第4話 名前も知らない共犯者
月曜日の朝。
一週間の始まりを告げるオフィスの空気は、いつだって重い。
特に、営業二課のフロアは、まるで深海のような水圧に支配されている。
「石井さん。この報告書、日付が去年のままになっているわよ」
その水圧の中心にいるのは、もちろん「氷の女帝」こと李雪課長だ。
彼女は、ピンク色の派手なバインダーを指先でトントンと叩きながら、目の前の小動物を見下ろしていた。
「ひぃっ! す、すみません課長! 時空が歪んでました!」
「言い訳はいいから。あと、フォントがまたポップ体になっているわ。ここは幼稚園じゃないのよ」
「すぐ直しますぅ〜!」
叱られているのは、入社2年目の石井ミチル。
茶色いボブヘアに、クルクルと変わる表情。愛嬌だけを武器に厳しい就活戦線を生き抜いてきた、当課のマスコット的存在だ。
彼女は涙目でデスクに戻ると、すがるような目で俺の方を見た。
「橋本センパァ〜イ……」
「……またか、石井」
俺――橋本一郎は、ため息をつきつつ、彼女のPC画面を覗き込んだ。
案の定、フォーマットは崩れ、誤字脱字のオンパレードだ。
「これ、テンプレート使ってないだろ」
「だってぇ、センパイの作ったテンプレ、入力項目が多くて面倒くさいんですもん。私なりにアレンジしたんですけど」
「それがダメなんだよ。……ほら、貸して。ここをこうして……」
俺がキーボードを叩き、数分で修正を完了させると、ミチルは「神!」と叫んで手を合わせた。
「さすがセンパイ! 橋本センパイは私のドラえもんですね!」
「誰がドラえもんだ。……次からは自分でやれよ」
「はーい! エヘヘ、センパイ大好き!」
彼女はあざとくウインクを飛ばすと、修正した書類を持って再び李課長の元へ特攻していった。
やれやれ、と俺は肩をすくめる。
ふと視線を感じて顔を上げると、奥の席で李課長がこちらを見ていた。
その視線は氷のように冷たい……かと思いきや、ほんの一瞬、呆れたように、そしてどこか柔らかく細められたのを、俺は見逃さなかった。
(……甘やかしてばかりじゃダメよ、師匠)
そんな声が聞こえた気がした。
俺たちは視線を合わせず、心の中だけで会話をする。
これが、正体を知り合ってしまった(けれど隠している)二人の、新しい距離感だった。
その日の深夜24時。
俺はいつものコンビニの前で、いつもの「彼女」を待っていた。
ネクタイを外し、眼鏡をポケットにしまい、背筋を伸ばしたオフモード。
この姿になると、不思議と一日の疲れがリセットされる気がする。
ペタペタというサンダルの音。
現れたのは、えんじ色の芋ジャージに、ボサボサお団子ヘアの李雪だ。
今日のTシャツの文字は、達筆な文字で『不屈』と書かれている。月曜日に相応しいチョイスだ。
「こんばんは、師匠」
「こんばんは。……『不屈』ですね」
「ええ。月曜日は心がおれそうになるから、物理的に文字を身に纏うことにしたの」
彼女は真顔で言いながら、小さなあくびをした。
その無防備な仕草に、俺の頬が緩む。
「で、今日の処方箋は?」
「そうですね……今日は週初めですから、あまり重たいものは避けたい。でも、手のかかる後輩のフォローで疲れた脳には、糖分が必要です」
俺はあくまで一般論として、しかし特定の誰かを思い浮かべながら言った。
すると、彼女も「他人」の顔で、深く頷いた。
「分かるわ。……私も、今日はずっと『子犬みたいな部下』の世話で神経をすり減らしたから」
俺たちは顔を見合わせて、クスリと笑った。
「後輩」と「部下」。
それが同一人物(石井)であることを、俺たちは互いに理解している。
だが、決して名前は出さない。
