第21話 観測者のスケッチブック
週末の土曜日。
久しぶりに晴れ渡った空の下、俺は、近所の公園で「野生の王国」を目撃していた。
「……グルルルゥ……!」
低い唸り声を上げているのは、我が家の愛犬、豆柴のレオだ。
生後4ヶ月を迎え、体つきも少ししっかりしてきた彼は今、芝生の上で姿勢を低くし、ほふく前進の体勢をとっている。
その視線の先にあるのは――数羽の鳩だ。
平和の象徴である彼らは、地面をつついて餌を探している。
レオは、その背後から忍び寄る暗殺者のつもりらしい。
短い四肢を踏ん張り、お尻をプリプリと振ってタイミングを計っている。
黒い毛並みと麻呂眉が、真剣な表情をさらにコミカルに見せていた。
「……いけっ、レオ!」
俺が小声で応援した、その瞬間。
「ワンッ!!」
レオが弾丸のように飛び出した。
小さな黒い塊が、緑の芝生を疾走する。
その速度は、子犬にしてはなかなかのものだ。
だが、相手は空を飛ぶ生き物である。
バサバサバサッ!
鳩たちは直前まで知らんぷりを決め込み、レオが鼻先まで迫った瞬間に、優雅に飛び立った。
レオは勢い余って、鳩がいた場所に頭から突っ込み、クルンと一回転した。
「……きゅぅ?」
レオは立ち上がり、キョロキョロと周囲を見回した。
そして、空高く舞い上がった鳩たちを見上げ、「解せぬ」といった顔で首を傾げる。
「惜しかったな、レオ。作戦は完璧だったぞ」
俺が声をかけると、彼は「キャン!」と一言鳴いて、俺の足元に駆け寄ってきた。
そして、俺の靴紐をガジガジと噛み始める。
どうやら、狩りの失敗の八つ当たりらしい。
「痛い痛い。……ほら、帰るぞ。ご飯にするか?」
俺がリードを引くと、レオはパッと顔を輝かせ、今度は家に向かって猛ダッシュを始めた。
切り替えが早い。
その愛らしい後ろ姿を見ながら、俺は頬が緩むのを止められなかった。
平和だ。
平日の激務や、夜の秘密の会合が嘘のような、穏やかな休日。
だが、俺の「本当の一日」は、レオが眠りについた深夜から始まるのだ。
深夜24時15分。
俺はいつものコンビニで、いつもの「彼女」と合流していた。
今日の李雪は、グレーのスウェットに『一期一会』Tシャツというスタイルだ。
週末のリラックスした空気を纏い、表情も柔らかい。
「こんばんは、師匠。……今日はワンちゃん、元気だった?」
開口一番、彼女が聞いてきたのは俺のことではなくレオのことだった。
以前、写真を見せて以来、彼女はすっかりレオの隠れファンになっている。
「ええ。今日は公園で鳩と格闘してましたよ。全敗でしたけど」
「ふふっ。動画、撮ってないの?」
「撮りましたよ。あとで送ります」
「約束よ。……で、今日のオーダーは?」
彼女は期待に満ちた目で俺を見上げる。
今日は特にトラブルもなく、穏やかな一日だったらしい。
ならば、メニューも少し遊び心のあるものがいいだろう。
「今日は、『深夜の美術館』といきましょう」
「美術館?」
俺は彼女を連れて、スナック菓子のコーナーではなく、輸入食品や少し高めの菓子が置いてある棚へ向かった。
手に取ったのは、パッケージがお洒落な『輸入ポテトチップス』と、瓶入りの『オリーブ』、そして『カマンベールチーズ』。
「これを、そのまま袋から食べるんじゃなくて、少し気取って盛り付けるんです」
俺はさらに、紙皿とプラスチックのワイングラスをカゴに入れた。
ドリンクは、コンビニで買える最高の『赤ワイン』。
「公園のベンチを、即席のバルにするんです。……たまには、こういうのもいいでしょう?」
「……お洒落ね。ジャージでやるにはハードルが高そうだけど」
「中身が本物なら、格好なんて関係ありませんよ」
俺がキザなことを言うと、彼女は「はいはい」と笑って、カゴをレジへと運んだ。
レジカウンターには、いつもの店員――長谷川真琴が立っていた。
彼女は俺たちが置いたカゴの中身を見て、ほう、と感心したように眉を上げた。
「……今夜は随分と、シックな装いですね。マエストロ」
彼女は手際よく商品をスキャンしながら、静かな声で言った。
その視線は、俺と李雪の間をゆっくりと行き来する。
値踏みするような、それでいて親愛の情を含んだ瞳。
「ええ。たまには趣向を変えてみようかと」
「いいと思います。……お二人の雰囲気も、今日はとても色が綺麗ですから」
彼女は意味深なことを呟き、会計を済ませた。
そして、俺が袋を受け取ろうとした時、彼女はカウンターの下から一冊のスケッチブックを取り出した。
「……あの、もしお時間があれば」
普段は気だるげな彼女が、少しだけ照れくさそうに頬を掻いた。
「これ、見ていただけませんか?」
「スケッチブック?」
「はい。……以前、いい被写体だと言ったのを覚えていますか?」
