03
みどりが鱸家に生まれて、満17年と少し。
変わった苗字だと言われたことは星の数ほどあるけれど、それで特に良い思いをしたことも変えたいと思うような悪いことも無かった。
しかし今はあえてご先祖様に問いたい。
なぜ、どういった理由で“鈴木”ではなく“鱸”を選んだのか、もしくは賜ったのか。
みどりは今猛烈に、この珍しい苗字が恨めしかった。
平日はいつもなら定時でなど帰らない父親が、珍しく早く家に帰ってきたのが事の始まりだった。
それだけでも普段と違うのに、今日はどうしてかみどりに対してちらちらと窺うような視線を寄越すのだ。
気になって食事も集中して摂れやしない、と問い詰めてみれば、帰ってきた答えはみどりの想像を軽く飛び越えたものだった。
「見合いしてみないか」
他にもいろいろと言葉を選びながら話してはいたが、要約するとつまりこういうことだった。
初カレもまだなうら若き高校生の娘に対して何を言っちゃってんのよ、とみどりは目を剥く。
「お相手もだな、いい人なんだぞ。お前、どこで見初められたんだろうなあ」
今時“見初める”なんて言葉を使うのはどうなんだ。
父親が娘に持ち出すにしてはあまりにもあんまりな話に、みどりは内心で思わずどうでもいい箇所に突っ込んでしまう。
だいたい、高校生相手に見合い話を持ち出すような男のどこが“いい人”なのだ。
ほとんど唖然としてしまい、返す言葉も見つからず黙っているみどりの態度をどう受け取ったのか、父親は早口で続きを話す。
そのお相手とやらは脳神経外科の偉い先生で、どこぞの病院の次期院長だそうである。
次期院長などという肩書きが付いているくらいなら、おそらく年齢もそれなりにいっているのではないか。
そんな相手に、どうして会わなければならないのか。
しかし、相手が病院の人間となると、話は少々厄介なのだ。
なぜなら、みどりの父親は製薬会社の研究員で、病院に対しては特に立場が弱いからである。
「お父さん、会社で頼まれたの?」
「う、その…まあ、そうなんだ。営業の若い人が、頼みに来てだなあ…。
会うだけでもいいからって頭下げて、気の毒でなあ」
娘は気の毒じゃないのか、と言ってやりたいところだが我慢する。
いつもはみどりの交友関係に目を光らせているくらい溺愛型の父親なくせに、こんな話をするなんてそうとうな相手なのだろうと思ったからだ。
「…ほんとに会うだけだからね。でも、会ったらほんとにすぐに帰るからね」
渋々会うことだけ了承すると、父親は目に見えてほっとしたように息をついた。
「仲野医院って、名前は知ってるだろう?
あそこはうちともけっこう大口の契約をしてくれてて」
聞き覚えのあり過ぎる病院の名前に、みどりはぴくりと反応した。
父親はまだ仲野医院についていろいろと話を続けていたけれど、もう頭に入って来ない。
よりによって仲野医院とは。
名前を知っているどころではない。
頭に血を上らせたまま襲撃まがいのことをして、しかも本来標的だった相手とは全然違う人の前で醜態を晒してしまったのだ。
診察の代金は請求されず、ただ帰りに診察券を渡されただけだったが、もう二度と行きたくない。
あの日の自分は、恥ずかしすぎた。
いくら大事な幼馴染みのためとは言え、職場まで怒鳴り込みに行くこと自体、非常識である。
しかも初めて会った人を相手に感情を曝け出して、涙まで見せて、おまけに頭まで撫でられてしまうなんて。
思い出した途端に、あの瞬間の、優しげな声と掌の感触が急に甦って、みどりは顔が熱くなるのを感じた。
性格が悪そうに見えるのに、けれどどこか優しそうな面も見えた、あの男の名前は何だっただろうか。
できればもう二度と会いたくないし、忘れてしまいたいと思っているのに、名前を思い出そうとする矛盾に、みどりはため息をつく。
「それでその先生の名前はね、四谷先生というらしいよ」
さっきからずっと耳の中を素通りしていた父親の言葉が、意味を持ってみどりに届いたのは、その名前のせいだ。
あの日会った男のネームプレートに、“四谷 慧”と書いてあったのを、その瞬間思い出した。
まさか、と焦るが、会うのは脳神経外科の先生だと言われたのだと思い至る。
内科の先生だったあの男とは違う人だ、とほっとした、その時だった。
「で、一応写真も預かってきたんだよ。ほら」
手渡された写真に、ちらりと興味なさげに視線を流したみどりだったが、顔を見た途端に思わず凝視する。
写っていたのは、紛れもなくあの日の男、四谷 慧だった。
どういうことだ。
あの日は確かに内科にいたのに、と思ったがすぐに、いやいや、今はそんなことが問題なのではない、と思い直す。
会社で頼まれたということは、病院側からコンタクトがあったということだ。
つまりこの場合、慧がみどりに会いたがっているという意味になる。
「…無理」
「え?」
「会わない!」
「えぇ? 写真見てダメって、どうしてだ?
