第22話:山下の疑惑
週の半ば、水曜日の夜。
ここ数日、湿度の高い日が続いていた。
ジメジメとした空気は、体力を奪い、精神を摩耗させる。
そんな夜、俺が渇望したのは、湿気を吹き飛ばすような強烈な「酸味」と「辛味」だった。
23時。自宅のキッチン。
俺の足元では、愛犬のレオが「遊んでくれ」とボールを咥えてウロウロしているが、今だけは勘弁してほしい。
俺は今、タイの屋台にトリップしている最中なのだから。
まな板の上には、立派な有頭海老が5尾。
そして、エスニック料理には欠かせないハーブの三神器。
レモングラス、カー、そしてバイマックル。
これらが揃わなければ、本物の味は出せない。俺はわざわざ輸入食材店まで足を運んで調達してきた。
「……まずは、海老の処理だ」
俺は海老の頭と殻を外し、身の背わたを丁寧に取る。
身は別の皿へ。主役は、むしろ「殻と頭」の方だ。
鍋に油を熱し、海老の頭と殻を投入する。
ヘラで頭を押し潰すように炒めると、濃厚な海老味噌が溶け出し、油が鮮やかなオレンジ色に染まっていく。
香ばしい甲殻類の香りが、換気扇へと吸い込まれていく。
「よし。ここに水と、ハーブを投入」
斜め切りにしたレモングラス、スライスしたカー、手でちぎったバイマックルを入れる。
沸騰すると、爽やかな柑橘系の香りが立ち上り、海老の濃厚な匂いと混ざり合って、食欲中枢を直接刺激してくる。
さらに、半分に切ったフクロタケを加える。このキノコ独特の食感が、スープの良いアクセントになるのだ。
味の決め手は、『ナムプリック・パオ』。
干し海老や唐辛子、ニンニクなどを油で揚げてペースト状にした、タイのチリインオイルだ。
これを大さじ一杯溶かし込むと、スープに深みのある辛さとコクが加わる。
仕上げにナンプラーで塩気を整え、海老の身を戻し入れる。身は火を通しすぎると硬くなるので、サッと煮るだけでいい。
火を止めてから、最後にライムを絞る。
加熱しすぎると酸味が飛んでしまうからだ。
ギュッと絞った果汁が、濃厚なスープを引き締め、鮮烈な輪郭を与える。
「……完成だ。『本格トムヤムクン』」
世界三大スープの一つ。
酸っぱくて、辛くて、甘くて、塩っぱい。味覚のジェットコースター。
これを保温ジャーにたっぷりと注ぎ込む。
そして、今夜の相棒。
冷蔵庫から取り出したのは、象のマークが描かれた『チャンビール』だ。
すっきりとした喉越しと、ほのかなモルトの香りが、スパイシーな料理に最高に合う。
「レオ、お留守番頼むな」
俺はレオの頭を撫でて、夜の街へと繰り出した。
外の湿気さえも、今の俺には「現地の空気」のように感じられた。
深夜24時15分。
いつもの公園のベンチ。
俺はランタンを灯し、簡易的なテーブルセッティングを終えていた。
隣には、李雪が座っている。
今日の彼女は、紺色のジャージに『無病息災』と書かれたTシャツを着ている。
どうやら、ここ最近の気候変動で体調管理に気を使っているらしい。
「……いい匂い。レモングラスね」
彼女は鼻をひくつかせ、期待に満ちた目でスープジャーを見つめた。
「正解です。今日は湿気が多いので、スカッとするやつを用意しました」
俺はスープをカップに注ぎ、彼女に渡した。
さらに、キンキンに冷えたビールも。
「いただきます」
彼女はまず、スープを一口啜った。
その瞬間、目がカッと見開かれる。
「……んっ! 酸っぱい! ……辛い! ……でも、美味しい!」
彼女の額に、うっすらと汗が滲む。
「海老の旨味が濃厚なのに、ライムとハーブで後味は爽やか……。これ、お店の味以上よ、師匠」
「ナムプリック・パオを惜しみなく使いましたからね」
俺も自分の分を飲み、すぐにビールで流し込む。
唐辛子の刺激で熱くなった舌を、冷たいラガーが洗い流していく快感。
最高だ。
俺たちは無言でスープとビールを往復し、蒸し暑い夜を楽しんでいた。
