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葉隠桜は嘆かない  作者: 玖洞
一章

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2/212

2.始まりの日

 ――『彼』の運命がねじ曲がったのは、九月。

 少女が魔獣に襲われかけたあの日から、およそ二か月前のことになる。



 ◆ ◆ ◆



 それは、家へ帰る途中の出来事だった。


 遠くで巻き起こる爆音を背に、七瀬(ななせ)(つぐみ)は血の滴る脇腹を押さえていた。制服は裂け、白いシャツは毒々しいほど真紅に染まっている。


「なんだって、こんなことに……」


 ――今にして思えば、今日は朝からついていなかった。


 そんなことを思いながら、鶫は霞む意識の中で今朝の出来事を辿っていた。



 ◆ ◆ ◆



 その日は、朝から小さな不運が積み重なっていた。


 目覚ましは何故か鳴らず、双子の姉には「起きてこないから」と置いて行かれ、遅刻覚悟で飛び乗った電車は人身事故で立ち往生。

 極めつけに、駅から学校までの短い道でゲリラ豪雨に降られ、全身びしょ濡れ。まさに踏んだり蹴ったりだった。


「……どう考えてもおかしいだろ。一つだけならまだしも、普通あんなに不運が重なるか? おかげで学校に着いたのは昼休憩の時間帯だ。ああ、一日を無駄にした気分だ」


 辟易しながら愚痴る鶫に、話を聞いていた友人が呆れたように顔を上げた。


「――そういう時もあるって。鶫ちゃんの日頃の行いが悪かったんじゃない?」


「適当なこと言うなよ。別に俺は変なことなんてしてない。……それに俺は、お前だけには日頃の行いを語られたくないんだが」


 不満げに言い返すと、友人――天吏行貴(あまりゆきたか)は驚いたように声を上げた。


「えっ、心外なんだけど」


 まるで「そんなこと思ってもみなかった」と言いたげに文句を言う。

 ……どの口が言うのか。鶫は疲れたように溜息を吐いた。


「そういえばお前さ、昨日の帰りに後輩の女子に叩かれてただろ。まさかまた二股でもやらかしたのか?」


「あれ、鶫ちゃん僕より先に帰ったのになんで知ってるの?」


「動画付きで解説が送られてきた。見るか?」


 派手に叩かれている映像を見せ、「いい角度の平手打ちだったな」と笑うと、行貴は憤慨したように叫んだ。


「何これひっど!! こんなの撮った奴誰だよ!!」


「芽吹先輩とうちのクラスの愉快な仲間たちだよ」


 鶫はあっさりと送り主を告げた。本人たちがノリノリで拡散しているのだから、別に隠す必要もない。


「あの腹黒眼鏡と馬鹿どもめ……。僕が女の子に人気があるからって、こんな陰険な真似をするなんて」


「あー、うん。確かにお前はモテるけどさぁ、それは別件だと思うぞ」


 ――嫉妬とかそんな理由ではなく、ただ単純にお前があの人達に嫌われているだけなんだけどなぁ。


 そう心の中でだけ呟き、鶫はそっと胃のあたりを押さえた。


「じゃあなに? あいつらの推しの魔法少女の不祥事疑惑をネットで晒したから? それともあいつらの友達の彼女が、僕の方がいいって乗り換えたから?」


「……ちょっと待て。そんな話、俺は一度も聞いたことないぞ」


「えー、じゃあどれのことだろう。――ま、でもこの程度で怒るなんて器が小さいよねぇ。嫌になっちゃうよ」


「……俺、いつかお前が誰かに刺されて死んだらインタビューでこう答えるんだ。『いつかこうなると思ってました』って」


「あはは、僕はそんなへまはしないって!」


 鶫がしみじみとそう言うと、行貴は軽く笑い飛ばした。そのお気楽さに、もはや恐怖すら覚える。


 だが、まるで人格破綻者のような言動なのにどこか憎めない愛嬌があるのは、行貴の容姿のせいだろう。


