65.5、ユリウスとレオナルド
65.5話です。
ミレイナとユリウスが、ふたりでエルフォード侯爵家へ戻ると決めてから、数日が経った。
そして今日――いよいよ、旅立ちの前日。
ユリウスは、ヴァンデール公爵家の執務室で、ミレイナの兄・レオナルドと向き合っていた。
先に口を開いたのは、レオナルドだった。
「ミレイナが無事に目を覚まして、本当によかったな」
「はい......本当に」
短く返したユリウスの声には、まだわずかに不安の色が残っていた。
レオナルドは静かに彼の横顔を見つめる。
やがて、その沈黙を破るように、低い声が落とされた。
「……ユリウス。前にミレイナから聞いたよ。離婚はしない、って」
一拍置いて、真っ直ぐな視線を向ける。
「……それで、本当によかったのか?」
「俺は……あのときのお前の顔、今でも忘れられない」
その問いには、過去の記憶がついてまわる。
――ミレイナによって、ユーフェミアとの婚約を強引に破棄され、彼女との婚姻を強いられた、あの頃。
そこにあったのは、絶望だった。
愛する者と引き裂かれ、未来を奪われたあの日。
この世界で最も大切だった彼女の手が、届かない場所へと遠ざかっていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
駆け落ちさえ、考えた。
だが、それすらできなかった。
あの頃、俺は脅されていた。
家門の名誉、立場、血筋――“ふたりだけの幸せ”を選ぶには、背負っているものが重すぎた。
ユーフェミアのことは、確かに愛していた。
一緒に笑い、一緒に歳を重ねる未来を、信じていた。
けれど、周囲のすべてを振り切ってまで、彼女の手を取る覚悟は……持てなかった。
――なんて、情けない男だったんだろう。
自分さえ我慢すればいい、そう思っていた。
それで、すべてが丸く収まるのだと――思い込んでいた。
だがその選択は、彼女を裏切ったも同然だった。
誰かを守ったつもりで、誰より大切な人を、見捨ててしまったのだ。
「確かにあの頃のことは……許せません」
(......俺自身も、だ)
「……もっと彼女を、守れていればと……何度思ったかわかりません」
レオナルドは視線を伏せ、苦く息を吐いた。
「……そうだよな、当然だ」
「俺も、兄として止められなかった。どこかで“妹だから”と甘くなっていたんだと思う。あんな風に暴走させてしまったのは……俺の責任でもある」
重たい沈黙が流れる。
それでもユリウスは、しっかりと前を向いていた。
「それでも、こうして彼女を愛してしまったのです」
その言葉に、レオナルドの目がわずかに見開かれる。
「……!」
「それに――昔のミレイナと、今の彼女はまるで違う」
「もしかしたら、今の彼女が本当の彼女だったのか、とさえ」
そして今、傍にいるのは――
あの頃、愛してはいけないと、心から思っていたはずの女だった。
ミレイナ。
すべての元凶だったはずの彼女が、記憶を失い、無垢で、飾り気のない表情を浮かべている――それが今の彼女だ。
……なんという皮肉だろう。
かつて守れなかった恋を悔やみ、罪悪感を抱えたまま生きてきたこの俺が――
今は、誰よりも憎んでいたはずの彼女に、心を奪われている。
だが、もう目を逸らさない。
過去の罪も、この皮肉な運命も、すべてを背負って――
「だから、もう一度、彼女と歩いていきたい。彼女と生きていきたいと、心からそう思っています」
それは、静かで――けれど、揺るがない意志の告白だった。
レオナルドはそっと息を吐き、口元をわずかに緩めた。
「……そうか。なら、俺は何も言わない」
「俺はミレイナの兄だが……お前の幸せも、心から祈っているんだ」
「……義兄上」
ユリウスの声が少し揺れる。けれど、その目はまっすぐだった。
「ただな……お前、昔と違いすぎて、だな......」
「......?」
レオナルドが肩を竦めながら、言いづらそうに言葉を続ける。
「……その、あんまり束縛してくれるなよ」
「……努力します」
ふっと、ふたりの間に小さな笑いがこぼれた。
「安心したよ。……記憶を失ったミレイナに“同情”で寄り添ってるだけだったら、全力で止めるつもりだったからな」
「でも、お前自身の意思で選んだなら、何も言わない。尊重するよ」
そして、少し間を置いて――ぽつりと呟く。
「今でこそ、すっかりしおらしいが……あいつ、わがままだぞ?」
ユリウスは、その言葉にふっと微笑んだ。
「……それも含めて、愛していますから」
その笑みは、かつてのどこか頼りなかった青年のものではなかった。
――ただひとりの女性を、すべて受け入れ、守り抜こうとする男の顔だった。
記憶を失って、無垢になった彼女は――
皮肉なことに、彼の好みど真ん中だったのです。
そう、ユリウスは、
「絶対に愛してはいけない相手を、どうしようもなく愛してしまった」男でした。
どんな過去があろうと、
ただ、彼女そのものを――心から、愛してしまった。
そんなお話です。......頑張ったね、ユリウス。




