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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: U3
第3章:社内抗争とヒロイン包囲網

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22/23

第22話:山下の疑惑

 週の半ば、水曜日の夜。

 ここ数日、湿度の高い日が続いていた。

 ジメジメとした空気は、体力を奪い、精神を摩耗させる。

 そんな夜、俺が渇望したのは、湿気を吹き飛ばすような強烈な「酸味」と「辛味」だった。


 23時。自宅のキッチン。

 俺の足元では、愛犬のレオが「遊んでくれ」とボールを咥えてウロウロしているが、今だけは勘弁してほしい。

 俺は今、タイの屋台にトリップしている最中なのだから。


 まな板の上には、立派な有頭海老が5尾。

 そして、エスニック料理には欠かせないハーブの三神器。

 レモングラス、カー、そしてバイマックル。

 これらが揃わなければ、本物の味は出せない。俺はわざわざ輸入食材店まで足を運んで調達してきた。


「……まずは、海老の処理だ」


 俺は海老の頭と殻を外し、身の背わたを丁寧に取る。

 身は別の皿へ。主役は、むしろ「殻と頭」の方だ。

 鍋に油を熱し、海老の頭と殻を投入する。

 ヘラで頭を押し潰すように炒めると、濃厚な海老味噌が溶け出し、油が鮮やかなオレンジ色に染まっていく。

 香ばしい甲殻類の香りが、換気扇へと吸い込まれていく。


「よし。ここに水と、ハーブを投入」


 斜め切りにしたレモングラス、スライスしたカー、手でちぎったバイマックルを入れる。

 沸騰すると、爽やかな柑橘系の香りが立ち上り、海老の濃厚な匂いと混ざり合って、食欲中枢を直接刺激してくる。

 さらに、半分に切ったフクロタケを加える。このキノコ独特の食感が、スープの良いアクセントになるのだ。


 味の決め手は、『ナムプリック・パオ』。

 干し海老や唐辛子、ニンニクなどを油で揚げてペースト状にした、タイのチリインオイルだ。

 これを大さじ一杯溶かし込むと、スープに深みのある辛さとコクが加わる。

 仕上げにナンプラーで塩気を整え、海老の身を戻し入れる。身は火を通しすぎると硬くなるので、サッと煮るだけでいい。


 火を止めてから、最後にライムを絞る。

 加熱しすぎると酸味が飛んでしまうからだ。

 ギュッと絞った果汁が、濃厚なスープを引き締め、鮮烈な輪郭を与える。


「……完成だ。『本格トムヤムクン』」


 世界三大スープの一つ。

 酸っぱくて、辛くて、甘くて、塩っぱい。味覚のジェットコースター。

 これを保温ジャーにたっぷりと注ぎ込む。

 そして、今夜の相棒。

 冷蔵庫から取り出したのは、象のマークが描かれた『チャンビール』だ。

 すっきりとした喉越しと、ほのかなモルトの香りが、スパイシーな料理に最高に合う。


「レオ、お留守番頼むな」


 俺はレオの頭を撫でて、夜の街へと繰り出した。

 外の湿気さえも、今の俺には「現地の空気」のように感じられた。


 深夜24時15分。

 いつもの公園のベンチ。

 俺はランタンを灯し、簡易的なテーブルセッティングを終えていた。

 隣には、李雪が座っている。

 今日の彼女は、紺色のジャージに『無病息災』と書かれたTシャツを着ている。

 どうやら、ここ最近の気候変動で体調管理に気を使っているらしい。


「……いい匂い。レモングラスね」


 彼女は鼻をひくつかせ、期待に満ちた目でスープジャーを見つめた。


「正解です。今日は湿気が多いので、スカッとするやつを用意しました」


 俺はスープをカップに注ぎ、彼女に渡した。

 さらに、キンキンに冷えたビールも。


「いただきます」


 彼女はまず、スープを一口啜った。

 その瞬間、目がカッと見開かれる。


「……んっ! 酸っぱい! ……辛い! ……でも、美味しい!」


 彼女の額に、うっすらと汗が滲む。


「海老の旨味が濃厚なのに、ライムとハーブで後味は爽やか……。これ、お店の味以上よ、師匠」


「ナムプリック・パオを惜しみなく使いましたからね」


 俺も自分の分を飲み、すぐにビールで流し込む。

 唐辛子の刺激で熱くなった舌を、冷たいラガーが洗い流していく快感。

 最高だ。


 俺たちは無言でスープとビールを往復し、蒸し暑い夜を楽しんでいた。

 互いに正体を知り、パートナーとしての契約を結んだ今、沈黙すらも心地よい。


 ……はずだった。


「はぁ……。ため息しか出ないわ……」


 公園の入り口から、重たい足音と共に、怨嗟の声が近づいてきた。

 俺と李雪は顔を見合わせ、スプーンを止めた。

 この声、この気配。

 間違いない。


 街灯の下、よろよろと現れたのは、グレーのパーカーにショートパンツ姿の女性。

 山下恭子だ。

 彼女は片手に空になったストロング缶を提げ、もう片方の手で頭を抱えている。


「あ、ドラえもん……! いたぁ……!」


 俺を見つけるなり、彼女は泣きそうな顔で駆け寄ってきた。

 李雪が「チッ」と舌打ちをして、俺の背中に隠れる。


「こんばんは、山下さん……じゃなくて、お姉さん。どうしたんですか?」


 俺はうっかり本名で呼びそうになり、慌てて訂正した。

 彼女の前では、俺は「橋本」ではなく「ドラえもん」でなければならない。


「聞いてよぉ……。今日ね、会社で部下がミスしたのよ。それはいいの、ミスは誰にでもあるから。でもね、それを庇おうとしたら、あの鉄仮面に『管理不足です』って正論で詰められて……」


