29 懐かしい人々
「入れ」
背中を押されて、シャーロットはバランスを崩し倒れ込んだ。
広い部屋だ。
没落貴族から借金のかたに取り上げたアニス邸には、主人が商談にも用いる立派な応接室がある。
長い毛足の絨毯は、西方の高地に暮らす民族が手間暇を惜しまずに刺繍したこの世に二つとないもの。さり気なく置かれた花瓶は新たな製法で作られた希少価値の高い品だし、置かれた家具は全て同じ職人によって作られた一点もので、精緻な飾り彫りは他とは比べ物にならない。新たに手に入れようとすれば、少なくとも三年は待つ羽目になるだろう。
輿入れした際、掃除の際には特に気を付けるようにと、義母に叩き込まれた目利きの知識だ。
今では特に使い道もなく、この部屋にくるまでシャーロット自身も忘れかけていた程度のものだが。
「全く。もう一度このとぼけた顔を見ることになるなんて……」
声を張り上げたのは、シャーロットに商人の嫁としての心得を叩き込んだ義母その人だった。
いっそ青ざめて見えるほど白い肌に、白髪の混じった銀髪。吊り上ったまなじり。
使用人達からはどんな失敗も見逃さないと恐れられ、商会の奉公人たちからは帳簿の魔術師との異名をとる。
まあその異名がどういう意味なのか、シャーロットはよく分からなかったのだが。
部屋の中には四人の人物がいた。
一人は義母。そしてその隣に立つ義父。元は夫であったヒューバートに、シャーロットを名乗るその愛人。
自分をこの家から追い出した人々だ。
再会したらさぞつらいだろうと思ったが、意外にそんなことはなかった。
シャーロットの脳裏に浮かんだのは、ただラクスのことだけだった。
ラクスが寂しがるから、早く帰りたい。
ただそれだけだった。
「君に聞かねばならんことがある」
義父は重苦しい声で言った。
「私達の孫……マークは、生まれた時からずっと何者かに命を狙われている」
「え……?」
その事実と、そして予想もしていなかった言葉にシャーロットは驚いた。
「全部あんたのせいよ! 汚らわしいあんたの産んだ化け物のせい! 信じられない、可愛いマークを化け物と間違えるなんて!!」
シャーロットを名乗る女が、キーキーと叫ぶ。
彼女は勢いのままヒューバートに肩を預けた。
シャーロットの元夫は、その語気に驚きながらもその肩をそっと抱く。
(ああ、この人は愛する人にはこんな風に優しいんだ)
いっときは夫婦であったというのに、シャーロットはそんなことすら今になって知る自分が少しおかしかった。
手首を縛られて跪き、怒れる人々に囲まれるというのは、思った以上に苦痛だし恐ろしい。
けれど頭の隅はひどく冷静で、彼らに何を言われようと徹底的には打ちのめされない自信が彼女にはあった。
「ラクスは化け物なんかじゃありません。私の可愛い息子です」
断固として言い切るシャーロットに、女はいきり立った。
彼女は芝居がかった動作でシャーロットを指差し、そしてあざ笑う。
「ふざけんじゃないわ! 認めなさいよ。あんたは夫にも愛されず、惨めに放り出されたの。愛人に地位や名前まで奪われて、ふふ……惨めでしょ、泣いて赦しを請いなさいよ!」
「シャロン……」
困惑したように、ヒューバートが呟いた。
優しげな美男子の彼は、妻の激しい言動に手を焼いているらしい。
彼はちらりとシャーロットを一瞥すると、慌てて視線を逸らした。
三年前、市場で再会した時と同じように。
「お義父様、お義母様、早くこの女とその化け物をどこへなりとも売り飛ばしてしまいましょ。そうすればマークが狙われることもなくなりますわ」
「ちょ、あなた何言って……」
「うるさいわね! 狙われてるのはあんた達なんだから、当然でしょ? どこへなりとも行って、もう二度とファーヴニルに近づかないで」
シャーロットは、一瞬びくりとその名前に反応した。
女は国の名として言ったに過ぎないが、それはシャーロットの愛息子の本当の名前でもある。
近づかないでと言われれば、じくりと胸が痛むのは当然だ。
たとえ相手に、そのつもりがなかったとしても。
「ラクスは……化け物なんかじゃありません。確かに、あなた方の息子さんが何者かに狙われているというのなら同情しますけど、それは私達には関係のない事ではありませんか?」
気丈に言い放ったシャーロットに、シャロンはつかつかと歩み寄った。
そして手を振り上げ、頬を腫る。
広い応接室に、ぴしゃりという破裂音が響き渡る。
シャーロットの頭は揺れた。
肩を怒らせたシャロンは、まるで全身で怒りを示すかのように肩をいからせていた。
「関係ないですって!? 全部あんた達のせいに決まってるじゃないっ、それを……」
怒り冷めやらぬとでも言いたげに、シャロンはぶるぶると震えた。
そしてもう一度手を振り上げる。
今度は衝撃に備えて、シャーロットは目を閉じた。
(せめて、指輪をはずしてくれればいいのに)
シャーロットは他人事のように、そんなことを考えた。
結局この女は、シャーロットを見下してついでに八つ当たりがしたいだけなのだ。
衝動を我慢できない。まるで幼い子供のように。




