第19話 深夜のラテン連合
週の半ば、水曜日の夜。
俺は、自宅のキッチンで「世界一大きなフライパン」……とまではいかないが、愛用のパエリア鍋と向かい合っていた。
足元では、豆柴のレオが「いい匂いがするぞ」と鼻をひくつかせながら、俺の足に前足をかけて背伸びをしている。
生後3ヶ月を過ぎ、日に日に食欲旺盛になっていく我が家の暴君だ。
「レオ、これはお前のじゃないぞ。大人のご飯だ」
俺はレオを軽くあしらいながら、調理に集中した。
今夜のメニューは、『バレンシア風パエリア』。
先日、スペイン人のカルメン・ベガに会って以来、俺の料理魂はずっと「情熱の国」に向いていたのだ。
まずは、鶏肉とウサギ肉をオリーブオイルでこんがりと焼く。
肉の脂が溶け出し、香ばしい匂いがキッチンに充満する。
そこに、インゲン豆と白インゲン豆、そして刻んだトマトを投入。
強火で炒め合わせる。
「……ここからが魔法だ」
俺は鍋に水を注ぎ、黄金色の粉末をパラリと振りかけた。
サフランだ。
世界で最も高価なスパイス。その高貴な香りと色が、スープを一瞬にして夕焼け色に染め上げる。
スープが煮立ったら、主役の米を投入する。
洗わずにそのまま入れるのがポイントだ。米の表面のデンプン質がスープにとろみを与え、旨味を閉じ込める。
米を平らにならしたら、あとは触らない。
パエリアにおいて「混ぜる」ことは重罪だ。じっと我慢し、米がスープを吸い尽くすのを待つ。
強火で10分。弱火で10分。
パチパチ……という乾いた音が聞こえてきたら、鍋底に『ソカラ』ができている合図だ。
火を止め、新聞紙を被せて蒸らす。
「……完成」
新聞紙を取ると、そこには黄金色に輝く米と、色鮮やかな具材の絨毯が広がっていた。
サフランと焦げた米の香りが、俺の鼻腔をくすぐる。
これを保温容器に移し替える。
そして、今夜のペアリングだ。
スペイン料理にはワインやサングリアが定石だが、今日の俺はあえて変化球を選ぶ。
冷蔵庫から取り出したのは、アイルランドの黒ビール『ギネス』。
「濃厚なパエリアの旨味と脂を、スタウトのクリーミーな泡と苦味で切る。……完璧だ」
俺は準備を整え、レオに「行ってきます」のキスをした。
レオは「また自分だけ美味いものを食いに行くのか」というジト目で見送ってくれた。
すまない。パパは今夜も、もう一人の「手のかかる猫」に餌付けをしなければならないんだ。
深夜24時15分。
いつものコンビニの前で、俺は彼女を待っていた。
夜風が生ぬるい。湿気を含んだ風が、嵐の予感を運んでくるようだ。
ペタペタというサンダルの音。
現れたのは、えんじ色の芋ジャージに、ボサボサのお団子ヘアの李雪だ。
今日のTシャツの文字は、達筆な筆文字で『唯我独尊』。
……誰にも媚びないという強い意志を感じる。
「こんばんは、師匠」
彼女は俺の顔を見るなり、小さくあくびをした。
目の下にうっすらとクマがある。
「お疲れ様です。……お疲れのようですね」
「ええ。今日は一日中、数字と格闘してたから。……脳みそがショート寸前よ」
彼女は頭を振り、俺の手元にある保温バッグをじっと見た。
「で? 今日のガソリンは?」
「今日はスペイン料理です。『パエリア』を作ってきました」
「パエリア? ……あの、黄色いご飯の?」
「はい。サフランの香りが、疲れた脳を覚醒させてくれますよ」
俺たちは並んで、いつもの公園へと向かった。
コンビニで買ったギネスビールと、スプーンを持って。
ベンチに座り、容器の蓋を開ける。
湯気と共に広がる、サフランと焦がし醤油のような香ばしい香り。
「……わぁ。綺麗」
李雪の目が輝く。
彼女はスプーンを差し込み、おこげごと米をすくい上げた。
「いただきます」
