27 粉々になったガラスビン
シャーロットは動揺していた。
薬草売りの店主が、シャーロットの同居人を夫、或いは恋人だと勘違いしたせいだ。
十四で愛のない結婚をして、十五で竜の子供を産んだ彼女は、そういった色事とは無縁だった。
たった一度の恋をしたこともない。
だからだろうか。動揺のあまり、フードを深く被ることを忘れてしまった。
市場では、小麦粉と砂糖、その他の調味料を買った。
シャーロットはご機嫌だった。
質のいいハチミツを一ビン、相場よりも安く買うことが出来たからだ。
このハチミツで、ハチミツケーキを焼こう。
たっぷりのハチミツに、塩気のあるバター。濃厚な卵。
きっと、ほっぺたが落ちるぐらいおいしいに違いない。
(ジェラルド様は、食べてくださるかしら?)
『ジェラルドさん』呼びを強要されていても、やっぱり心の中では“様”をつけてしまうシャーロットである。
向かい合わせの食卓が嬉しくて、ついつい作りすぎてしまう料理をいつも完食してくれる優しい王弟殿下。
初めは彼を恐いと感じたシャーロットだったが、不思議と今ではちっともそうは思わなかった。
むしろ頼りがいがあり、公平で優しい。
そのしかめつらしい彼の内側にあるものが、シャーロットにはふんわりと優しく尊いもののように思えるのだ。
(甘いものは、お嫌いではないよね? いつもデザートだって残さず食べてくださるし……。でも何を食べる時でも眉間にしわを寄せてらっしゃるから、本当は料理がお口に合わないのを言い出せずにいるだけかも?)
ジェラルドとの食事をお思い出しながら、シャーロットは上の空になっていた。
買い物用の籠が大きかったのもいけなかった。
その日は、特に張り切って大量の買い物をしてしまったのだ。
だから荷物が重くて、ふらふらしていたというのもあっただろう。
ドンッ
誰かの肩にぶつかって、シャーロットの体が揺らいだ。
バランスがとれなくて、思わずその場に膝をつく。
その拍子に、籠からハチミツのビンが飛び出してしまった。
ころころころころ、ビンは土の道を転がって行ってしまう。
「ま、まって!」
行き交う人の間をかき分け、シャーロットはハチミツのビンを追った。
ハチミツケーキを焼くためのハチミツ。
露店で味見をさせてもらって、随分悩んで決めたハチミツだ。
それはシャーロットにとって決して安くはない出費で、だけど懐は温かかったし、なによりラクスとジェラルドを喜ばせたくて買ったハチミツだった。
坂道でもないのに、ハチミツはどこまでも転がっていく。
必死でそれを追うシャーロットは、だから右の道から凄い勢いで走ってくる馬車に気付かなかった。
ヒヒーン! ギイギイ ひゃっ! バリン!!
馬車につながれた二頭の馬が嘶く。
車輪のきしむ音。シャーロットの悲鳴。
そしてハチミツのビンが、馬車に踏まれて無残に割れる音。
ローブが外れて、キャラメル色の髪が散らばる。
太陽の眩しさに、ただただ目がくらんだ。
シャーロットは尻もちをついて、目をぱちくりとさせた。
何が起こったのか、しばらくは理解できなかった。
目の前には大きな馬車の車輪があって、それに踏みつぶされていたのはもしかしたら自分だったかもしれない。そう気づいて、遅れて恐怖がやってきた。
手が震え、歯がガチガチと鳴った。
御者が、シャーロットに怒鳴りつける。
「危ないだろう! 大陸を股にかけるアニス商会の馬車だぞ!!」
シャーロットは、飛び上がるほど驚いた。
聞き覚えのある名前。そしてよくよく見れば、その馬車には覚えのある意匠が彫り込まれていた。
それはシャーロットが受け継ぐはずの、ワラキア公爵家の紋章だった。
馬車の扉が開いて、赤い髪の女が顔を出す。
「何考えてんのよ! 危ないじゃない」
周囲を、警戒するように屈強な男たちがシャーロットを取り囲んだ。
雇われ傭兵だろうか? 彼らはそれぞれに、街中には不似合いな鎧を着こんでいる。
槍を向けられ、シャーロットは息をのんだ。
「坊ちゃんを狙う者の一味か?」
問いかけは押し殺されていた。
浴びせられる眼差しはすべて、鋭くシャーロットを射抜くようだ。
「な、なんのことですか……?」
尻もちをついたまま、シャーロットは尋ねる。
何がどうなっているのか分からなかった。
確かに、走る馬車に飛び出してしまったのならシャーロットが悪い。
しかし、だからといって武装した男たちに囲まれて、脅される理由などないはずだ。
「シラを切るな!」
「俺たちの油断を誘おうって魂胆だろう。各自警戒を怠るな!」
隊長格らしい男が怒鳴る。
関わり合いになるまいと、街の人々はその場から足早に去っていく。
『また始まったぞ。シャーロット奥様の癇癪が』
『くわばらくわばら。金がなくて商人に輿入れしても、気位はお貴族様のまんまだよ』
風に乗って、こそこそ声の噂話が耳に届く。
シャーロットはわけがわからなくなった。
だってどうして三年も前に離縁されたはずの自分が、気位が高いと噂されているのかと。
「あなたもしかして……っ」
御者の手を借りて馬車から降り立った女は、シャーロットとは似ても似つかない長身の女だ。
燃えるような赤毛と、吊り上がった目尻。そして外を歩くのには豪華すぎるドレス。縫いつけられた宝石が、キラキラと光を乱反射させる。
「誰か、この女を叩きのめしなさい!」
女は怒りに顔をゆがめ、シャーロットを指さした。
そしてその唇には、歪んだ笑みがのっている。
「忌まわしい。私の息子が狙われるのもなにもかも、この女のせいなんだから!」
喚き散らす女を、傭兵たちは鬱陶し気に見た。
しかし雇い主の命令を蔑ろにはできないと考えたのか、男たちによって身柄が拘束されてしまう。
かたかたと、体の震えがひどくなった。
わけもわからず、シャーロットは男たちに引きずられていく。
「そんな……私はなにもっ」
シャーロットの悲痛な叫びに、誰も耳を貸そうとはしなかった。人々は顔を反らしながら足早に立ち去る。
あとに残されたのは、大きな籠と割れたハチミツのビンだけ。
すっかり中身のこぼれたビンの欠片が、まるで涙のようにキラキラと光っていた。