互いに正体を知り、パートナーとしての契約を結んだ今、沈黙すらも心地よい。
……はずだった。
「はぁ……。ため息しか出ないわ……」
公園の入り口から、重たい足音と共に、怨嗟の声が近づいてきた。
俺と李雪は顔を見合わせ、スプーンを止めた。
この声、この気配。
間違いない。
街灯の下、よろよろと現れたのは、グレーのパーカーにショートパンツ姿の女性。
山下恭子だ。
彼女は片手に空になったストロング缶を提げ、もう片方の手で頭を抱えている。
「あ、ドラえもん……! いたぁ……!」
俺を見つけるなり、彼女は泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
李雪が「チッ」と舌打ちをして、俺の背中に隠れる。
「こんばんは、山下さん……じゃなくて、お姉さん。どうしたんですか?」
俺はうっかり本名で呼びそうになり、慌てて訂正した。
彼女の前では、俺は「橋本」ではなく「ドラえもん」でなければならない。
「聞いてよぉ……。今日ね、会社で部下がミスしたのよ。それはいいの、ミスは誰にでもあるから。でもね、それを庇おうとしたら、あの鉄仮面に『管理不足です』って正論で詰められて……」
山下は俺の隣にドカッと座り込み、肩を預けてきた。
酒臭い。すでに出来上がっているようだ。
背後で、本物の「鉄仮面」が冷ややかなオーラを放っているのを感じる。
気まずい。非常に気まずい。
「……それは、大変でしたね」
「でしょう!? 私だって分かってるのよ、彼女の言うことが正しいって。でも、もっと言い方があるじゃない! 人の心がないのよ、あいつには!」
山下は空き缶を握りつぶさんばかりに力を込めた。
「まあ、彼女も悪気はないと思いますよ。……効率を重視するあまり、言葉が足りないだけで」
俺がついフォローを入れると、山下はジト目で俺を睨んだ。
「……なんでドラえもんが彼女の肩を持つの? 会ったこともないくせに」
ドキリとした。
失言だ。
「い、いえ、一般論ですよ。管理職ってのはそういう生き物かなって」
「ふーん……。ま、いいわ。それより、いい匂いさせてるじゃない。私にも頂戴」
彼女は俺の手元にあるトムヤムクンを指差した。
俺は予備のカップを取り出し、スープを注いで渡した。
ついでに、余っていたビールも。
「……ん! なにこれ、辛っ! うまっ!」
山下は一口飲むなり、機嫌を直したようだ。
単純で助かる。
だが、問題はここからだった。
カシャン、カシャン。
金属音が近づいてくる。
作業着姿で自転車を押しながら現れたのは、物流管理部の前田奈緒美だった。
仕事帰りなのだろう、首にはタオルを巻いている。
「あ、いい匂い! ……って、あれ? ここ宴会場っすか?」
前田は俺たちを見つけ、ニカッと笑った。
俺、李雪、そして山下。
このカオスなメンバーを見て、彼女の目が「面白そうなことになってる」と輝く。
まずい。
前田は俺と李雪の正体を知っているが、山下が「気づいていない」ことまでは、詳しく説明していなかったかもしれない。
「お疲れっすー! ……あ、橋本先ぱ……」
前田が言いかけ、俺が目を見開いて「言うな」と念を送るよりも早く、彼女は自分の口を手で覆った。
だが、遅かった。
「橋本」という単語の最初の二文字、「ハシ」あたりまでが明確に漏れていた。
「……ん?」
スープを飲んでいた山下が、ピクリと反応した。
「今、なんて?」
「え? いや、あの、ハシ……箸! 箸もっとないっすか? って言おうとしたんすよ!」
前田が必死に取り繕う。
苦しい。あまりにも苦しい言い訳だ。
彼女は冷や汗をダラダラと流しながら、俺に助けを求める視線を送ってくる。
「……そう、箸な。割り箸ならあるぞ」
俺は話を合わせ、割り箸を差し出した。
だが、山下の目は笑っていなかった。
彼女はスープカップを置き、じっと俺の顔を見た。
