琴美と一葉 9
ある日の放課後のことだった。この日は顧問が出張だか研究会だかで不在であり、美術部は臨時休部。
本来なら誰もいない美術室に高堂一葉は一人、座っていた。
何も描かれていないキャンバスを前にどれくらい経っただろうか。新しく買い換えられたイーゼルが自分の存在意義を発揮できる時を黙って待っているようにも見える。
だが、今日はその時ではないらしい。
ポンポンポンポーン、木琴の音に一葉はわずかに顔を上げた。
『皆様ごきげんよう、夕べの放送です』
聞きなれた声にしばし耳を傾ける。どうやら今日はこのまま晴れているらしい。
翌日の授業に迷惑をかけないようキャンバスとイーゼルを準備室へ片付け、美術室から出る頃には放送は終わりを迎えようとしていた。
『それでは、本日の夕べの放送を終了いたします。放送委員、及川琴美がお送りいたしました』
テスト週間が明け、部活動が再開されても2人は会っていなかった。
そもそも一葉は目的のある絵を描くために居残っているのだ。それがなければ残らない。
そうでなくとも、次は3年生となる一葉は面談や進路説明会など忙しくなってきている。琴美も委員会や個人面談などが重なり、放課後はそれらを片付けることが最優先となる。
学園内は広く、学年が違う2人は偶然すれ違うことも容易ではないのだ。
気づけば、お互いの顔を見ていない期間は、数週間ではきかなくなっていた。
「・・・あれ?」
靴を履き替え、一歩校舎から外に出た琴美が見つけたのは、黒髪の美しい少女だった。
何をしているでもなく、真正面を向いたままの横顔は見る人が見れば怒っているように、また別の人が見れば無表情に、人によっては憂い顔にも見えるだろう。
ただ1つ共通しているのは、“近寄りがたい”ということだ。
「高堂様!」
しかしそんなもの、琴美にはなんでもないのだ。彼女からすれば、一葉はただぼんやりとしているだけ。
呼びかけに反応しこちらを向いた一葉に笑顔で近づいていく。
「ごきげんよう。待ち合わせですか?」
「あなたの放送が聞こえたから、そろそろ出てくるんじゃないかしらと思って」
その返答に一拍置いて、琴美の表情が輝いた。
「待っていてくださったんですか?!」
「・・・別に、少しして来なかったらこのまま帰るつもりだったから。待っていたわけではないわ」
こんな時、琴美の素直さがむずがゆい。一葉はくるりと背を向け、正門へと歩き出した。
“あっ”と声を上げ、慌てて隣に並ぶ琴美は嬉しそうだ。
「・・・なんだか、お久しぶりですね」
「そう?」
「そうですよ。朝お見かけすることもなかったですし」
「そんな時もあるでしょう。この学園は広いのだから」
“そうですけどー”と頬を膨らます琴美だが、一葉が意に介す様子はない。
“そういえば、”などと相変わらずそっけない声で切り出した様子を見ると、気づいてさえいえないのかもしれない。
「これ、あげるわ」
そう言いながら鞄から取り出したのは長方形の紙一枚。一葉が手を離せば簡単に飛んでいってしまいそうなそれは、美術館の入場チケットだった。
「えっと・・・これはいったい?」
「今出展してある絵、出展作品は全てそこに飾られるの。それはひとまず、参加賞のようなもの」
「・・・え?!」
“今出展してある絵”。琴美は首が飛んでいってしまいそうな勢いで一葉を振り返る。
「絵って・・・絵ってどの絵ですか?!」
「どの絵って・・・あなたは知らないわよ。見ていないのだから」
「そんな、いつのまに・・・」
「家で描いていたから。今回は学園を描くのではなかったから、居残って描く理由も無かったし」
平然と言い放つ一葉に対し、琴美ががっくりと肩を落とす。
愛してやまない一葉の絵。一枚完成するまでの過程を彼女は一通り見られなかったということだ。
あまりにも落ち込んでいる琴美を見る一葉の表情は、心配を通り越して呆れている。“大げさね”と呟いた声は琴美に届いただろうか。
「でも、これ・・・私がいただいていいのですか?」
「あなた、結局は見に行くでしょう?」
「もちろんです」
「・・・だったらお使いなさい。私が持っていても仕方が無いから」
「ありがとうございます」
見られなかったものは仕方が無い。諦めは思いのほかすんなり済んだようで、今度は入場券を見つめて嬉しそうに笑っている。
「一番になった絵は、やっぱり一番目立つところに飾られるのでしょうね」
