないところがあるのだけれど――。
「れすのれ」
「む……」
「ダリアさんを迎えるならば、俺の嫁として迎え入れたい!」
「ちょっ!? ソル様!?」
「ろうか! ダリアさんと結婚させてくらさいっ!」
「……」
ソルはカップを置き、そのまま頭を下げる。
まるでそれは、妻の実家に結婚の挨拶をするかのように――。
思わぬ事態に、ダリアは頭の回転が全く追いつかず、ソルとルキアの両方を眺めることしかできなかった。
「……なるほど」
ルキアは長い沈黙の末、そう溜息を吐き。
頭を下げたままのソルに向けて、僅かに微笑んだ。
「決意は固いようだね。きみがそこまで言うならば、認めようじゃないか」
「ルキア様!?」
「では愛人という形ではなく、ダリアを第二夫人ということにしよう。今後、きみは名誉伯爵という立場になる。妻が二人いても、何もおかしくはない」
ルキアがそう、寛大に告げる。
突然進んだ事態に、ダリアは状況を理解することができず。
ただ――今もなお頭を下げ続けるソルの、そんな姿を見て。
理解した。
「頭を上げたまえ。そうだね……いっそのこと、三人で揃いの結婚式にしてもいいかもしれない。わたしにとって、ダリアは家族のようなものだ。妙な形ではあるが、本当に家族という形になるのも……」
「……」
「……ソル君?」
「……ぐぅ」
ああ、やっぱり。
酔っ払っていた――と。
そんな、幸せそうに口元を緩めて、寝息を立てているソルに。
「ソル君は……どこまで本気で言ってきたのだろうな」
「……分かりかねます」
呆れて溜息を吐くルキア。
そしてダリアもまた、頭を抱えることしかできなかった。