名前を出せば、ここは「会社の延長」になってしまうからだ。
「じゃあ、今日は『甘じょっぱい』系でいきましょう。デザート感覚で食べられるスナックです」
「採用」
俺たちは並んで自動ドアをくぐった。
スナック菓子の棚へ向かう。
「これです。『厚切りポテトチップス(うすしお)』。そして、こっちの『板チョコレート』」
「……混ぜるの?」
「いえ、交互に食べるんです。ポテチ、チョコ、ポテチ、チョコ……。塩気と甘みの無限ループ。これを『悪魔のわんこそば』と呼びます」
「……ネーミングセンスは最悪だけど、想像しただけで唾液が出てきたわ」
彼女は嬉しそうに商品をカゴに入れた。
その時だった。
ウィーン、と自動ドアが開く音。
同時に、騒がしい独り言が入ってきた。
「あー、マジ無理。エイム合わねぇ。ラグすぎだろクソ鯖……」
その声に、俺と李雪の動きが同時に止まった。
聞き覚えがありすぎる声だ。
俺たちは顔を見合わせ、スローモーションのように入り口の方を見た。
そこにいたのは、フードを深く被り、首に大きなゲーミングヘッドホンをかけた小柄な女性。
ダボッとしたパーカーに、ショートパンツ。
化粧っ気はないが、その整った顔立ちと、特徴的な茶色のボブヘアは隠せていない。
――石井だ。
昼間、会社で俺に泣きついていた石井ミチルだ。
(まずい……!)
俺は戦慄した。
隣を見ると、李雪も目を見開き、カゴを握る手が白くなっていた。
彼女も気づいたのだ。自分の部下が、まさかこんな深夜に、こんなラフな格好で現れるとは夢にも思わなかっただろう。
ミチルはスマホの画面を睨みつけながら(恐らくFPSゲームの戦績画面だ)、エナジードリンクの棚へと直行していく。
「……ッ」
俺はとっさに李雪の腕を引き、商品棚の陰に隠れた。
「……師匠?」
「しっ。……知り合いです」
俺が小声で告げると、李雪は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに深く頷いた。
「……奇遇ね。私もよ」
彼女はそれ以上何も聞かず、俺の背中に隠れるようにして身を屈めた。
この反応。やはり彼女も気づいている。
だが、今はそんな確認をしている場合ではない。
もしここで見つかったら、営業二課は崩壊する。
俺の「イケメン」擬態がバレるのもマズいが、何より「ジャージ姿の李課長」が部下に見つかることは、彼女の社会的死を意味する。
「う〜、どれにしよ。やっぱ魔剤かなぁ……」
ミチルは棚の前で独り言を呟きながら、俺たちのいるスナック菓子コーナーの方へ近づいてくる。
距離、あと3メートル。
このままでは、隠れていても見つかる。
「……どうするの、師匠」
李雪が震える声で囁く。
俺は覚悟を決めた。
ここで二人揃ってコソコソ隠れている方が、見つかった時の言い訳が立たない。
俺が囮になるしかない。
「俺が壁になります。貴方は顔を伏せて、俺の反対側にいてください」
「えっ、でも……」
「大丈夫。俺には『変装』がありますから」
俺は今の自分の姿――眼鏡なし、前髪上げ、高級感のある佇まい――を信じることにした。
普段の猫背でオドオドした橋本とは、シルエットが違うはずだ。
俺は李雪を庇うように立ち位置を変え、堂々と通路に出た。
ミチルとすれ違う瞬間。
俺はスマホを取り出し、誰かと通話しているフリをした。
「……ああ、そうだ。プロジェクトの進捗は順調だ。……ニューヨーク市場がね」
低音ボイスで、適当なそれっぽい単語を並べる。
ミチルが顔を上げた。
ヘーゼルナッツ色の瞳が、俺を捉える。
心臓が止まりそうになる。
バレるか?
「あ、センパイ! 何イキってるんですか!」と言われるか?