「まぁ・・・そうでしょうね」
「目立つ所に置くにしても、高堂様の絵は派手な額縁よりシンプルな方がいいと思うんです!」
「何を言っているの。まだ結果は出ていないわよ」
「何をおっしゃいます!高堂様が一番に決まっていますよ!」
その自信はどこからやってくるのかと一葉は問いたくなった。だがあまりにも自信満々の様子で“楽しみだなぁ”などと笑っている琴美を見るうち、どうでもよくなったのか開きかけた口で違う言葉を探した。
「・・・一枚しかなくて、ごめんなさいね。もう1枚あったのだけれど、姉が欲しがったから」
「いえ、そんな!・・・会長はきっと初日に行かれるのでしょうね。私もですけれど」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「だって、私達は高堂様の絵が大好きですから」
うふふと笑う琴美に“何を言っているのだか”と一葉は顔を逸らす。気恥ずかしいのだろう、耳が少し赤い。
「高堂様も初日、行かれます?」
「まぁ、参加者だから・・・一応、ね」
「じゃあ、その時にお会いできますね!」
そしてまた入場券を見つめ、“楽しみだなぁ”と呟く。
遊園地や旅行に行くわけではない、ただ自分の絵を見に行くだけだというのに、心から嬉しそうに笑う琴美が不思議で、一葉はその表情に釘付けになった。
だが、その視線に気づいたのか琴美が彼女を見ると、スッと目を逸らしてしまう。
「あなた、ひまわりはお好き?」
「え、ゴッホですか?」
「違うわよ、本物のひまわり。花の方」
「えっと、好きですよ」
「そう。ならいいわ」
“何がですか?”と聞いても、一葉はそれ以上、その話題を続けようとはしなかった。
次の週末、琴美は一人、美術館の前に立っていた。
ここは琴美の通学路の途中にあり、いつもはあまり人がいない印象だ。琴美自身も授業の一環で一度だけ訪れたことがある程度である。だが開館何周年かの記念とあって、有名画家の展示が催されているせいか今日は人が多い。
バッグの中から入場券を取り出し、場所と日にちを確認すると、人の流れに乗って中へと入った。
広々としたロビーでは多くの人が未だ談笑している。だがこれも順路へ足を踏み入れれば、途端に静まり返るのだろう。
コンクールの展示がされているのはどこだろうかと、壁に掲げられた館内案内に目を通していると、後ろからそっと肩を叩かれた。
「及川さんっ」
場所を気にしてだろう、少し声量を落としたその声に振り返れば、笑顔の揚葉が立っていた。
“あっ”と思わず上げてしまった声を抑えるように、琴美は慌てて口を手で塞ぐ。
「ご、ごきげんよう」
「えぇ、ごきげんよう。あら?制服で来たの?」
そう、琴美は制服で訪れていた。一方の揚葉は落ち着いた色合いのブラウスにスカートといった私服である。
揚葉の指摘に琴美は恥ずかしそうに笑った。
「こういった所にはあまり来ないもので、何を着ていいのかわからなくて。変、でしょうか?」
「いいえ?いいんじゃないかしら。制服は学生にとっては正装だもの」
“よかった”と胸をなでおろす琴美に、揚葉はいっそう優しく微笑みかける。
「及川さんは今来たのね。私はさっき見てきた所なのよ」
「本当ですか!どちらにあるのか教えていただけませんか?」
「そうね、案内してあげる。他の展示物は見ない?」
「それはまた今度で・・・」
“今度”などという機会はあるのだろうか。
琴美はもちろん、揚葉もそれはわかっていたのだろうが笑うだけで何も言わない。“こっちよ”と今来たのであろう道を引き返す彼女に琴美は素直に追従した。
通路に敷かれた真っ赤なカーペットの上を揚葉はどんどん進んでいく。幾人もの人とすれ違うのだが、多くの人が自分を見ていくような、少し驚いた顔さえする人もいるような気がして琴美はわけもわからないまま恥ずかしくなってきた。
その様子に気づいたのか、揚葉が振り返った。
「どうしたの?」
「いえ、あの・・・やっぱり休日に制服というのは変だったでしょうか?なんだか、見られているような・・・」
「あぁ・・・まぁ、仕方ないわよ。気にしなくて大丈夫」
何が仕方ないのか説明もなく、“あはは”と笑って再び揚葉は進み始めた。
