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【本編完結済】悪女だった私は、記憶を失っても夫に赦されない  作者: ゆにみ
本編

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29、この瞬間は、二人きりだった

 ユリウスは、器用に小屋の片隅で火を起こしていた。

 湿った空気の中で、ぱちり、と火種が弾ける音がする。


 


 「……乾いていた薪が、少しだけあった。助かったな」


 


 彼の手でくべられた薪に、じわじわと炎が広がっていく。

 薄暗かった小屋の中が、ゆらゆらと揺れる光で照らされる。


 


 私は膝を抱えたまま、その光景を見つめていた。


 


 すると、ユリウスがふとこちらへ歩み寄る。

 手には、持参していた乾いた布が握られていた。


 


 「……髪、冷えてる。濡れたままだと、体温を奪われる」


 


 目の前にしゃがみ込みながら、彼は言った。


 


 「……いいか?」


 


 問いかける声は、決して強引ではない。

 私はそっと頷いた。


 


 彼の指が、私の髪に触れる。

 その手つきはどこまでも丁寧で、まるで壊れ物を扱うように優しかった。


 


 「……っ」


 


 首筋をなぞるように、指がふれる。

 火の温もりと彼の温もりが、入り混じって、胸の奥がじんわりと熱くなる。


 


 「ごめん……少し、冷たいかもしれない」


 


 ユリウスの声が低く響く。

 けれどそれは、むしろ心地よいくらいだった。


 


 (どうして、こんなにも優しいの……)


 


 彼が拭ってくれるたびに、心の奥に溜め込んでいたものがほどけていくようだった。

 罪も、後悔も、恐れさえも――全部、そっと包まれていく気がした。


 


 ぱち、ぱちと火が弾ける音が、静かに響く。

 小屋の中には、ふたりの気配と、炎の明かりだけがあった。


 


 そして私は、その優しさに、また――胸が締めつけられる。




 その一瞬、火の揺らめきに照らされたユリウスの瞳が、ゆっくりと私を見つめた。

 まるで、何かを試すように――もしくは、確かめるように。




 私は、その視線から目を逸らせなかった。



 心臓が、ゆっくりと熱を帯びていく。

 火ではない、彼の目に射抜かれて、鼓動が速まっていく。




 「……ずるいわ」


 


 言葉にしてしまえば、もう後戻りできないと分かっていた。

 でも、黙っていたら――もっと苦しくなりそうだった。


 


 「ずるい?」


 


 問い返すその声には、少しだけ息を呑んだ気配があった。


 


 私は、そっと外套の端を握る。



 濡れた下着の上に羽織っただけのそれが、かすかに指先にまとわりついた。


 


 「こんなに優しくされたら……拒めなくなるでしょう?」


 


 そう言いながらも、私の胸の奥はもうとっくに――抗う力を失っていた。


 


 火の揺らめきが、ユリウスの瞳を照らす。


 その赤い瞳が、静かに私を見つめ返していた。


 


 ――このまま、時間が止まればいいのに。


 そんなことすら思ってしまう。


 


 ユリウスの手が、そっと私の頬に伸びてきた。


 髪をすくいあげるように指がふれ、そのまま、ゆっくりと――頬へ。


 


 重なった視線が、問いかけのように揺れていた。

 赦しを乞うでもなく、ただ私を、まっすぐに。


 


 私は、目を閉じた。


 ほんの一瞬、何もかもを委ねるように――


 


 そして、唇がそっと、触れた。


 


 最初はためらうように、やわらかく。

 けれど私が拒まないと知ると、熱を帯びたそれは、すぐに深くなっていく。


 


 舌が触れ合い、唇の内側をなぞられる。

 くぐもった吐息が、自然に漏れた。


 


 「……ミレイナ」


 


 名前を呼ばれるだけで、体が震えた。


 熱に浮かされたように、思考が霞んでいく。



 


 「君が……また誰かを傷つけるとしても」



 囁きが、耳にかかる。


 


 「それでも俺は、離れたくないと思ってしまう」


 


 言葉が、心に触れて、痛いくらいに甘かった。


 


 彼の指が、私の腰にまわされる。


 その手のひらの熱が、肌にじかに伝わってくるようで――


 


 「……ユリウス」


 

 名を呼んだ途端、彼の動きが変わった。


 


 もう一度、深く唇を重ねられる。

 その熱に、思考がふわりと浮かぶ。



 

 壁際へと背を押されると、背中の石壁のひやりとした感触が、逆に肌の熱を際立たせた。


 外套の前が少し開いていることに気づいて、思わず身じろぎする。

 けれど、その動きさえ、彼の視線を誘ってしまうのが分かった。



 首筋に吐息が触れる。

 それだけで、呼吸が浅くなる。


 


 彼の指が、外套の端からそっと滑り込んでくる。

 ゆっくりと――まるで、触れていいのか問いかけるように、肌にふれる。




 私は、抗わなかった。

 むしろ、その温もりに縋るように、腕を彼の背に回していた。


 


 「……怖いの」



 唇の隙間から、思わずこぼれる。


 


 「……このままじゃ、またあなたを縛ってしまうかもしれない」

 


 その言葉に、ユリウスはほんの一瞬だけ動きを止めた。


 けれど、すぐに深く私を抱きしめてくれた。


 


 「いいさ。俺はもう、ずっと縛られてる」


 


 静かな声が、胸の奥に刺さる。



 もう、逃げられない。

 そう思った。そう思ったくせに――


 

 自分から、彼に手を伸ばしていた。

 


 肌と肌が触れあった瞬間、ぞくりとする熱が走る。


 重なる吐息。求め合うように、唇と指が迷いなく触れていく。


 


 思考は、いつの間にか沈んでいた。




 ――過去の自分のことも、

 ――記憶のない現在の自分のことも、

 ――ユリウスにどんな顔を見せていいのかさえ、何もかも。




 ぐちゃぐちゃに絡まっていたはずの考えは、この瞬間だけ――まるで霧のように消えていた。


 


 ただ、ユリウスの体温と、彼の腕の中にいるという事実だけが、すべてだった。


 


 この一瞬、世界には私とユリウスしかいなかった。

 他の誰も、何も、目に入らなかった。


 


 言葉も、赦しも、未来のことさえもいらない。




 ただ――求め合っていた。

 互いに、どうしようもなく、焦がれるように。

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