035 別れ
「裕司……今なんて」
――僕はあなたに、生きて幸せになってほしい――
呆然と裕司を見上げる。
自分にとって唯一の希望。その裕司から、残酷に突き放された気がした。
「……私はあなたといたいの! 毎日あなたに触れて、あなたの声を聞いて。でも、あなたはもういなくて……
だったら私が行くしかないじゃない! ねえ裕司、なんでそんなこと言うの? どうして私に、今すぐ来いって言ってくれないの?」
――海さんは今、生きています。それは僕が、最後の瞬間まで望んでいたことなんです――
「どういうこと? どっかの映画みたいに、私が死にたいと思ってるこの日は、あなたが生きたいと思った一日なんだって言いたいの?」
――僕は運命を受け入れました。勿論、叶うものなら生きていたかった。でもそれが無理なことは分かってました。
僕の願いはただひとつ、海さんの幸せなんです。海さんが生きて、今いる世界で笑ってることなんです――
「酷いよ裕司……あなたがいないのに笑えだなんて……」
涙が止まらなかった。
「私に残された、たったひとつの願い……あなたの元に行くことすら、私には許されないの?」
――海さんは生きてる、生きてるんです。命ある限り、その世界で幸せを求めるべきなんです――
「無理だよそんな……だって裕司、いないじゃない……」
――こんなにもあなたに愛されて、僕は幸せです――
「だったら!」
――でも……僕は死者です。この世界に存在しない者です。その願い、叶えてはいけないんです――
「……」
――死者はどこまでいっても死者です。あなたを愛することも、抱きしめることも出来ません。あなたの中に生きている僕は、過去の残像に過ぎないんです――
「酷い、酷いよ裕司……死ぬなって言うだけじゃなく、思い出まで否定するなんて……」
――生者と死者が交わることはありません。これは世の理なんです――
穏やかに、どこまでも優しく裕司が語る。しかしその言葉は冷徹だった。
「こんなにあなたを想ってるのに……あなたを求めてるのに、報われないって言うの……じゃあどうやって生きていけばいいのよ! どうやって幸せになれって言うのよ!」
――答えはもう、出てるんじゃないですか?――
「え……」
思わず海が顔を上げる。
「待って……ちょっと待って裕司。それってまさか、大地のことを言ってるんじゃないよね」
困惑し、動揺し。
狼狽する海を見つめ、裕司が微笑む。
「裕司、私が大地を意識してるから怒ってるの? そんなんじゃないから安心して。確かに彼はいい人だけど、そんなつもりは」
――海さん――
海を抱きしめる。
――その動揺こそが、嘘偽りのないあなたの気持ちなんですよ――
「違う、違うの裕司、あなた勘違いしてる……私はそんなこと、一度だって」
――あなたの中にある葛藤。それは僕と過ごした日々の否定になるからじゃないんですか――
「そんなこと……」
――それは不義なんかじゃない。だって僕はもう、死んだんですから――
涙が溢れた。
そんな海を、裕司が愛おしそうに見つめる。
――大地さんを愛してしまった。そんな自分が許せなくて、早く死ななければいけないと思った。これ以上、僕を裏切る訳にはいかないと――
「……」
――そんなこと、僕は望んでません。だって海さんは生きてるんです。幸せになるべきなんです――
「裕司……」
――海さん。あなたの心は今、大地さんでいっぱいです。違いますか?――
そう言われて。
海の心が激しく揺れた。
「……でも……それは……」
――海さん。答えてくれませんか? あなたの心には今、誰がいますか――
涙が止まらなかった。
溢れてはこぼれ落ち。嗚咽した。
「ごめん、ごめん裕司……」
涙で裕司が歪む。
「大地のことが好き、好きになっちゃった……ごめん、ごめん……」
子供のように泣きじゃくり、震える声で海が答える。
「大地が好き……こんなこと、考えちゃいけないのに……そう思えば思うほど、大地のことを考えてしまう……」
――よかったですね、海さん――
「でも……哀しいの、寂しいの……そんなことを思うたびに、裕司が私の中から消えていくようで……」
――それでいいんです。だって僕は死んでしまったんですから。あなたの時間は流れてる。でも僕の時間はあの時から、止まったままなんです――
「今……裕司とこうして話してる今だって……私の中には大地がいるの……」
――もう一度言ってもいいですか? 海さん、よかったですね――
「……どうしてそんなこと言うの? 駄目だって怒ってよ! 僕のこと、忘れないでくださいって咎めてよ! 裏切り者って蔑んでよ!」
――僕は祝福しますよ。心から――
「裕司……」
――あなたは今、自分の想いに気付いた。自分がどうすべきか、誰を愛すべきかを知った。これからどうすればいいのか、分かったんじゃないですか――
「でもそれは……裕司と別れるってことなんだよ……」
――僕たちはもう、とっくに別れてるじゃないですか――
裕司の口から放たれた現実に、心がえぐられた。
――僕は時が止まった世界の住人、あなたと結ばれることはないんです。だから……
生きて生きて、生き抜いてください。そしてどうか、幸せになってください――
「……」
――それが僕の、たったひとつの願いです――
そう言って海から離れ、照れくさそうに笑った。
「待って裕司……行かないで……」
――僕を愛してくれてありがとう。死んでしまったのに、ずっと想ってくれてありがとう。それだけで、僕の人生は報われました――
満足そうに微笑み、うなずいて。
裕司が遠ざかっていく。
――勇気を……一歩を踏み出す勇気を持ってください。それが出来た時、きっとあなたは幸せになれます――
「裕司待って!」
――さよなら、海さん……どうか幸せに……――
「まもなく3番乗り場を、特急が通過します」
アナウンスに我に帰る。
裕司の姿はない。
目の前を、人々が慌ただしく動いていた。
「夢……だったの……?」
そう呟き、涙を拭い。小さく息を吐いた。
そして思った。
今の裕司との会話。
私の願いに応じて、裕司が現れてくれたんだろうか。
いや、馬鹿げてる。
いくら何でも、そんな都合よく死者と話せる訳がない。
恐らく今のは、自身が生み出した妄想だ。
自分の中にある様々な思い。それを脳内で問答していただけだ。
と言うことは。裕司の言葉は全部、自分が放ったものだ。
言ってみれば自己問答。
裕司の言葉も全て、自分の中にあったものなんだ。
意識無意識に関係なく。
そう思うと、心の中の靄が晴れていくような気がした。
――私は大地を愛している。
立ち上がり、傘を手に改札口に向かう。
空を見上げると、雨はもうやんでいた。
雲の切れ間から光が差し込んでいる。
帽子を脱ぎ、その光を見つめ。海は微笑んだ。
そろそろ帰ろう。大地の待つ我が家に。
でも、その前に。
もうひとつ済ませておこう。そう思った。
改札を出て思った。
さっきより体が軽い。
裕司を思うと瞼が濡れた。
一筋の涙が流れる。
それを指で拭い、海は笑った。
「ありがとう、裕司……さよなら」




