第23話 ミチルの目撃情報
金曜日の午後。
窓の外は梅雨の晴れ間で、久しぶりの太陽がアスファルトを焼いている。
俺は、自宅のリビングでPCに向かい、カタカタとキーボードを叩いていた。
今日はテレワークだ。
会社に行かなくて済むのはありがたいが、自宅には自宅の「誘惑」がある。
「……くぅ〜ん」
足元から、甘えたような鳴き声が聞こえる。
視線を落とすと、豆柴のレオが俺の足の甲に顎を乗せ、上目遣いでこちらを見つめていた。
黒い毛並みに、麻呂眉のような茶色の斑点。そのつぶらな瞳は「仕事なんてやめて遊ぼうぜ」と訴えかけている。
「……駄目だぞ、レオ。パパは今、上海とのビデオ会議中なんだ」
俺は小声で諭しながら、画面の向こうの担当者に愛想笑いを向けた。
だが、レオは納得していない。
彼は短い前足で俺の靴下をカリカリと掘り始めた。
「こら、やめろ」
「ワフッ!」
レオが小さく吠え、その場でクルクルと回り始める。
そして、助走をつけて俺の膝の上にジャンプしてきた。
「うおっ!?」
俺は慌ててマイクをミュートにする。
レオは俺の膝の上で満足そうに丸まり、あろうことかキーボードの上に顎を乗せようとする。
「ちょ、そこはエンターキーだ! 送信されちゃうだろ!」
俺が慌てて阻止すると、レオは「ちぇっ」という顔をして、俺の腕に頬を擦り付けてきた。
温かい体温。柔らかい毛並み。
……だめだ。こんな可愛い「お邪魔虫」がいては、仕事にならない。
「……Sorry, connection trouble(ごめん、回線トラブルだ)」
俺はチャットで適当な言い訳を打ち込み、カメラをオフにした。
そして、レオを抱き上げて思いっきりモフる。
「お前なぁ……可愛すぎるんだよ。反則だぞ」
「キャン!」
レオは嬉しそうに俺の鼻を舐めた。
これが俺のテレワークの実態だ。生産性が上がっているのか下がっているのか分からないが、精神衛生上の幸福度はカンストしている。
その時、スマホが震えた。
画面を見ると、『迷い猫』からのメッセージだ。
『会議お疲れ様。……画面の端に、黒い耳が見えてたわよ』
見てたのか。
俺は冷や汗をかきながら返信する。
『すみません。アシスタントが優秀すぎて』
『ふふ。……今夜、そのアシスタントの話も聞かせてね。24時集合で』
短いやり取り。
それだけで、午後の仕事への活力が湧いてくる。
俺はレオを床に下ろし、気合を入れ直してPCに向かった。
夜には、もう一人の「手のかかる猫」が待っているのだから。
★★★★★★★★★★★
一方、その頃の営業二課オフィス。
入社2年目の石井ミチルは、死んだ魚のような目でモニターを見つめていた。
「……終わらない。終わる気がしない」
金曜日の夕方。
来週のプレゼン資料の作成が終わらず、彼女は残業確定コースをひた走っていた。
頼みの綱である橋本センパイは、今日はテレワークで不在。
チャットで質問すればすぐに返ってくるが、やはり隣にいてくれる安心感がないと、筆が進まない。
「あーあ……。センパイの淹れてくれるコーヒーが飲みたいなぁ……」
ミチルが机に突っ伏していると、カツカツというヒールの音が近づいてきた。
ビクッとして顔を上げると、そこには李雪課長が立っていた。
「石井さん。進捗はどう?」
「あ、はいっ! ええと、あと30%くらいです……多分!」
「……そう。今日は橋本がいないから、甘えられないわね」
李課長は冷ややかに言った。
だが、その声にはいつもの刺々しさがなく、どこか機嫌が良さそうに聞こえる。
彼女は腕時計を確認し、バッグを手に取った。
「私は先に出るわ。戸締まり、頼んだわよ」
「えっ? 課長、もう帰るんですか?」
時計は18時ジャスト。
