1340 補足編9 辺獄にて
その日は雨が降っていた。
雨だ。
こんな世界でも雨が降るのか、とも思う。
これが恵みの雨ならばいいが。
しかしそうなり得ないのは分かる。
『兄さん、これを』
『済まない』
弟が差し出したのは肉塊。
かなり以前に狩った魔物のものだ。
生のままだが私達には問題は皆無。
それは不完全ではあるが変質している。
アムブロシア、神々が口にすべき食物だ。
私も、そして弟も神としての力を喪失していない。
この場を祝福していたなら完全に変質していただろう。
果たしてそれが良い事であるのかどうか。
神々の領域から抜け出す事。
それは神としての力を喪失する事をも意味する。
しかしそうでなければ更なる理解は得られない。
それが分かる。
私にも弟にも分かってしまう。
そういう力を得たが故に私は主神から罰を受けた。
弟は私に従ったが故に共に放浪する道を選んだ。
そして私達はこうして主神ゼウスに反抗している。
否、世界の真理を紐解こうとしている。
『どこまでもこの風景とは』
『致し方あるまい』
私の名はプロメテウス。
先に考える者。
弟の名はエピメテウス。
後から考える者。
世界への理解を深め、新たな価値を世界へと産み出す。
それが私達、兄弟神の使命。
その筈だった。
しかし世界を理解すればする程、その歪みが見える。
だから主神の意思に反して、ここでこうしている。
旅は続く。
終わりは見えない。
世界の果てにあるという辺獄を私達は巡っていた。
まるで普通の世界かと思えるような様相だが、確かに辺獄の筈だ。
地獄のような有様かと思っていたがまるで違う。
目の前に広がるのは平原。
生命の息吹はまるで感じ取れない。
草一つ見当たらないのだ。
無論、動くのは私達の影だけ。
今は曇っていて分からないが、明るいから太陽はある。
しかしその光から恩恵は何も感じられない。
熱が伴っていないからだ。
辺獄は極寒の世界だった。
掌の上で火を生じさせても熱が伝わって来ない。
神の身であるから問題は無いが、気が滅入る。
何の変化も許さない、退屈な世界だ。
大切な何かを失い、力を得る。
それが辺獄だと聞いている。
私達には初めての場所だった。
しかし神々の中にはここでそれを為した存在がいる。
そして魔神にもいる。
私も弟も思考を司る巨神だ。
五感で得たあらゆる事象を情報として得る。
それらを元に思考を進める訳だ。
私は先んじて思考する。
予知、それに予測を元により良い選択を見出す。
弟は過去の出来事を精査する。
それらは今後に向けより良い選択の指針となるのだ。
だから我々兄弟神は対の存在であり、互いに補完している。
その特性があるが故に神々の中では異端だった。
私の推論を元に弟が見出した辺獄への道を通り抜け、この場所に至った。
その理由は?
主神ゼウス、それに様々な世界の主神級の神々がおかしいからだ。
何かに操られているかのよう。
いや、本来の役割を忘れ、自ら歪んでいるように見える。
果たして我々だけで正す事が出来るのか?