やがて、飾られている絵の雰囲気と展示の仕方が変わった。コンクールの展示スペースに入ったのだと気づくと、琴美の胸が高鳴る。一枚の壁に複数枚飾られている作品達とは違い、揚葉の向こう、突き当たりの壁には絵が1枚だけ掲げてある。そこまでは遠く、まだ絵は小さくしか見えないがあれが最優秀賞であろう。今回一葉はどんな絵を描いたのだろうかと思うと、他の絵は目に入らなかった。
だが、絵に近づいていくにつれ琴美の表情から輝きが消えていく。だんだんはっきりと見えてきたその絵は、一葉のものと雰囲気が違うのだ。
絵の前にたどり着き、作者名とタイトルが明確に見える頃には、揚葉も残念そうな微笑で琴美を見ていた。
「まぁ、こんなこともあるわよね」
「・・・そうですね」
湖面の美しいその絵の作者は、琴美の知らない人物だった。
“でもね、”と揚葉はにっこりと笑い、琴美の両肩を後ろから掴んだ。驚く間もなく、そのまま体を右に向けられた琴美は一瞬、息の仕方を忘れた。
そこに飾られていた2枚の絵。両方が順位で言えばに当たる2位、優秀賞を受賞した絵だ。そのうちの1枚の絵の中で自分が笑っていた。
現実の琴美は驚きで固まっているというのに、絵の中の琴美は制服姿で抱えきれないほどのひまわりを胸に抱き、屈託の無い笑顔をこちらに向けている。パニックで心臓がとんでもない速さで脈打っているというのに、妙に冷静な頭で“あぁ、だからみんな見ていたんだ”と納得した。
「ほら、ここ」
後ろから揚葉の指が絵の下を指す。そこには高堂一葉の名前と、絵のタイトルが記されていた。
タイトルが目に入った瞬間、琴美はカッと顔が熱くなるのを感じ、揚葉を振り返る。
「あの、今日、高堂様は?!」
「あの子、注目されるの嫌いだから逃げちゃってるの。この裏に公園があるのご存知?そこよ」
「ありがとうございます!」
深く頭を下げ、今入ってきたばかりの入場口へ小走りで向かう背中を見送りながら、揚葉は満足そうに“うんうん”と頷いた。
その小さな公園は、美術館の背に隠れているせいか昼間だというのにほとんど人がいない。
犬の散歩をする老夫婦とすれ違い、遠くで子どもの声もしたが、後は誰もいないようだ。
そこにたどり着いた琴美は息を切らしながら周囲を見回した。心臓が早鐘の打つのはただ走ってきたことだけが理由だろうか。
前方を見て、右を見て、左を見る。少し離れた所から見知った少女が歩いてくるのが見えて、たまらず駆け寄った。
「高堂様っ!」
その声で琴美の存在を見つけたらしい一葉は、動じる様子もなく“あら”と声を発した。
「もう来ていたのね。そろそろかと思って、戻るところだったのよ」
「は、はい・・・っええと・・・っ」
「・・・あら、あなた制服で来たのね」
そう言う彼女も制服だ。授賞式に出ていたのなら、当たり前のことではある。白鷺学園高等部の制服を着た美しい少女が賞を取った。また学園の名に一輪、花を添えたわけである。
「えっと・・・あ、受賞、おめでとうございます!」
「ありがとう。・・・久しぶりに描いたから、やっぱり一番にはなれなかったわ」
「で、でも、でも・・・っやっぱり、綺麗、でした」
絵の話が出た途端、琴美の顔が熱くなる。
綺麗だと思ったのは本当だ。だが、今したいのはこんな話ではない。
いつからだろうか、琴美は一葉から貰いたい言葉があった。あの絵にはそれがこめられていた。その話がしたいと思った。
きっと、一葉もその話をしたいはずなのに何も言わず、じっと琴美を見つめている。少しだけ微笑んでいるようなその表情は、以前より少し自然になったように見えた。
琴美の息が整ってなお、お互いに切り出さない我慢比べは続き、やがて琴美が情けない声を上げたことでそれは終わった。
「何か言ってくださいよぉ」
今にも泣き出しそうな声に、一葉が少し笑う。
「“何か”?・・・そうねぇ・・・」
この空気を楽しむかのように、一葉が間を空ける。ザァッと強い風が吹いて、彼女の黒髪を流した。
顔にかかるそれを指で掬い、耳にかける。その瞬間、一瞬だけ伏せられた目がまたすぐに琴美を捉えた。
「あなた、私の妹になりなさい」
凛とした声が風に溶け、空へ抜けた。
未だ人の多い美術館の中。揚葉は血の繋がった妹が描いた絵を前に、目を細める。
「大胆なプロポーズね」
係員に見つからないように、指先だけでそっと絵のタイトルを撫でる。
【妹】、機械で記された無機質なその文字には、溢れんばかりのぬくもりが込められている気がした。
ありがとうございました。次の主人公に引き継ぎます。




