21 不安のリスト
ジェラルドは目覚めると、既に夜は明けていた。
体の節々が痛む。
馬車の荷台に用意された即席の寝台は、彼には狭すぎるのだ。
それでも彼は、この生活に慣れなければいければと気を取り直して外に出た。
太陽はすっかり空にあがっている。
森を抜ける風は気持ちよかった。
湖には絶えず霧がかかっているのでその先は見通せないが、木立に差し込む光は優しく、鳥のさえずりがまるで音楽のようだ。
人を寄せ付けない北の森の中は、予想以上に穏やかで美しかった。
「あ、ジェラルドさん。おはようございます」
シャーロットの声に振り返ると、そこには特にぼろい服を着て髪と口に布を巻いた彼女が立っていた。
ジェラルドはぎょっとする。
声を掛けられなければ、一目では彼女だと判断できないところだった。
―――まあ、この森にいる人間はジェラルドと彼女だけなのだが。
「その、格好は?」
おそるおそる尋ねると、シャーロットは唯一外に出ている目を大きく見開いた。
春の空の、霞むような青色だ。
年齢より幼く見えるそれに、ジェラルドは戸惑った。
「ああ、掃除をしているんです。狭い家ですけど、せめても殿下をお招きできるようにしようと思って」
「ジェラルド、です」
「あ……ジェラルド、さん」
ジェラルドは一晩かけて、シャーロットが自分を『殿下』と呼ばないよう何度もこの訂正を繰り返さなければならなかった。
一夜明けて、やはり少しでも油断すると『殿下』が出てくるらしい。
今はまだいいが、もし万が一森に侵入者があった際、自分が王族だと知れたら面倒なことになるかも知れない。
そのためには、少し無理をしてでも早めに呼び名を改めさせなければ―――朝から腕組みをして、ジェラルドは今後やるべきことの項目にその一行を書き加えた。
「では、なにか私にお手伝いできることは?」
ジェラルドが尋ねると、シャーロットは再び目を丸くする。
零れ落ちてしまいそうだなと、そんなどうでもいい考えがジェラルドの脳裏を過った。
「そんな! とんでもないです。ジェラルドさんに掃除を手伝わせるだなんて……」
「お気遣いなく。騎士団では模擬の夜営なども行いますから、一通りのことはできますよ。それに、何もしないでいては体がなまってしまう」
「しかし……」
二人で話していると、ジェラルドがシャーロットを苛めていると勘違いしたのか、ラクスが慌てて飛んできた。
彼はジェラルドを威嚇するように飛び回り、シャーロットに手出しすれば容赦しないぞとでもいうように、その鋭い爪をむき出しにしている。
「ちょっと、ラクス!」
シャーロットは背伸びをして、慌ててそんな息子を捕まえようとした。
しかし四方八方に縦横無尽に飛ぶ竜は、シャーロットの手ではとても捕まえることが出来ない。
ここで手を出せば、余計に関係が拗れるだけだろう。
そう判断したジェラルドは、噛まれる覚悟で左腕を差し出した。
ラクスを城に連行する際、彼の部下が誤って彼を傷つけたことがあった。
故意ではなく傷も軽い物だったが、それだけでも竜を警戒させるには十分だ。
ジェラルドは、早めに関係を改善する必要があると感じた。
そのためには、多少の傷は厭わないとも。
しかし右腕は、有事のために残しておかなくてはならない。
ということで、左腕を差し出すというのは彼なりの譲歩と謝罪の気持ちだったのだ。
しかしそんな事情など知らないラクスは、腕を出したまま身動ぎ一つしないジェラルドに首を傾げていた。
その隙に、背後からシャーロットがラクスを捕獲する。
母親の腕に抱かれると、三歳の竜は途端に大人しくなった。
今は甘えるように、シャーロットのミルク色の頬に頬擦りしている。
「ジェラルドさん、危ないからああいう時は逃げてください!」
「逃げて下手に刺激すれば、ラクスが余計に興奮するだけでしょう。それに以前私どもが彼を傷つけてしまったことがありましたから、傷つけたままではフェアではないと感じました」
「フェアではないなんて……じゃあもしラクスが手を出したら、大人しく傷つけられるおつもりだったんですか?」
「場合によっては。目や右腕などは剣を振るうのに支障があるので困りますが、そうでなければいずれは治ります」
いくら王弟だろうが団長だろうが、騎士である限りは生傷を作る機会など無数にある。
ジェラルドはそれを恐れないし、厭わない。
それは、己の無事よりも任務の成就こそ、騎士の本分と考えるからだ。
しかし、こう言えば通常の令嬢は「勇敢ですのね」や「頼もしいですわ」と言うはずが、シャーロットは違った。
「何馬鹿な事言ってるんですか! どんな場合でも傷なんか作らないに越したことはないんです! 小さな傷から大きな病を得ることだってあるのですよ!?」
シャーロットの大声に、今度はジェラルドが目を丸くする番だった。
頬擦りをしていたラクスですら、驚いて彼女の腕から飛び出してしまっている。
「あ、ごめんねラクス。あなたを怒ったわけじゃないの」
彼女は息子の頭を撫でながら、言った。
「もう二度と、そんなこと言わないでください。自分も守れない方に、守っていただこうとは思いません」
シャーロットのあまりにも強い眼差しに、ジェラルドは思わず目を伏せた。
彼女は一見おっとりとした控え目な少女に見えるが、芯が強く納得のいかないことは決して引かない。
―――これから彼女と、平和的にやっていけるだろうか?
一抹の不安を抱きながら、ジェラルドは助けを求めるように空を見上げた。




