取り残された都市長
ジーク・タラントンは目の前で起こっていることが、まるで現実とは思えなかった。
自分が馬鹿にして、見下してきた男――『引きこもりのおっさん』ことソル・ラヴィアスによって見えない壁で拘束され、気付けばジークの体はノーマン領の外に出されていた。
そして、それと共に目の前で生じたのは、ジークが何度となく見たことのあるもの――かつて封印都市にその名を冠していた偉大なるエルフの技術。
大結界、だった。
大結界は、決して人間には作れない、エルフの叡智の結晶。
偉大なるエルフが人間のために残した、《魔境》と封印都市を隔てる、世界に唯一の存在だ。
絶対に、この場所に同じものがあるはずがない――そう、言い切れるほどに。
「何故……」
ジークはコネと人脈で、ろくに魔術も扱えないのに魔術師教会の会長に就任している。ゆえに、魔術師としては三流以下だという自覚もある。
そんな三流以下の魔術師でありながら、間違いなく告げていた。
これは――まさしく、大結界であると。
こんな場所に大結界があるなどあり得ないと叫ぶ理性を押さえ込むほどに、封印都市フィサエルで生まれ育ったジークにとって、それは見慣れたものだったのだ。
「何故……何故、ここに、大結界が……」
ジークが解雇し、封印都市を去ったソル。
そんな彼が大結界を作ったという言葉も、ジークは妄言でしかないと考えていた。エルフの遺物である大結界が、人間如きに作れるはずがない――そう、信じていた。
だが、ここに存在しているのは間違いなく本物。
魔術師としての目が、それを偽物だと叫ぶことすら許さない。それほどまでに、圧倒的な存在感を持つ大結界。
「本当に、あいつが……作ったというのか」
ジークは自由になった手を、額にあてる。
大結界が生じた瞬間に、解かれた拘束。それは大結界によって、ソルから《結界》への魔力供給が遮られたゆえだろう。
大結界の向こうには、魔力すら届かない――それは、封印都市で育ったジークならば知っていることだ。
「何故だ……私が、間違っていた……のか……?」
ジークが都市長に就任して、人員を削減し続けた大結界の管理部。
最初は、慎重に事を運んでいたつもりだった。前都市長が絶対に維持しなければならないと断言していたこともあり、何か異常でも見つかれば、すぐに元に戻そうと考えていた。
だが、ジークがどれほど人員を削っても、どれほど待遇を悪くしても、大結界には何の異常も起こらなかった。
加えて、他の貴族との取引材料になるかと考えて、大結界の大元から一部を取り除いても、特に大きな異常は発生しなかった。やはりエルフの叡智の結晶であるがゆえに、自然治癒力を持っていたのだろう。
そんな日々を過ごしているうちに、ジークは考えた。
最初から、管理部など必要なかったのではないか、と。
何せ最初は十人もいた管理部の人数が、一人になっても状況が何一つ変わらないのだ。最初からそれほどの人数も必要なく、むしろ仕事などしていない――そう断定してしまった。
だからこそ、ジークはソルを解雇したのだ。
十人が一人になって状況が変わらないのならば、一人がゼロになっても変わるまい、と。
それが――最大の間違いだった。
「そうか……」
大結界の管理に、人員など必要ない――そう断じたのは、ジークだった。
引きこもりのおっさんと名高かったソルに、直接解雇を言い渡したのも、ジークだった。
度々秘書が持ってきた大結界に関する報告書を、引きこもりのおっさんの妄言が書かれているだけと一笑して目を通さなかったのも、ジークだった。
順調な人生を、歩んでいるはずだった。
封印都市フィサエルの都市長として功績を重ね、ザッハーク侯爵に取り入り、いずれは男爵位を叙爵してもらう予定だった。貴族の一員となり、己の名を歴史に残す――そう、息巻いていた。
だが、現実はどうだ。
唯一フィサエルだけが持っていた、エルフの叡智――大結界は無惨に破壊され、都市に侵入してきた魔物たちによって住民たちは蹂躙され、ザッハーク領から逃げてきた流民たちと共に、大結界の外側に取り残される始末だ。
《魔境》において、人間が生き残る道はない。
それは――封印都市にいたジークだからこそ、知っている。
「ははは……なんという滑稽な奴だよ、私は」
都市長として、フィサエルの管理費用を少しでも削減しようと、ソルを解雇した。
たった一人だけ残っていた、大結界の管理部――その極めて僅かな費用を、削減した。
ソルに掛かっていた費用は、年間で金貨二枚少々だ。それこそ、市井の労働者の方がもう少し稼いでいるくらいの年収でしかない。封印都市の管理維持費の総額を考えれば、それこそ微々たる金額だとさえ言っていいだろう。
そんな極めて僅かな費用を惜しんで、ソルを解雇したことが、全ての間違いだったのだ。
「だが……まだ、諦めん……!」
ジークは、ゆっくりと背後を振り返る。
既に見える位置にまで迫っている瘴気。それがこの内部を覆い尽くすことで、かつてザッハーク領だった部分は全て、《魔境》の一部になるだろう。
それと共に迫ってくるのは、遥か遠いここからでも分かるくらいに、巨大な魔物たち。
だが、まだその距離は遠い。
そして、ジークは知っている。《魔境》の魔物たちは、瘴気がなければ生きていくことができない。つまり瘴気がここにやってくるまでは、魔物もここに来ないということだ。
「どうせ、奴の作った大結界だ……きっと、穴はある! 私ならば、それを見つけることだってできる!」
ゆえに、魔物がここに辿り着く前に、大結界の穴を見つける。
それが出来るのは、生まれた時から大結界が近くにあり、都市長として何度となく近くで見てきたジークだけだ。
少しでも魔力の薄い場所や、起動が不安定な場所――そこを探し出すことができれば、大結界を潜り抜けることも不可能ではない。
偉大なるエルフが作ったものならばまだしも、これはソルの作った大結界だ。
絶対に、そこには欠陥がある――そう、信じて。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ!!」
「ひぃっ!? こ、来ないでぇっ!」
「な、何だぁ!? ぎゃあぁっ!」
「む……」
しかし。
そんなジークの背後から聞こえてきたのは、絶叫。
流民たちの集団が吹き飛ばされ、千切られ、血飛沫が舞う。ただの一撃で数多の命の灯が消える、絶大な威力を持つ吐息によるものだ。
その吐息を放ったのは、まるで雲のように巨大な龍。
かつてジークが、大結界を隔ててしか見たことがなかった――雲魔龍。
「なっ――!」
《魔境》に生きる魔物は、瘴気がなければ生きていけない。
だからこそ逆説的に、瘴気が来ていない限りは、魔物もここまで来ることはできない。
そんなジークの予想を裏切るかのように。
巨大なる雲の暴虐は、顎門を開いて。
「■■■■■■■■――――!!!」
今まで大結界に遮られて聞いたことのなかった、空が戦慄くような叫び声と共に。
ジークの視界を覆ったのは、全てを灼き尽くす真っ白な光だった。