 ……この友人は、見た目だけ(・・)はすこぶる整っている。

 例えるなら、紅顔の美少年という存在がそのまま現世に表れたかのような美少年顔である。

 それに頭も悪くないし、言動自体は人懐っこくて好感が持てる。まぁその中身に限って言えば、お世辞にも褒められたものではないが。


『人が嫌がったり怒ったりしてる顔が大好き!』と人目も憚らず公言するこの友人は、当然ながら敵が多い。仲の良い人間を探す方が難しいほどだ。


 容姿に惹かれて寄ってくる女性は少なくないが、大抵は数日で幻滅し、激怒して去っていく。

 中には妙に心酔して信者のようになる者もいるが……その辺は触れたくない。いくら友人でも知りたくないことはある。


「程ほどにしておけよ。俺は嫌だぞ、身近で殺人事件が起こるのは。巻き込まれて怪我しそうだし」


 鶫が呆れたように言うと、行貴は楽しげに笑った。


「あははっ。そこで『お前が心配なんだ』とか言わないのが鶫ちゃんらしいよね」


「だってお前、俺の忠告なんか聞いた試しがないだろう? どれだけ一緒にいると思ってるんだ。それくらい俺でも学習するさ」


 長い付き合いだ。扱い方くらいは理解している。

 ……なのに、なぜかいつも割を食うのは自分の方なのだ。去年の騒動を思い出し、鶫は痛む頭を押さえた。


「それにしてもさぁ、鶫ちゃんって本当にタイミング悪いよね。今日くらい休んだってよかったのに」


「何でだよ。色々あって遅刻はしたけど、ちゃんと登校してきたんだぞ? ここで午後の授業まで出なかったら、後で千鳥(ちどり)に何を言われるか……」


 そう言って鶫は苦い表情を浮かべた。千鳥とは、鶫の双子の姉である。……あの優等生の姉が、弟――つまり鶫が授業をさぼった事を知ったら、後で何を言われるか分かったものではない。


 そう告げると、行貴は大仰に肩をすくめながら話し始めた。


「鶫ちゃんは朝礼にいなかったから知らないだろうけど、午後の授業は急遽全校集会に変わったんだよ。ほら、三年に有名な魔法少女がいたじゃん? 佐藤なんちゃらさん。その人が殉職したらしくてさぁ、送別会みたいなのをやるらしいんだけど……鶫ちゃん興味ないでしょ?」


「……つまり、単位の心配はしなくてもよかったのか」


 そう答えながら、鶫はその殉職したという先輩のことを思い浮かべた。

 佐藤……確か美智子とかそんな名前だった気がする。

 有名な先輩らしいが、交友関係の狭い鶫には薄い印象しかない。


 鶫は周囲を見回し、小声で行貴に言った。


「それにしても殉職か。――あまり大きな声じゃ言えないが、そんなに珍しいことではないよな。魔法少女の死亡率ってかなり高いって聞くし」


「まあね。今でも年間百人以上は死んでるもんね。魔法少女になって五年は経ってたらしいし、平均よりは優秀だったんじゃない?」


 ――魔法少女、というのは実に可愛らしい呼称ではあるが、その実態はかなり殺伐としている。


 彼女たちは、魔獣と戦うために人ならざる者――いわゆる『神様』と契約を交わした人間兵器(・・・・)なのだから。


 ――三十年前、日本に突如魔獣が現れ国は崩壊寸前となった。

 国民が滅びを覚悟しかけたその時――始まりの『魔法少女』が現れた。


 少女の名は咲良紅音(さくらあかね)

 彼女は巫女のような装束をまとい、彗星のごとく戦場を駆け抜け、魔獣を駆逐していった。


 彼女の存在は劇的で、最初は「魔獣を倒す女の子がいる」という噂にすぎなかったが、やがて生存者なら誰もがその名を知るようになった。


 その情報をつかんだ政府は、朔良紅音の契約者・八咫烏と名乗るモノと接触し、その背後にいる天照大御神と契約を結ぶことに成功した。


 天照曰く、魔獣とは空の裂け目から漏れたエネルギーが形を得た概念生命体であり、人の強い感情――主に恐怖を糧にしているらしい。その糧を得るため、魔獣は人間に害を与えているのだ。