普段なら「残業は美徳ではない」と言いつつも、誰よりも遅くまで残っているはずの鬼上司が、今日は定時ダッシュだ。
「ええ。……野暮用があるの」
李課長は口元を微かに緩め、颯爽とフロアを出て行った。
その足取りは、心なしかスキップしそうなほど軽い。
「……怪しい」
ミチルは呟いた。
女の勘が告げている。
あの鉄仮面の李課長が、金曜の夜に定時退社。しかも、あんなに嬉しそうに。
これは間違いなく「男」だ。
「まさか、デート……? いやいや、あの氷の女帝に彼氏なんて……。でも、最近肌艶いいし……」
ミチルは悶々としながら、残りの仕事を片付けた。
ようやく会社を出たのは、23時を回った頃だった。
腹はペコペコ。脳は糖分を求めて悲鳴を上げている。
「……コンビニ寄ってこ」
彼女は自宅近くの、いつものコンビニへと向かった。
★★★★★★★★★★★
深夜24時15分。
橋本はいつものように、コンビニの前で待っていた。
今日は少し蒸し暑い。
ネクタイを外し、シャツの第一ボタンを開け、腕まくりをする。
眼鏡は胸ポケットへ。
完全に「オフモード」のスタイルだ。
ペタペタとサンダルの音がして、李雪が現れた。
えんじ色の芋ジャージに、お団子ヘア。
今日のTシャツの文字は『呉越同舟』。
……誰と誰のことだろうか。
「こんばんは、師匠」
「お疲れ様です。……今日は早かったですね」
「ええ。貴方に会うために、全速力で仕事を片付けたもの」
彼女は悪びれもせずに言った。
その率直さに、俺は少し照れてしまう。
「で、今日のオーダーは? テレワークで体が鈍ってるでしょ? ガツンとくるやつがいいわ」
「そうですね……。今日は『韓国』へ行きましょう」
俺たちは並んで店内に入った。
レジには長谷川が立っている。
彼女は俺たちを見ると、「いらっしゃいませ、マエストロ」と目で挨拶を送ってきた。
俺が選んだのは、冷凍食品の『ヤンニョムチキン』と『チーズボール』。
さらに、カップの『トッポギ』。
すべて、甘辛くて濃厚なコリアン・ジャンクフードだ。
「これらを、全部一つの皿に盛ります。そして、追いチーズをしてレンジで加熱。……『深夜のチーズタッカルビ風プレート』の完成です」
「……カロリーの暴力ね。最高だわ」
李雪は喉を鳴らした。
俺たちは会計を済ませ、商品の入った袋を提げて店を出ようとした。
その時だった。
自動ドアが開き、疲れ切った様子の若い女性が入ってきた。
キャップを目深に被り、ダボッとしたパーカー姿。
石井ミチルだ。
「……ッ!」
俺は息を呑んだ。
李雪も気づき、ビクッとして俺の腕を掴んだ。
ミチルはスマホを見ながら、ゾンビのようにスイーツコーナーへ向かっている。まだこちらには気づいていない。
「……どうする? 隠れる?」
李雪が小声で囁く。
彼女の手が、俺のシャツの袖をギュッと握りしめている。
その距離、ほぼ密着状態。
「いや、今動くと逆に目立ちます。……自然に、すれ違いましょう」
俺は覚悟を決めた。
前回の遭遇では、「見知らぬイケメン」として認識された。
今回も、堂々としていればバレないはずだ。
俺は李雪を庇うように立ち位置を変え、出口へと向かった。
だが。
運悪く、ミチルが顔を上げた。
彼女の視線が、俺たちを捉える。
「……あ」
ミチルの目が、俺の顔に釘付けになった。
そして次に、俺の袖を掴んでいる李雪の手元へ。
さらに、李雪の顔へ。
時間が止まったような数秒間。
俺は心臓が早鐘を打つのを感じながら、平静を装って彼女の横を通り過ぎようとした。
「……えっ? うそ……?」
ミチルが小さな声を漏らした。
彼女の視線は、俺の顔と、李雪の顔を何度も往復している。
(……バレたか?)