そして、次に前田を見る。
「……貴女、うちの物流の前田さんよね?」
「へ? あ、はい。お疲れ様っす、山下課長」
「貴女、この人と知り合いなの?」
山下の声が低い。
刑事の尋問のような圧がある。
前田は目が泳ぎまくっている。
「し、知り合いっていうか……その、ここのコンビニでよく会うっていうか……飲み仲間? みたいな?」
「飲み仲間にしては、随分と敬語を使ってるのね」
「そ、それはほら! 私、体育会系なんで! 年上の人には無条件で敬語になっちゃうんすよ! オス!」
前田は意味不明な敬礼をした。
墓穴を掘っている。
俺は頭を抱えたくなった。彼女を「防波堤」として期待したのが間違いだったか。彼女は防波堤どころか、ダイナマイトを持ってはしゃぐ子供だ。
山下は納得していない様子で、再び俺に向き直った。
その瞳が、俺の体格、手、そして顔の輪郭を舐めるように観察する。
「……ねえ、ドラえもん」
「……はい」
「貴方、私の会社の『橋本』っていう部下に、似てない?」
心臓が止まるかと思った。
確信に近づいている。
「似ている」というレベルではない。彼女の中で、点と点が繋がりかけているのだ。
身長、体格、声、そして前田の反応。
全ての証拠が、俺を指し示している。
「……よく言われます。あるある顔なんですよ、俺」
俺は精一杯のポーカーフェイスで返した。
背中には嫌な汗が流れている。
「そう……? でも、橋本くんはもっとこう、猫背で、覇気がなくて、ダサい眼鏡をかけてるのよね」
山下は顎に手を当てて考え込んだ。
「貴方みたいに、堂々としてて、料理上手で、頼りがいのある人とは正反対……。うん、やっぱり違うか」
彼女は自己完結し、再びスープを飲み始めた。
助かった。
俺の普段の「擬態」が、あまりにも完璧すぎたおかげだ。
俺と前田は、大きく息を吐いた。
だが、その様子を後ろで見ていた李雪が、ボソリと呟いた。
「……ふん。見る目がないわね」
「え?」
山下が反応する。
李雪は冷ややかな笑みを浮かべ、山下を見下ろした。
「本質を見抜けないから、貴女はいつまで経っても『二番手』なのよ」
「はぁ!? なによそれ! 喧嘩売ってんの!?」
山下が立ち上がる。
李雪の挑発。それは、俺の正体がバレるリスクを冒してでも、山下の「橋本への過小評価」が許せなかったからなのか。それとも、単に煽りたかっただけなのか。
どちらにせよ、火に油だ。
「まあまあ! 落ち着いて!」
前田が割って入る。
「せっかくのトムヤムクンが冷めるっすよ! ほら、飲んで飲んで!」
前田は半ば強引に山下にビールを勧める。
山下は「ムキーッ!」となりながらも、酒の誘惑には勝てず、グビグビと飲み干した。
「……もういい! ドラえもん、おかわり!」
「はいはい」
俺はスープを注ぎ足した。
山下はそれを飲み干し、酔いが回ったのか、そのままベンチで船を漕ぎ始めた。
「……ふぅ。嵐が去ったわね」
李雪がやれやれといった様子で肩をすくめる。
前田が俺に近寄り、小声で囁いた。
「……先輩、マジですみません。口が滑りました」
「いいよ。……だが、次はもっとマシな嘘を考えておいてくれ」
「了解っす! 『生き別れの双子の兄』設定とかどうっすか?」
「……却下だ」
俺たちは苦笑いした。
山下の寝顔は、子供のように無防備だ。
今はまだ、誤魔化せている。
だが、彼女の「勘」は侮れない。いつか、決定的な証拠を掴まれる日が来るかもしれない。
俺は空になった鍋を見つめ、残りのビールを飲み干した。
酸っぱくて辛いスープの余韻が、ヒリヒリと舌に残っている。
それは、綱渡りのような今の状況を楽しむ、俺自身の興奮の味に似ていた。
「……送っていきますよ」
俺は山下を背負い、李雪と前田と共に公園を出た。
奇妙な行列。
だが、その中心にいる俺の背中は、不思議と温かかった。