以前、彼女が俺たちに声をかけてきた時のことだ。
彼女は俺たちを「観察対象」として見ていた。
俺と李雪は顔を見合わせ、頷いた。
「ええ。見せてください」
長谷川はパラパラとページをめくり、あるページを開いてカウンターの上に置いた。
そこには、鉛筆と水彩で描かれた、二人の男女の姿があった。
「……これ」
俺は息を呑んだ。
描かれているのは、深夜のコンビニのイートインコーナーだ。
テーブルを挟んで向かい合う、大柄な男と小柄な女。
男はスーツ姿で、少し背中を丸めて笑っている。
女はジャージ姿で、カップ麺を頬張りながら、幸せそうに目を細めている。
写実的な絵ではない。
線はラフで、色彩も淡い。
だが、そこには写真以上にリアルな「空気感」が閉じ込められていた。
二人の間に流れる、穏やかで、親密で、そして誰にも邪魔できない秘密の気配。
互いに正体を知りながらも、あえて踏み込みすぎない心地よい距離感。
それが、絵の中から匂い立つように伝わってくる。
「……すごいわ」
李雪が感嘆の声を漏らした。
彼女は身を乗り出して、絵の中の自分を見つめている。
「私、こんな顔をしてたのね……」
「ええ。とても素敵な表情ですよ、黒猫さん」
長谷川は微笑んだ。
「お二人が醸し出す色が、あまりにも綺麗で……つい、筆が走ってしまいました。勝手に描いてしまってすみません」
「謝ることないですよ。……これ、素晴らしいです」
俺は素直に称賛した。
自分たちが客観的にどう見えているのか、これほど雄弁に語るものはない。
俺たちは、こんなにも「お似合い」だったのか。
「……これ、額装してリビングに飾りましょうか」
俺が冗談めかして言うと、李雪はバッと顔を上げて俺を睨んだ。
だが、その顔は真っ赤だ。
「ば、馬鹿言わないでよ! こんな……ジャージ姿の絵を飾るなんて、恥ずかしすぎるわ!」
「そうですか? 良い絵だと思いますけどね。『共犯者たちの休息』ってタイトルで」
「タイトルまでつけないで! ……でも」
彼女はもう一度、絵に視線を落とした。
その瞳は優しく揺れている。
「……嫌いじゃないわ。この絵」
それは、彼女なりの最大限の賛辞だった。
長谷川は嬉しそうに目を細め、スケッチブックを閉じた。
「ありがとうございます。……この絵は、私の宝物にしますね」
「ええ。俺たちにとっても、いい記念になりました」
俺たちは長谷川に礼を言い、店を出た。
自動ドアが閉まる背後で、彼女がまた新しいページを開き、何かを描き始める気配がした。
公園のベンチ。
俺たちはプラスチックのグラスにワインを注ぎ、乾杯した。
トリュフ味のポテトチップスと、オリーブ。
シンプルだが、贅沢な夜食だ。
「……ねえ、師匠」
李雪がワインを一口飲み、夜空を見上げて言った。
「ん?」
「私、あんな顔してたのね」
「どんな顔ですか?」
「……安心しきってる顔。会社では絶対に見せない、緩みきった顔よ」
彼女は苦笑した。
「自分でも気づかなかったわ。貴方の前だと、あんなに無防備になってたなんて」
「……俺もですよ」
俺はポテトを齧りながら答えた。
絵の中の俺もまた、会社では見せないような、穏やかで優しい顔をしていた。
彼女の前でだけ見せる、素顔の自分。
「長谷川さんには、全部お見通しってわけね」
「そうですね。……彼女は、俺たちの関係の『証人』みたいなものです」
「証人……か」
李雪はその言葉を反芻し、それからふふっと笑った。
「悪くないわね。……誰かに見守られているっていうのも、案外心地いいものだわ」
彼女はグラスを傾け、俺の肩に少しだけ頭を預けてきた。
ワインの香りと、彼女のシャンプーの香り。
俺は動じずに、その重みを受け止める。
あの日、契約を更新し、互いの正体を認め合ってから、俺たちの距離は確実に変わった。
隠すものがなくなった分、より深く、より自然に寄り添えるようになった。
長谷川の絵は、そんな俺たちの変化を、鮮やかに切り取ってくれていたのだ。
「……ねえ。今度、レオくんに会わせてよ」
不意に、彼女が言った。
「え?」
「写真や動画だけじゃ物足りないわ。……本物に会いたい」
彼女は上目遣いで俺を見る。
「……駄目?」
そんな顔で頼まれて、断れるはずがない。
それに、レオもきっと、この優しい「迷い猫」のことが気に入るはずだ。
「……いいですよ。今度の日曜日、昼間にこの公園でどうですか?」
「本当!? 約束よ!」
彼女はパッと顔を輝かせ、子供のように喜んだ。
その笑顔は、さっきの絵の中にあった表情そのものだった。
深夜の公園。
ワインとポテト、そして二人の笑い声。
観測者に見守られながら、俺たちの夜は更けていく。
次の日曜日、昼間の光の下で会う約束という、新しい「希望」を胸に抱いて。




