11、元婚約者
静けさに包まれた兄の執務室。
穏やかな時間の中に身を置いているはずなのに、私の胸には、ずっと引っかかっているものがあった。
今の私は、何もかもを知りたいと思っているわけじゃない。
けれど、それでも――どうしても尋ねずにはいられない疑問があった。
ふと、私は口を開いた。
「……ところで、聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ」
「ユーフェミアって……誰?」
兄の指先がぴたりと止まった。
まるで、その名前がどんな意味を持っているか、十分に知っているような反応だった。
「……聞いたのか?」
「いえ、聞いたわけじゃないの。
ユリウスが、ほんの一瞬……ぽろっと名前を出しただけで。深くは言わなかった。
でも、なんとなく……もしかして元婚約者、なのかなって」
兄は短く息を吐くと、少しだけ視線を落とした。
「……そうだ。ユーフェミア夫人は、ユリウスの元婚約者だった」
「……夫人?」
その響きに、私は思わず問い返していた。
まさか、もう結婚しているとは思っていなかったのだ。
「ユリウスとの縁を、完全に絶たせるためだったのだろうな」
「おまえが――ユーフェミア夫人の結婚を、仕組んだんだ。たしか……ノクテリア辺境伯との縁談だったはずだ」
耳が、じん、と熱くなる。
私が、そんなことを……? 自分の手で、彼女を遠ざけた?
「……どうして、そんなこと……」
声が震えるのを自覚した。
今の私には、そんなふうに誰かの人生をねじ曲げる理由なんて、思いつかない。
「理由は……言わなかった。ただ、“あの女さえいなければ”とだけ、ぽつりとおまえは言った」
「俺も、そのときは止めた。だが、おまえは聞かなかった」
私は言葉を失った。
何も知らないと思っていたこの結婚生活の裏に、そんな過去が横たわっていたなんて。
「きっと、酷いことをしたのよね……」
小さく呟く私の言葉に、兄は答えを返さなかった。
否定も肯定もせず、ただ静かにこちらを見つめている。
しばらくの沈黙の後、兄がゆっくりと口を開いた。
「......今日はここまでにしよう」
その声には、温かさと同時に決断の強さが感じられた。
「俺は今のおまえの選択を尊重する。まずはユリウスと、きちんと話し合え」
兄の言葉に、私は深く頷いた。
この先どうなるかはわからない。けれど、今はそれが一番の道だと思えた。
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