 そうして政府と契約し日本の支配者となった天照は、魔獣の侵攻を防ぐため日本全土を覆う結界『天ノ岩戸』を築き、悪意ある神を弾く術式を大地に刻んだ。


 さらに天照は他の神々と交渉し、適性のある少女と契約させることで魔獣に対抗する兵士(・・)を作り上げていった。


 神々は基本的に暇を持て余している。そう判断した天照はそのための遊技――神と契約した人間と魔獣の闘争を提供したのだ。


 人間は生存のために身を差し出し、神々は娯楽のために力を貸す――その利害調整の果てに成立したのが『魔法少女』というシステムである。


 そして時は流れ、魔法少女の活躍と魔獣エネルギーの利用技術により、日本は『開闢の日』から十年で復興。国交回復の打診も拒否し、国内だけで自立する道を選んだのだ。


 だが、光があれば闇もある。


 始まりの魔法少女となった朔良紅音は魔法少女となって八年後、強大な魔獣と相打って殉職した。

 今でも、年に数百人もの少女たちが命を散らしている。


 こうして人々は、魔法少女の犠牲の上に新たな平和を築いたのである。


 ちなみに魔法少女になれる年齢は十二歳からと定められているが、十年以上続ける者はほとんどいない。


 聞こえはいいが、魔法少女とはひと月に何十人もの殉職者が出る危険な職業であり、多くは五年以内で引退する。


 ――ただし、生き残れば地位も名誉も金も手に入る。ハイリスク・ハイリターンとはまさにこのことだ。


 最近では有名な魔法少女はアイドルのように扱われ、人気投票やイベントなど、平和維持以外でも忙しいらしい。


 そのせいで、始まりの地獄を知らない鶫のような少しひねた人間には、『魔法少女』という存在にいまいち良い印象が持てないでいた。


 ――彼女たちが英雄であることは理解している。

 だが、それと不信感は別の話だ。


 ……それにしても、そんな激戦区で長く戦ってきたというのに、その先輩とやらも運が悪い。


「それにしても集会か。……正直面倒だな」


 そうつまらなそうに呟く鶫に、行貴は面白いものでも見つけたように目を細めた。


「鶫ちゃんてば、人混み嫌いだもんね」


「避難所に押し込まれてるみたいで息が詰まるんだよ。こればかりはどうしようもない」


 行貴が言うように、授業がないならば別に一人くらい帰っても問題は無いのかもしれない。鶫はそう思いながら、頬杖をついた。


「やっぱり俺も帰ろうかな。千鳥も俺がああいうの苦手なの知ってるし、そこまで怒らないはず……あっ」


「どうしたの?」


「いや、一応千鳥に連絡しようと思ったんだけど、携帯の充電が切れてた。悪いけど、代わりに連絡してもらってもいいか?」


「うん、いいけど貸し一つね」


 行貴はそう言うと、携帯のカメラを鶫に向けてパシャリと写真を撮った。

 すぐに何か編集を施し、画面を鶫に見せる。そこには、どこか青白い顔をした鶫が映っていた。


「上手く編集できてるでしょ。千鳥ちゃんには『顔色が悪いから帰らせた』って送っておいてあげる」


「……あー、うん。ありがとう。助かった」


 ……偽装ありきで写真を送ることを咎めるべきか、鶫が姉に怒られないように気遣ってくれたことを感謝するべきか。

 だが、姉に怒られないよう気遣ってくれたのも事実だ。

 少し迷った末に、鶫は礼を言った。行貴もきっと悪気はないはずだ――多分。


 鶫が礼を言うと、行貴は気にした様子もなく荷物をまとめ始めた。

 そして女子のような無駄にゴテゴテした小物類を鞄に詰め終え、鶫の方を向いて言った。


「じゃあ僕もそろそろ帰るから。鶫ちゃんも帰り道は気をつけてね。まぁ警報も持ってるだろうし大丈夫だろうけど。――あ、もし渚ちゃんに会ったら僕が早退したって言っといて」


