12
思ったよりも風邪をこじらせてしまった私は、三日後にやっと職場へ戻った。
「もうね、雄大くんが心配して心配して大変だったのよぉ」
「おばちゃん、そんなことないって」
咲田さんと雄大の会話を聞きながら、病み上がりの心があたたかくなる。
「とにかく良くなってよかったわ」
「すみませんでした。また今日から頑張ります」
「いや、頑張らなくていいの、琴音ちゃんは。あなたすぐ頑張りすぎるから」
咲田さんがそう言って笑う。
そんなことないのに。私にはこのくらいしか、できないだけ。そしてこのくらいでは足りないほど、咲田さんにはお世話になっているのだ。
「琴音」
咲田さんが調理場へ向かうと、弁当の入った袋を持った雄大が言った。
「今夜、会えない?」
私は黙って雄大を見る。
「この前の話の続き。ちゃんとしたい」
「うん」
「仕事が終わる頃、迎えに来る」
雄大がいつものように笑いかけ、背中を向ける。私はそんな雄大の姿が、見えなくなるまで見送った。
仕事を終えて、咲田さんに挨拶して外へ出る。頬に当たる北風が冷たい。
薄闇の中、雄大の姿を探してみたが見当たらず、まだ来ていないのかと思った瞬間、私の携帯に着信が入った。
「ごめん! やっぱり今日行けなくなった。急に人と会うことになっちゃって」
「また会合?」
携帯を耳に当てながら、マフラーを首に巻く。商店街にはクリスマスのイルミネーションが飾られていた。
「ああ、まぁ、そんなとこ。明日また連絡するから」
「うん」
「悪いな」
雄大が慌ただしく電話を切って、私は小さく息を吐く。どこかでホッとしているのだ、私は。
手袋をつけて自転車をこいだ。冷たい風を切ってアパートの前に着くと、そこに立っている人影に私は息をのんだ。
「蒼太?」
どうして蒼太がここに? 戸惑う私の前に、蒼太が近づいてきて言った。
「ごめん。ちょっと、話したいことがあって」
「え……」
「どこかあったかいところ行かない? コーヒーでもおごるから」
私はそんな蒼太の前で、ただ小さくうなずいていた。
蒼太のあとについて、今来た道を戻る。
蒼太は車で来ていなかった。電車に乗って、駅から歩いて、私のアパートまで来たのだろうか。私と話をするために。
少し後ろから蒼太の姿を見つめる。変わってないな、と思った。制服はもう着ていないけど、あの小さな町で、並んで歩いた頃の蒼太の姿と。
「琴音」
黙って歩き続けていた蒼太が、前を見たままつぶやく。駅前の商店街の近くまで、私たちは来ていた。
「後ろ、振り向かないで聞いて」
「え?」
「和奏がつけてきてる」
「うそ……」
思わず振り返りそうになって、あわてて動きを止める。
「なんでそんなこと……」
不気味さと同時に怒りが沸いてきた。
「私、和奏にやめてって言う」
「いいよ、言わなくて」
「どうして?」
蒼太は考え込むように前を見たまま、つぶやいた。
「そこの角曲がったら走ろう。全速力で」
「え……」
少し先を歩く蒼太が、商店の角を曲がる。私もその後をついて行く。
すると蒼太が私の手をとり耳元で言った。
「走れ」
「ええっ……」
蒼太に引っ張られるように走り出す。夜の街を、人ごみの間を、クリスマスのイルミネーションの中を。
そして私は目の前の背中を見つめながら、真夏の空の下で、誰よりも速く走っていた蒼太の姿を思い浮かべていた。
「はぁっ……もう無理ぃ」
息を切らして立ち止まり、情けない声を出す。
一体どれくらい走っただろう。そんなに遠くへは来ていないけど、ビルや商店の間をすり抜けるように、ぐるぐるとあちこちを走り回った気がする。
こんなに全速力で走ったのなんて、何年ぶりか。
「ここまで来れば、大丈夫だろ」
蒼太も私と同じように、息を切らしながら言う。
「なんだか……ドラマみたい……」
私の言葉に蒼太が静かに笑う。ああ、そうだ。こんなふうに笑う人だった。
「陸上選手にはついていけないよ」
「俺だってこんなに走ったの久しぶり。もう昔みたいには走れないよ」
目の前に立つ蒼太を見る。私に笑いかけていた蒼太が、まだつないでいた手に気づき、それをさりげなく離した。
「どこか店に入って話そうか」
「……うん」
蒼太が背中を向けて歩き出す。私たちの間には、また微妙な距離が生まれた。