 山下は俺の隣にドカッと座り込み、肩を預けてきた。

 酒臭い。すでに出来上がっているようだ。

 背後で、本物の「鉄仮面」が冷ややかなオーラを放っているのを感じる。

 気まずい。非常に気まずい。


「……それは、大変でしたね」


「でしょう!? 私だって分かってるのよ、彼女の言うことが正しいって。でも、もっと言い方があるじゃない! 人の心がないのよ、あいつには!」


 山下は空き缶を握りつぶさんばかりに力を込めた。


「まあ、彼女も悪気はないと思いますよ。……効率を重視するあまり、言葉が足りないだけで」


 俺がついフォローを入れると、山下はジト目で俺を睨んだ。


「……なんでドラえもんが彼女の肩を持つの? 会ったこともないくせに」


 ドキリとした。

 失言だ。


「い、いえ、一般論ですよ。管理職ってのはそういう生き物かなって」


「ふーん……。ま、いいわ。それより、いい匂いさせてるじゃない。私にも頂戴」


 彼女は俺の手元にあるトムヤムクンを指差した。

 俺は予備のカップを取り出し、スープを注いで渡した。

 ついでに、余っていたビールも。


「……ん! なにこれ、辛っ! うまっ!」


 山下は一口飲むなり、機嫌を直したようだ。

 単純で助かる。

 だが、問題はここからだった。


 カシャン、カシャン。

 金属音が近づいてくる。

 作業着姿で自転車を押しながら現れたのは、物流管理部の前田奈緒美だった。

 仕事帰りなのだろう、首にはタオルを巻いている。


「あ、いい匂い! ……って、あれ? ここ宴会場っすか?」


 前田は俺たちを見つけ、ニカッと笑った。

 俺、李雪、そして山下。

 このカオスなメンバーを見て、彼女の目が「面白そうなことになってる」と輝く。

 まずい。

 前田は俺と李雪の正体を知っているが、山下が「気づいていない」ことまでは、詳しく説明していなかったかもしれない。


「お疲れっすー! ……あ、橋本先ぱ……」


 前田が言いかけ、俺が目を見開いて「言うな」と念を送るよりも早く、彼女は自分の口を手で覆った。

 だが、遅かった。


 「橋本」という単語の最初の二文字、「ハシ」あたりまでが明確に漏れていた。


「……ん?」


 スープを飲んでいた山下が、ピクリと反応した。


「今、なんて?」


「え? いや、あの、ハシ……箸! 箸もっとないっすか? って言おうとしたんすよ!」


 前田が必死に取り繕う。

 苦しい。あまりにも苦しい言い訳だ。

 彼女は冷や汗をダラダラと流しながら、俺に助けを求める視線を送ってくる。


「……そう、箸な。割り箸ならあるぞ」


 俺は話を合わせ、割り箸を差し出した。

 だが、山下の目は笑っていなかった。

 彼女はスープカップを置き、じっと俺の顔を見た。

 そして、次に前田を見る。


「……貴女、うちの物流の前田さんよね?」


「へ? あ、はい。お疲れ様っす、山下課長」


「貴女、この人と知り合いなの?」


 山下の声が低い。

 刑事の尋問のような圧がある。

 前田は目が泳ぎまくっている。


「し、知り合いっていうか……その、ここのコンビニでよく会うっていうか……飲み仲間? みたいな?」


「飲み仲間にしては、随分と敬語を使ってるのね」


「そ、それはほら! 私、体育会系なんで! 年上の人には無条件で敬語になっちゃうんすよ! オス!」


 前田は意味不明な敬礼をした。

 墓穴を掘っている。