 ぽん、と労わるように肩を叩き、行貴はひらひらと手を振って教室を出ていった。

 本当に、自由な男だ。


 そうして鶫が周囲を見渡すと、すでにクラスメイトの半数以上が姿を消していた。

 ……いくら成績に響かないとはいえ、これはひどい。

 だが、元々鶫の所属している二年F組は問題児が集まったクラスである。むしろ全校集会なんてまともに出席する奴の方が少ない。


 自分のことを棚に上げつつ、鶫はやれやれと肩を竦め、窓の外を見た。

 さっきまでの豪雨が嘘のように、青空が広がり、美しい虹までかかっている。


 鶫は理不尽さを覚えながら空を睨んでいたが、やがて諦めたように息を吐き、カバンを担ぎ直した。

 自然現象を恨んでも仕方がない。忘れるに限る。


 そう思い、教室のドアを開けたその瞬間――外から入ってこようとした人物とぶつかりそうになった。


 扉に手をかけ損ね、前のめりによろめいた人物を、鶫は思わず抱き留めた。

 甘い香りが鼻をくすぐる。


「あ、あら。ごめんなさい。先生ちょっとうっかりしていて……」


「涼音先生、この前もそう言って階段から落ちそうになってませんでした? 気を付けてくださいよ」


 鶫がそう言うと、教師――涼音渚(すずねなぎさ)は恥ずかしそうに頬を染めた。

 鶫は呆れたように注意しながら、そっと手を離す。


 ――彼女は鶫のクラスの担任だが、年上とは思えないほど頼りなく、おっとりしていて目が離せない危うさがある。

 そのせいか、問題児揃いのこのクラスでも反発されることなく、どこかマスコットのように扱われていた。


 本人はその扱いが不満らしいが、四月の外部オリエンテーションで生徒を差し置いて真っ先に迷子になったことを思えば、順当な扱いだ。


 ちなみにその時は、我の強いクラスメイトたちですら一致団結して迷子の教師を探した。

 そのおかげか、例年なら授業崩壊寸前と言われる悪名高いF組も、今ではそれなりにまとまりがある。……あくまで“それなり”だが。


 あの時はもしかしてこれが狙いだったのか、と一瞬思ったこともある。

 だが日々の天然ぶりを見る限り、むしろあちらが素なのだろうと、やるせない気持ちになる。

 二十六歳の大人がこれでいいのか――そんな心配すら湧いてくる。


 涼音は人の少ない教室を見渡し、おろおろと視線を彷徨わせていた。

 いくら鈍い彼女でも、この状況の異常さには気づいたらしい。


「……もしかして、今いない子達はもう帰ってしまったのかしら」


「あー、その、多分そうでしょうね」


「えぇ、そんな、ひどい……」


 か細い声で呟くと、涼音の目に涙が滲んだ。


 ――あ、やばい。


 そう思った時にはもう遅かった。


 キラキラとした大粒の涙が、重力に負けてぽろりと落ちる。

 その様子を見ていたクラスメイトたちが、嬉々として声を上げた。


「あー! 七瀬の奴が渚ちゃん泣かせてる」


「おいおい何やってんだよ。渚せんせーが可哀想だろー?」


 けらけらと笑いながら、残っていたクラスメイトたちが次々に野次を飛ばす。

 ……ああ、これだから困るんだ。

 内心げんなりしつつも、鶫は向き直った。


「俺のせいじゃないだろこれは。文句は早退した連中に言えよ」


 ぐすぐすと泣き出した涼音の背を軽く叩きながら、鶫は不満げに言い返す。


「だってお前も集会に出ずに帰るんだろ? なら一緒じゃん」


「ぐっ、それは……そうだけど」


 クラスメイトの言う事ももっともである。

 こっそり帰るつもりだったが、担任に会ってしまった以上、早退の旨は伝えなければならない。

 だが、涙をこぼす彼女に「帰ります」と告げるのは、さすがに心苦しい。


 だってもう既にクラスの半数以上がこの場からいなくなっているのだ。こんな状態で全校集会が開かれれば、後で担任である彼女が他の教師に責められることは必至だろう。


 ……流石に可哀想だから残った方がいいかもしれない。

 鶫がそう悩み始めた時、涼音が濡れた瞳でじっと鶫を見つめていることに気づいた。


「先生? どうかしました?」


 もしかして帰ると言ったことを責められるのか――そう身構えた鶫に、涼音はそっと言った。


「――七瀬君。大丈夫?」


 それは、ひどく心配そうな声音だった。


 何を問われたのか理解できず、鶫は思わず聞き返した。


「何がですか?」


 鶫がそう尋ねると、涼音は少し言いにくそうにしながらも口を開いた。


「あのね、もし体調が悪いなら無理はしなくてもいいの。学年主任には、ちゃんと先生が説明しておくから……」


 普段はクラスの者が休んだり早退しようとすると悲壮な顔で止めにかかるのに、一体どういう風の吹き回しだろうか。

 その変化に内心首を傾げつつ、鶫は言った。


「えっと、俺そんなに体調悪そうに見えます?」