パクッ。
口に含んだ瞬間、彼女の動きが止まった。
「……!」
「どうですか?」
「……濃厚。お米の一粒一粒に、肉と野菜の出汁が染み込んでる。……噛めば噛むほど美味しい」
彼女は夢中でスプーンを動かし始めた。
そこに、ギネスビールを流し込む。
プシュッ、という音と共に、黒い液体が喉を潤す。
「……んっ! 苦いけど、合うわね。パエリアの脂っこさが消えて、次の一口が欲しくなる」
「でしょう? スタウトのロースト香が、おこげの香ばしさとリンクするんです」
俺も自分の分を頬張る。
美味い。
やはり、手間暇かけて作った料理を、誰かが美味しそうに食べてくれるのは格別だ。
静かな公園での食事。
穏やかな時間。
……だが、そんな平穏は、唐突に破られた。
「Hola!! Amigos!!」
「Boa noite!!」
夜の静寂を引き裂くような、二重奏の大声。
俺と李雪はビクッとして箸止めた。
顔を見合わせ、恐る恐る声の方を向く。
公園の入り口に、二つの影があった。
一つは、燃えるような赤毛に、露出度高めのランニングウェアを纏った長身の女性。
もう一つは、豊かなブルネットの髪に、派手なワンピースを着た女性。
フェルナンダ・ディアスと、カルメン・ベガだ。
ブラジルとスペイン。
情熱の二大巨頭が、なぜか揃ってそこにいた。
「……嘘でしょ」
李雪が絶望的な声で呟く。
俺も同感だ。
なぜ、この二人がセットで現れるのか。
「Oso!! 見つけたわよ!」
カルメンが俺を見つけ、手を振って駆け寄ってくる。
フェルナンダも負けじと、長い脚を生かして突進してくる。
「Hi Boss! まさかこんなところでDate中? 邪魔しちゃうわよ!」
二人はあっという間に俺たちのベンチを取り囲んだ。
強烈な香水の匂いと、圧倒的な陽のオーラ。
李雪が俺の背中に隠れるように身を縮めるが、彼女たちは全く気にしていない。
「ねえOso! 私たち、これから六本木のクラブに行くの! 一緒に行きましょ!」
カルメンが俺の右腕を掴む。
「No, no! カラオケよ! 日本の歌、歌いたいの! Boss、貴方の低い声で演歌が聴きたいわ!」
フェルナンダが俺の左腕を掴む。
右と左から、凄まじい力で引っ張られる。
俺の体は悲鳴を上げた。アメフトで鍛えた体幹がなければ、八つ裂きにされていたかもしれない。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺は明日も仕事が……」
「No problem! 朝まで踊れば、そのまま出社できるでしょ?」
「Si! 人生は一度きりよ! 楽しまなきゃ損!」
通じない。
彼女たちには、常識も、日本語の「建前」も通じない。
ラテンの暴風雨。
俺は助けを求めて李雪を見た。
李雪は、ベンチの隅でパエリアの容器を抱きしめたまま、般若のような形相で二人を睨みつけていた。
だが、その迫力も、この二人には「Cute face!」くらいにしか認識されていないようだ。
「Hey, Lee-san!(李さん!) 貴女も来なさいよ! ジャージでDancing、新しいわよ!」
フェルナンダが李雪に手を伸ばす。
「行きません! ……というか、離してあげて! 彼は迷惑がってるでしょ!」
李雪が精一杯の抗議をするが、二人はキョトンとしている。
「迷惑? Why? モテモテでHappyでしょ?」
「そうよ! 愛はシェアするものよ!」
駄目だ。文化が違う。OSが違う。
彼女たちの「善意」と「情熱」の前には、俺たちの慎ましい抵抗など無力だ。
俺はずるずるとベンチから引きずり出されそうになる。
「Oso! Vamonos!(行くわよ!)」
「Let's go!」