それは分からない。
そして大地を司る女神達もまたおかしい。
彼女等も違和感に気付き独自に行動している。
主神達の対を為す存在でありながら主神達に従わない。
そうする事でバランスを取る、その意図はある面で正しい。
しかしそれもまた歪みに見える。
だから我等兄弟は彼女達と行動を共にしていない。
行動原理が異なるのは悪い事ではない。
何かがおかしい。
それを炙り出すのであれば別々の視点から検証するのが良い。
その筈だ。
私達に見えている風景に変化は無い。
だが見えているのだ。
それは空間の歪み。
辺獄に来てから常に感じ取れる存在だった。
この世界で唯一、道標のように存在している。
それを目指して私達は歩き続けていた。
『兄さん、これは?』
『迂闊に近寄れんな』
空間の歪みは渦のような形状に見える。
近くから見ると周囲の風景がより歪んでいる。
周囲の大地をも飲み込んでいるかのよう。
しかしそうではない。
『この世界は熱的な死を意味している。それだけは分かる』
『それは?』
『そなたは反芻せよ。思考を止めるなよ?』
熟考するのは弟の役目だ。
私はこの渦の先で何があるのか、それを見定めていた。
期待はある。
否、行かねばならないと思った。
しかしその渦の前に異変が起きた。
小さな何かが出現していたからだ。
『賢者達よ。お待ちしておりました』
その姿は人間よりも小さい。
しかしその存在感は神に匹敵する。
それでいて威圧感は全く感じない。
何者であるのか、それは知っていた。
『地蔵菩薩か』
様々な世界に現れ衆生を救うという仏。
殊に子供達の守護を司る存在だ。
『賢者なれば世界の歪みなど知悉していよう。なれどそうではない』
『力及ばぬ事を知る。それもまた賢者のありようですよ』
地蔵菩薩の言葉に応じるかのように大きな影が現れた。
巨神である我等兄弟に迫る体躯だ。
そしてそれが馬頭観音なのだと分かる。
『賢き者なれば来るような場所ではあるまい?』
『知りたい、という欲求からは逃れ難いものなのですよ』
馬頭観音の問いに地蔵菩薩はそう答えた。
何を伝えたいのか、それが分かる。
分かってしまった。
『それが解脱に至らぬ理由か』
地蔵菩薩の表情は変わらない。
口元に微笑を湛えたままだ。
正解です、と言われている気がした。
『これが何か、分かりますか?』
『道だな。解脱に至る道ではないのは確かだろう』
『そうですね。行けば新たな苦悶を得る。それはもうお分かりでしょう』
『だが行かねばならない』
そう、行かねばならないのだ。
この世界の真理、それはその先にしか存在し得ない。
『終わりが無いと知るのに?』
『なればこそだ。終わりなど無いと知る為に行くのだ』
馬頭観音が動いた。
一対の腕で印を組み、二対の腕で各々の宝具を掲げる。
その口から紡がれるのは読経の声。
それは空間そのものを震わせていた。
『汝等の行く先に幸あらんことを』
私はその馬頭観音の言葉に一礼した。
弟も続く。
これはある意味で祝詞なのだと知ったからだ。
『自ら苦行を得に行くとは。その勇気は称揚に値する』
『ただの愚かな行為ではなく?』
『生きる事は戦いと同義。なればこそ、その姿勢は尊いのだ』
また新たな読経、そしてそれはすぐに止んだ。
渦となっている空間の歪み、それがより一層、大きくなっていた。
『救いがあらんことを』
『武運があらんことを』
地蔵菩薩と馬頭観音、それぞれの言葉を背に私達は渦の中へと進んだ。
この出会いは偶然ではない。
彼等もまた、我々とは異なる行動原理に従っているのだろう。
それだけが分かっていた。
『行ったか』
『行きましたね』
地蔵菩薩、それに馬頭観音。
地蔵菩薩は微笑を崩さず、馬頭観音は憤怒の表情を変えていない。
しかし彼等の中ではある変化が生じていた。
『彼等は進んだ。それは戦いに臨むのと同義である』
『真理を求めるその心。それこそが煩悩。解脱の道は遠いでしょう』
『それは救いでもある』
こんな世界でも変化はあるのだ。
その兆しがあの兄弟神だ。
『弥勒菩薩は?』
『まだ動けぬでしょう』
『神殺しの竜に一旦捕捉されては道理か』
彼等にもまた目的があり、役割もある。
道標だ。
そしてそれを果たした今、独自に動く余地が生まれていた。
遙かな未来に救済を果たす役目を持つ仏である弥勒菩薩。
今や存在そのものが歪んでいるのは何故か?
そして如来達が弥勒菩薩に同行する理由も謎のままだった。
知らねばならない。
それもまた煩悩であるのを自覚しつつも捨てきれない。
悟りの境地は未だ遠い。
歩まねばならない道の長さを思え。
それは勝ち目の無い戦いに挑むようなものであった。
それでも彼等は進む。
兄弟神もまた同様なのだ。
真理の先に何が待ち構えているのか、その意味を知る為に。
ただ、進むだけであった。
2026年1月25日にサモナーさんが行ⅩⅡ巻(通算13冊目)が刊行予定です。
宜しくお願いします。