「……七瀬君、自分じゃ気づいてないと思うけど、顔色があまりよくないわ。いくら私でも、本当に体調の悪い子に無理して残れとは言えないもの」


 涼音が心配そうに告げると、話を聞いていたクラスメイトたちが口々に声を上げた。


「えっ、なになに? 七瀬体調悪いの?」


「いや、別にそんなことは……。そんなにひどい顔してるか?」


「んー、俺にはよく分かんねぇわ」


 他のクラスメイトも、特に不調には見えないと言う。


「渚ちゃんの勘違いだって。ほら、馬鹿は風邪引かないって言うしさ」


 だよなぁ、と軽口を叩き合う彼らに、鶫は思わず声を荒げた。

 いくらなんでも扱いが雑すぎる。


「お前らさあ、ちょっとは心配するそぶりくらい見せろよ。それに俺は別に馬鹿じゃないだろ!?」


「何だよ、めっちゃ元気じゃん」


「つぐみんって天吏の野郎にはそんなに怒んないくせに、俺らには怒鳴るのな」


「おい、つぐみんって呼ぶのはやめろ。こっちが恥ずかしくなる」


 ――これ以上相手をしても埒があかない。


 不満げな声を無視し、鶫は鞄を手に教室を出ようとした。

 涼音から早退の許可も出ているし、問題はないだろう。


 挨拶もそこそこに教室を出たその時、背後からパタパタと慌ただしい足音が近づいてきた。

 振り返ると、急ぎ足で駆け寄ってくる涼音の姿があった。


「ま、待って、七瀬君」


「はい?」


「はぁ、はぁ……よかった。間に合って……」


 廊下を走ってきたのか、涼音は肩を震わせて息を切らしていた。

 何か言い忘れたのだろうか。


「えっと、大丈夫ですか?」


 咳き込みながら肩で息をする涼音を心配そうに見つめると、彼女はそっと何かを差し出した。


「これ、持っていって」


「これは……お守り? いや、こんな高級そうなの受け取れませんって」


 黒い布袋に赤い糸で花の意匠が縫い込まれた、どこか荘厳な雰囲気のお守り。

 鶫は思わず首を横に振った。訳が分からないし、自分が持つには恐れ多い気がした。


「いいから」


 涼音は有無を言わせぬ勢いで、お守りを鶫の手にぎゅっと握らせた。

 その必死さに、鶫は驚いて目を見開く。

 こんなに強引な涼音を見るのは初めてだった。


「嫌な予感がするの。……先生の我侭だと思って、これを持っていてくれない?」


「……えっ、何ですかそれ。ちょっと怖いんですけど」


 理由を問う鶫に、涼音は小さく首を振るだけで説明しようとしない。

 鶫は腑に落ちないものを感じながらも、手渡されたお守りを学ランの胸ポケットへと放り込んだ。よくは分からないが、別に持っているくらいならば問題はないだろう。


「ごめんね。変なこと言っちゃって」


「まぁ、それで先生の気が済むなら別にいいですけど」


「本当に、気をつけて帰ってね」


 何度も繰り返される心配の言葉に、鶫は半ば呆れながら頷いた。

 もう子供ではないのだし、そこまで心配されるほどでもない。


「大丈夫ですよ。体調だってそこまで悪いわけでもないですし」


「……そう、よね」


 どこか歯切れの悪い返事をしながらも、涼音は不安げな視線を向けてくる。


 そして何か言いたげに口を開いたかと思うと、きゅっと一度だけ何かを躊躇うかのように深く目を閉じ、気を取り直すかのようにふわりと微笑んだ。


「――じゃあ、また明日。今度は遅刻せずに学校へきてね」


「……あはは。さようなら、涼音先生」


 鶫は涼音に背を向け、玄関へ向かって歩き始めた。


 その背を、涼音がじっと見つめていたことには気づかないままに――。




 ◆ ◆ ◆




 鶫の姿が見えなくなった頃、涼音は誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。


「……あの子、全身が真っ赤(・・・)だった」


 涼音はそう言ったが、もしこの言葉をクラスの生徒が聞いたら、きっと首を傾げたことだろう。鶫の見た目は、他の生徒からみて『いつも通り』にしか見えなかったのだから。


 ――はたして涼音には一体()が見えていたのだろうか。


「あれではもう恐らく……。いいえ、だからこそ……」


 涼音は祈るように手を組み、静かに目を伏せた。


「私には祈ることしかできないけれど、どうか――死なないで(・・・・・)




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― 新着の感想 ―
面白かった思い出に惹かれて読み返しにきました。何度読んでも素晴らしい文章です。独特な世界観を当たり前に飲み込ませて、そのまま世界に引き摺り込まれます。
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