お父さんが言うのもなんだが、かなりカッコイイ男だぞ?」
それは、写真を見る前から知っている。
悔しいことに、確かに顔も造作もカッコよかった。
涙を拭かれ頭を撫でられたあの時、かなり接近していたのに、どアップに耐えられる顔だったのだから、間違いない。
けれど、それとこれとは別だ。
あんな醜態を見せてしまった相手に会うなんて、嫌だ。
それも、帰るときには靴の先で足まで蹴ってしまった相手だ、なぜ興味を示されるのかはっきり言って謎である。
まさかあれで怪我をしたとかは言うまい。
いい大人が高校生を脅すとも思えない。
そうすると、みどりに会いたがる理由がやはりまったくわからない。
わからないだけに余計に会いたくない。
急に会わないと言い出したみどりに、父親は焦ったように縋りつく。
「みどり、頼むよ。営業さんが困ってるんだよ」
「でも嫌」
「みどり、営業さんはな、お父さんたちにとって神様みたいな人たちなんだよ」
「嫌だってば」
「お父さんたちが頑張って研究したものを、営業さんが一生懸命売ってくれてるんだよ。
だからな、つまりだな。
みどりがこうして生活できてるのも、みんな営業さんのおかげなんだぞ。わかるだろ?」
「それはわかるけど。でも会いたくない!」
情けない父親の哀れぶった声はまだ聞こえていたけれど、みどりは聞こえないふりをして自分の部屋に逃げ帰った。
とは言っても、実際のところ選択の余地は無いのだ。
研究員は自社の営業には頭が上がらず、その営業は病院に頭が上がらない。
わかりきっているその方程式は変わることが無いのだから、みどりとしては父親のためにも会うしかないのである。
それにしても、どうしてみどりのことをいとも簡単に見つけ出してきたのだろうか。
その答えは、翌朝あっさりと判明した。
「どうも、お父さんの名前の出てる論文を読んでくれたらしいんだよ」
研究者としては嬉しいのだろう、父親は幾らか顔を緩ませてそう言った。
その瞬間、みどりはわかってしまったのだ。
ここまで短期間でみどりにたどり着いたのは、苗字のせいだ。
もしも“鈴木”であったなら、決してみどりまでたどり着くことはできなかったに違いない。
そう考えると、みどりは自分の苗字を恨めしく思わずにはいられなかった。
医者という職業は、不規則で忙しい生活パターンであるらしく、会うと決まったものの日程はすぐには決まらなかった。
そうこうしている間に、慧に出会う羽目になったもともとの原因たち、つまり幼馴染みの有衣と相手の直輝はうまくまとまっている。
おめでたいことなのに、どうも釈然としない気持ちになったりしてしまうみどりは、今慧に会いたくないと思う。
慧は多分、人の気持ちを引き出すのがうまい人種なのだ。
だからこそ初めて会った時もするすると言葉を出してしまい、あげく泣いてしまったのだ。
今会ってしまうと、またあの日の二の舞になってしまう気がする。
しかし、そう思った通りに運ぶわけではないのが人生なわけで、会いたくないと思っているその時に、日程はとうとう決定してしまった。
そしてみどりをさらに困惑させたのが、自分の行動だ。
会いたくないと思っているくせに、会ったらすぐに帰ると決めているくせに、着ていく洋服をすぐに決められない。
ベッドの上に乱雑に重なっている洋服たちを見つめて、みどりはがりがりと頭を掻く。
「あーもうっ、わけわかんない!」
クローゼットの中身が空っぽになるくらい、ほとんどの洋服がベッドの上にある状態だ。
あれこれ組み合わせて体に当てて鏡でチェックしてみたり、好きなひととのデートじゃあるまいし、と思考は批判的なのに、結局そうしてしまう。
その上最終的に選んだ服が、一番お気に入りのものだったとくれば、最早呆れるしかない。
「ばかみたい」
言いながら、それでも決定を覆せない理由は何なのか。
男のひととふたりで会うというシチュエイションが初めてだから。
そんなむちゃくちゃな理由を付けて矛盾を片づけようとしていると、階下からそろそろ時間だと言う母親の声が聞こえてきた。
いよいよ出陣だ、などとまるで侍のような気持ちになる。
鏡の中の自分自身を覗きこみ、気合いを入れるように両頬を軽く叩くと、みどりは思い切りよくドアを開けた。
今回はみどりメインでした。慧に会いに行くまでの経緯みたいな。
会いたくないのに、どこかで会いたいと思ってしまう、みたいな複雑な心境なのです。
でも、恋ではないのです、しつこいようですが(笑)。
カッコイイ人に会うのに変な格好では行けないただのオトメゴコロですw
さ、次回は再会編です♪