二人が同時に俺を引っ張った、その時だった。
ガシッ。
俺の背中の服の裾を、誰かが強い力で掴んだ。
振り返ると、李雪だった。
彼女は俯いたまま、俺のパーカーの裾を両手でギュッと握りしめている。
その手は震えていたが、決して離そうとしなかった。
「……駄目」
小さな、しかし凛とした声。
カルメンとフェルナンダの動きが止まる。
「……Lee-san?」
李雪はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、いつもの冷徹な「氷の女帝」のものではない。
かといって、俺だけに見せる「迷い猫」のものでもない。
そこにあったのは、獲物を守ろうとする母猫のような、必死で、熱い光だった。
「……私の、だから」
彼女は言った。
日本語で、はっきりと。
「この時間は……私だけのものなの。誰にも、渡さない」
その言葉は、静かな夜の公園に染み渡った。
カルメンとフェルナンダが、顔を見合わせる。
彼女たちは日本語が堪能だ。言葉の意味は分かったはずだ。
だが、それ以上に。
李雪の発する「気迫」と「独占欲」が、言語の壁を超えて彼女たちに伝わったようだった。
「……Wow」
フェルナンダが口笛を吹いた。
「……Entiendo(分かったわ)。……本気なのね」
カルメンが、俺の腕から手を離した。
フェルナンダも、ニヤリと笑って手を離す。
「OK, OK. 負けたわ。……日本の女性は奥ゆかしいと思ってたけど、怒らせると怖いのね」
「Lionessみたいだったわよ、今の」
二人は楽しそうに笑い、俺の背中をバンと叩いた。
「今回は譲ってあげる! ……でも、次は負けないからね、Oso!」
「See you tomorrow at office! Bye!」
嵐のような二人は、そう言い残して、また風のように夜の街へと消えていった。
後に残されたのは、乱れた服の俺と、肩で息をする李雪だけ。
静寂が戻る。
俺は服を整え、李雪に向き直った。
彼女はまだ、俺の服の裾を掴んだままだ。
顔は真っ赤で、耳まで染まっている。
「……あの、課長」
「……うるさい」
彼女は俺を見ずに、ボソリと言った。
「……聞かなかったことにして」
「何をです?」
「さっきの……『私の』ってやつよ!」
彼女は叫んで、俺の裾を離した。
そして、ベンチに残されたパエリアの容器を抱えて、逃げるように背中を向けた。
「……別に、深い意味なんてないんだから。……ただ、あの騒がしいのが苦手だっただけよ」
言い訳の声が震えている。
俺は、こみ上げてくる笑いを噛み殺した。
深い意味がないわけがない。
あんなに必死に、あんなに力強く。
彼女は俺を「自分のもの」だと宣言してくれたのだ。
「……そうですね。そういうことにしておきましょう」
俺は優しく言った。
これ以上突っ込めば、彼女は恥ずかしさで爆発してしまうかもしれない。
今は、この事実だけで十分だ。
俺は彼女の隣に座り直し、冷めかけたパエリアを一口食べた。
サフランの香りと、魚介の旨味。
そして何より、彼女が守ってくれたこの時間の味が、最高に美味しかった。
「……ねえ、師匠」
しばらくして、彼女がポツリと言った。
「ん?」
「……ギネス、もう一本ある?」
「ありますよ」
俺が缶を渡すと、彼女はそれを開け、俺の缶にカチンとぶつけた。
「……乾杯」
「乾杯」
月明かりの下、二人は黒ビールを飲んだ。
苦味が、甘い空気を引き締める。
ラテン連合という嵐が過ぎ去った後の公園は、以前よりもずっと静かで、そして二人だけの親密な空気に満ちていた。
彼女の『唯我独尊』Tシャツが、風に揺れている。
その言葉通り、今夜の彼女は、誰よりも強く、そして誰よりも俺だけの「女帝」だった。