 俺は頭を抱えたくなった。彼女を「防波堤」として期待したのが間違いだったか。彼女は防波堤どころか、ダイナマイトを持ってはしゃぐ子供だ。


 山下は納得していない様子で、再び俺に向き直った。

 その瞳が、俺の体格、手、そして顔の輪郭を舐めるように観察する。


「……ねえ、ドラえもん」


「……はい」


「貴方、私の会社の『橋本』っていう部下に、似てない?」


 心臓が止まるかと思った。

 確信に近づいている。


 「似ている」というレベルではない。彼女の中で、点と点が繋がりかけているのだ。


 身長、体格、声、そして前田の反応。

 全ての証拠が、俺を指し示している。


「……よく言われます。あるある顔なんですよ、俺」


 俺は精一杯のポーカーフェイスで返した。

 背中には嫌な汗が流れている。


「そう……? でも、橋本くんはもっとこう、猫背で、覇気がなくて、ダサい眼鏡をかけてるのよね」


 山下は顎に手を当てて考え込んだ。


「貴方みたいに、堂々としてて、料理上手で、頼りがいのある人とは正反対……。うん、やっぱり違うか」


 彼女は自己完結し、再びスープを飲み始めた。

 助かった。

 俺の普段の「擬態」が、あまりにも完璧すぎたおかげだ。

 俺と前田は、大きく息を吐いた。


 だが、その様子を後ろで見ていた李雪が、ボソリと呟いた。


「……ふん。見る目がないわね」


「え?」


 山下が反応する。

 李雪は冷ややかな笑みを浮かべ、山下を見下ろした。


「本質を見抜けないから、貴女はいつまで経っても『二番手』なのよ」


「はぁ!? なによそれ! 喧嘩売ってんの!?」


 山下が立ち上がる。

 李雪の挑発。それは、俺の正体がバレるリスクを冒してでも、山下の「橋本への過小評価」が許せなかったからなのか。それとも、単に煽りたかっただけなのか。

 どちらにせよ、火に油だ。


「まあまあ! 落ち着いて!」


 前田が割って入る。


「せっかくのトムヤムクンが冷めるっすよ! ほら、飲んで飲んで!」


 前田は半ば強引に山下にビールを勧める。

 山下は「ムキーッ!」となりながらも、酒の誘惑には勝てず、グビグビと飲み干した。


「……もういい! ドラえもん、おかわり!」


「はいはい」


 俺はスープを注ぎ足した。

 山下はそれを飲み干し、酔いが回ったのか、そのままベンチで船を漕ぎ始めた。


「……ふぅ。嵐が去ったわね」


 李雪がやれやれといった様子で肩をすくめる。

 前田が俺に近寄り、小声で囁いた。


「……先輩、マジですみません。口が滑りました」


「いいよ。……だが、次はもっとマシな嘘を考えておいてくれ」


「了解っす! 『生き別れの双子の兄』設定とかどうっすか?」


「……却下だ」


 俺たちは苦笑いした。

 山下の寝顔は、子供のように無防備だ。

 今はまだ、誤魔化せている。

 だが、彼女の「勘」は侮れない。いつか、決定的な証拠を掴まれる日が来るかもしれない。


 俺は空になった鍋を見つめ、残りのビールを飲み干した。

 酸っぱくて辛いスープの余韻が、ヒリヒリと舌に残っている。

 それは、綱渡りのような今の状況を楽しむ、俺自身の興奮の味に似ていた。


「……送っていきますよ」


 俺は山下を背負い、李雪と前田と共に公園を出た。

 奇妙な行列。

 だが、その中心にいる俺の背中は、不思議と温かかった。

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