064 祈り
次の日。
目覚めると同時に、大地がトイレに駆け込んだ。
「え……大地、どうしたの」
海が心配そうにトイレを見つめる。するとすぐに、大地の嘔吐が聞こえた。
「大地……」
トイレの前に立ち、大地が出てくるのを待つ。しかしいくら待っても、大地の嘔吐は治まらなかった。
「ねえ大地、大丈夫なの」
「……大丈夫、大丈夫だから……すまん、放っておいてくれ」
「放ってなんかいられないよ! 中に入る!」
「来るな!」
「……大地……」
「すまん海、見られたくないんだ……大丈夫だから待っててくれ……」
「……分かった」
冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、カップに入れてレンジで温める。そして同じくコップにも入れた。
冷たいのと温かいの、どちらがいいのか分からない。だから両方用意した。
「……」
トイレのドアがゆっくり開く。入ってから既に10分が経っていた。
「大丈夫? うがいする?」
「ああ、すまん……」
青ざめた顔でコップを受け取り、水でうがいする。そして海に言って塩をひとつまみ口に入れ、もう一度うがいした。
「どう? すっきりした?」
「ああ、少し落ち着い……ぐっ!」
そう言ってもう一度トイレに駆け込む。そしてまた、何度も何度も嘔吐した。
それはまるで、獣の咆哮だった。
それから大地は何度もトイレに走り、最終的に便器を抱えたまま気を失った。
トイレから出そうとしても、脱力していて持ち上げられない。
やむを得ずトイレのドアを開放し、大地の肩に毛布をかけた。
意識を取り戻すと、また嘔吐する。
結局その日は一日中、トイレから動くことが出来なかった。
「大地……」
ベッドに横たわり、肩で息をする大地。
海は背中を何度もさすり、涙ぐんだ。
「……頭痛が酷いんだ」
大地が呟く。
「……頭痛?」
「ああ……それも、今まで経験したことのない痛みだ……後頭部も額も、いっそ割れた方が楽なぐらいに痛むんだ」
「……」
海が後頭部を撫でる。
「ああ、気持ちいい……ありがとう、海……」
「ごめんね。こんなことしか出来なくて……」
「十分だ……これ以上楽になる方法、俺は知らないよ」
「何よそれ。馬鹿」
「ははっ……でも……やっと吐き気が治まったよ」
「頭痛と関係、あると思う?」
「分からん。正直何が起こってるのか、全く分からない。とにかく今、死ぬほどきつい」
「罰金、後で入れておいてね」
「ははっ、あんまり笑わすなって……振動だけでも痛むんだ」
「……ごめん」
「後で1000円、財布から入れておいてくれ」
「どうして1000円?」
「今から言うからだよ。ビルの屋上から飛び降りて、頭から地面にぶつかりたい。ここが屋上なら、きっと迷わず飛んでる。それぐらい痛いんだ、今」
「……薬を捨てたこと、後悔してる?」
「勿論だ。後悔しかないよ。薬を飲んでたらこんな苦しみ、なかったんだからな」
「そう……だよね……」
「大丈夫だよ、海」
海の手を握り、力なく笑う。
「この痛みは、体から薬を抜けていってる証拠なんだ。これがどういうことか、分かるか?」
「……分からない」
「完治に向かってるってことだよ」
そう言って、手の平にキスをした。
「多分……これからもっと、きついことが起こるんだろうな。正直言って、勝てる気がしないよ」
「……」
「でも負けない。だから大丈夫だ」
「勝てないのに負けないの? 矛盾してない?」
「ははっ、そうかもな。でもそれでいい。勝てなくてもいい、俺は負けない」
そう言って微笑むと、そのまま眠りに落ちた。
眠ったと言うより、気を失ったんだ。そう海が思った。
「……」
ゆっくり起き上がり、大地に布団をかける。
考えてみれば今日、大地は何も口にしなかった。
何度か水を飲んでいたが、その後すぐにトイレに駆け込み、吐いていた。
本当に大丈夫なんだろうか。
大地が言う様に、これは回復の兆しなんだろうか。
不安と恐れに飲み込まれていく。
海はため息をつき、そのまま大地と一緒に眠りについた。
そう言えば、私も何も食べなかったな。そう思いながら。
どれだけ眠ったのだろう。
トイレに駆け込んでいく大地によって、浅い眠りが一気に覚めた。
「嘘……」
時計を見ると、まだ1時間も経ってなかった。
海は小さく息を吐き、ドアの傍らに座りクッションを抱きしめた。
中では大地の嘔吐が聞こえる。
荒い息と、絶望の悲鳴が聞こえる。
その声に耳を傾け、海は自嘲気味に笑った。
「人の苦しみの方が辛い、か……ほんと、その通りだな……」
涙を浮かべ、そう呟き。手を合わせた。
「青空さん、聞こえますか……あなたの大切な弟が今、苦しんでいます……でもこれは、絶望の苦しみじゃありません。希望をつかむ為の苦しみなんです。だから……もしこの声が聞こえてるなら、青空さん……大地の苦しみ、私に分けてください……お願いします……」
そう何度も呟き、笑った。
笑うたびに涙がこぼれた。
これは罰だ。
命を疎かにした、私と大地が受けるべき報いなんだ。
身が……引き裂かれそうだ。
彼の苦しみが今、全部自分に移ってくれたら。
どれだけ楽になれるだろう。
何も出来ず、愛する人が苦しむのを見てるだけの自分。
無力な私。
大地の方が楽だ、そんな気持ちは勿論ない。
でも。
今、心が痛い。
何も出来ない自分が憎い。
一緒に頑張ろう、そう誓ったのに。
結局私には、傍観することしか出来ないんだ。
神様。こんな罰、酷いじゃないですか。
私にも大地の苦しみ、分けてください。
そう思い、涙を流した。
肩を震わせた。