だが、ミチルの反応は予想外だった。
「……っ!?」
彼女は俺の顔を見た瞬間、目を見開き、口をポカンと開けた。
そして、頬を赤く染め、慌てて視線を逸らしたのだ。
「(うっわ、何あのイケメン……! めっちゃフェロモン出てる……! レアキャラじゃん!)」
聞こえた。
心の声が漏れ出ているかのような、大きな独り言が。
彼女は俺に気づいていない。それどころか、俺を「見知らぬイケメン」として認識している。
俺の擬態は、完璧だったのだ。
俺はそのまま、李雪を連れてレジとは反対方向へ抜け、死角に入った。
ミチルは興奮した様子でエナジードリンクを3本鷲掴みにし、レジへと向かっていった。
「……ふぅ」
ミチルが店を出て行くのを確認し、俺は深く息を吐いた。
背中には冷や汗がびっしりと浮かんでいる。
「……行ったか?」
「ええ。……危なかったわね」
背後から、李雪が顔を出した。
彼女もまた、顔を紅潮させ、息を弾ませている。
自分の部下に、あんな間近で遭遇したのだ。寿命が縮んだことだろう。
「師匠、貴方……演技派ね」
「貴方こそ。気配を消すのが上手すぎます」
「貴方の『普段の気配のなさ』を参考にさせてもらったのよ……あ」
彼女は口を滑らせ、慌てて口元を押さえた。
「普段の気配のなさ」。
それはつまり、会社での俺の姿をよく見ているという告白に他ならない。
俺は聞かなかったフリをして、ニヤリと笑った。
「とにかく、無事でよかった。……さあ、ポテチとチョコを買って帰りましょう。今の緊張で、カロリーを消費してしまいましたから」
「そうね。……プラマイゼロにするために、チョコをもう一枚追加するわ」
俺たちは顔を見合わせて笑い合い、共犯者としての絆をさらに深めたのだった。
互いに、「今の誰?」とは決して聞かずに。
翌朝。
オフィスに出社した俺は、デスクに着くなりミチルに話しかけられた。
「センパ〜イ! 聞いてくださいよぉ!」
「……なんだ、朝から」
俺はいつもの黒縁メガネと猫背スタイルで、気だるげに応じる。
ミチルは目をキラキラさせて、身を乗り出してきた。
「昨日、深夜のコンビニですっごいイケメン見ちゃったんです!」
「へぇ……」
「背が高くて、ガタイが良くて、なんかこう……ハリウッドスターみたいなオーラがあって! 絶対モデルですよ、あの人!」
彼女は昨夜の俺の特徴を熱心に語り始めた。
俺は心の中でガッツポーズをしつつ、表面上は興味なさそうに相槌を打つ。
「よかったな。で、サインでも貰ったのか?」
「無理ですよぉ! オーラが凄すぎて近づけませんでしたもん。……あ、でも」
ミチルは声を潜め、周囲を伺うようにした。
「そのイケメン、連れがいたんですよ」
「連れ?」
「はい。なんか、えんじ色のダサいジャージ着た、ボサボサ頭の女の人で……」
ブフォッ。
俺は危うくコーヒーを吹き出しそうになった。
「なんであんなイケメンがあんな残念な感じの人と……って思ったんですけど、二人の雰囲気がなんか、凄く良かったんですよねぇ。こう、熟年夫婦みたいな、秘密の共犯者みたいな……」
「そ、そうか……」
「あーあ、私もあんなイケメンと深夜のコンビニデートしたいなぁ……」
ミチルは夢見るような目で天井を仰いだ。
その背後を、李雪課長が通りかかる。
彼女は無表情のまま、しかし耳を真っ赤にして、足早に自席へと向かっていった。
俺はPCのモニターに隠れて、必死に笑いを堪えた。
名前も知らない共犯者たち。
その正体が、目の前にいる上司と先輩であることに、彼女が気づく日は来るのだろうか。
まあ、しばらくはこのままでいい。
俺はポケットの中の『不屈』の精神を思い出しながら、今日も社畜としての仮面を被り直した。