冷や汗が流れる。
だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
俺は李雪の肩を抱くようにして、足早に店を出た。
自動ドアが閉まる背後で、ミチルが呆然と立ち尽くしている気配がした。
★★★★★★★★★★★
店内に残されたミチルは、混乱の極みにあった。
「……今の……」
彼女の脳内で、今見た光景が走馬灯のように再生される。
背が高くてガタイの良い、ワイルドなイケメン。
以前も見かけた「レアキャラ」の人だ。
でも、今日は何かが違った。
あの歩き方。ふとした瞬間の、首の傾げ方。
そして何より、すれ違いざまに微かに香った柔軟剤の匂い。
(……橋本センパイと同じ匂い?)
いや、まさか。
センパイはあんなにカッコよくない。もっと猫背で、オーラがなくて、クマさんみたいな人だ。
眼鏡をしていないだけで、あんなに変わるものだろうか。
そして、隣にいた女性。
ボサボサのお団子頭に、えんじ色のダサいジャージ。
顔はよく見えなかったけれど、あの小柄な背丈と、凛とした立ち振る舞い。
それに、あの男性の袖をギュッと掴んでいた、白くて綺麗な指先。
(……あの手、李課長の手に見えた……)
今日の夕方、オフィスで見た李課長の指先と、完全に重なる。
それに、課長は定時で帰った。「野暮用」と言って。
ミチルの脳内で、パズルのピースがカチリと音を立てて嵌まりそうになる。
イケメン = 橋本センパイ?
ジャージ女 = 李課長?
二人は、深夜のコンビニで……手を繋いでいた?
「……いやいやいや! ナイナイ! 絶対ない!」
ミチルはブンブンと首を振った。
あの「氷の女帝」と、あの「草食系センパイ」だ。
水と油。月とスッポン。
二人が付き合っているなんて、天地がひっくり返ってもありえない。
「……でも」
ミチルは、二人が消えていった自動ドアを見つめた。
あの二人の間に流れていた空気。
言葉はなくても通じ合っているような、濃密で、親密な気配。
あれは、ただの他人同士の距離感じゃなかった。
「……もし、そうだったら……」
ミチルの胸に、得体の知れないモヤモヤが広がった。
それは、尊敬するセンパイを取られたような寂しさか。
それとも、憧れの上司の意外な一面を知ってしまった衝撃か。
「……とりあえず、糖分。糖分摂らなきゃ頭が回んない」
彼女はフラフラとスイーツコーナーへ戻り、新作の『特盛プリン』を手に取った。
その目には、探偵のような鋭い光が宿り始めていた。
★★★★★★★★★★★
公園のベンチ。
俺と李雪は、ヤンニョムチキンとトッポギを広げていた。
甘辛いタレの香りが、食欲をそそる。
「……見たわよね、あの子」
李雪がトッポギを齧りながら、ボソリと言った。
「ええ。ガッツリ目が合いました」
「……バレたかしら」
「どうでしょう。俺は眼鏡を外してましたし、貴方はジャージでしたから。……ただ、『何か』を感じ取った顔はしてましたね」
俺はビールを飲みながら答えた。
ミチルの勘は鋭い。
仕事ではポンコツだが、こういうゴシップに関する嗅覚は野生動物並みだ。
「……もしバレたら、どうする?」
李雪が不安そうに俺を見る。
俺は、チキンを一つ彼女の口に運んでやった。
「その時はその時です。……俺たちが『共犯』であることに変わりはありませんから」
彼女はチキンをパクリと食べ、モグモグと咀嚼した。
そして、ふっと笑う。
「……そうね。今は、この甘辛い味を楽しむことにするわ」
彼女は俺の肩に、こてんと頭を乗せた。
コンビニでの「袖掴み」の延長戦。
誰に見られても構わない、という開き直りと、二人だけの秘密を守り抜くという決意。
月明かりの下、俺たちは赤いソースにまみれながら、スリリングな夜食を楽しんだ。
ミチルの目撃情報は、間違いなく週明けのオフィスに波紋を呼ぶだろう。
だが、それすらも俺たちの日常のスパイスになる気がした。
俺は彼女の髪を撫で、心の中でレオに語りかけた。
『パパは今、別の猫を手懐けるのに忙しいんだ。……朝まで待っててくれよ』




