287.お守りと大切な人
「ね、眠れない……」
コンテスト前日。
早めに寝ましょう、なんてネクターさんの言葉に賛成したは良いものの、眠気がやってくる気配はなかった。
寝なくちゃ。そう思うほどに目は冴えるし、コンテストのことを考えてしまって心臓がうるさい。
最近は遅くまで練習してたから、寝る時間が遅くなっていたことも原因かも。
以前ならぐっすりお休みしていたはずの時間なのに、今ではすっかり練習していないことが不安になってしまうくらいだ。
「……どうしよう……」
寝ないと明日にひびく。間違いない。けれど。
悩んだ末に、私はベッドを抜け出してベランダへと向かう。
夜風に当たって気分をリフレッシュすれば、もしかしたら眠たくなるかもしれないし!
ベランダの扉を引くと、カラカラカラ、と控えめに音が鳴った。
デシの冷たい風が頬を撫でる。それだけで、モヤモヤとしていた気持ちは少しだけどこかへ消えた気がした。
空に浮かぶまんまるなお月さま。コロニーを照らす人工星は、いつだって満月だ。
すっかり見慣れてしまったと思っていたけれど、あたたかな輝きを放つ満月は気持ちを落ち着かせてくれる。
カラカラカラ……。
私の視線が音の方へと吸い込まれた。
隣の――ネクターさんの部屋からだ。
「……眠れないんですか?」
ベランダの薄いステンドグラス越しに声をかけると、私に気付いていなかったのか、ガラス向こうの影がびくりと体を揺らした。
「お嬢さま?」
「えへへ、ちょっと眠れなくて……。結構、物怖じしないタイプだと思ってたんですけど。意外と繊細だったみたいです。緊張しちゃって」
正直に打ち明ければ、ネクターさんの優しい笑い声が聞こえる。
「……今日ばかりは、お嬢さまのことを言う資格はありませんね。僕も、似たようなものです」
「ネクターさんは、コンテストに慣れてるから平気かと思ってました」
「……今までなら、そうだったでしょうね」
「久しぶりのコンテストは緊張しますか?」
「想像以上に緊張していて、僕も驚いております」
ガラス越しのネクターさんは、大きく伸びを一つして、ズボンのポケットを何やらごそごそと探る。
トントンとガラスがノックされて、壁の向こうからネクターさんの手が見えた。
「お嬢さまに、これを」
なんだろう。ネクターさんの手に何かが握られている。
壁の向こうにひょいと顔を出してネクターさんを覗き込むと、彼は
「出来れば、顔は見ないでいただけると」
となぜか赤面していた。
不思議に思いつつ、「それじゃあ」と手だけを差し出す。
ネクターさんの手が、私の手に触れる。そっと何かが手のひらの上に置かれた感触だけがあった。ひんやりと固いそれは、食べ物じゃなさそうだ。
顔の見えない、手だけのやり取り。なんだか不思議な感じ。
「お守りです」
ネクターさんの声がガラス越しに聞こえる。
ゆっくりと手を開けば、そこにはかわいらしい薄紫のお花の形をしたキーチェーンが。
手に取ると、チリン、と小さな鈴の音が鳴った。
「かわいい……!」
「アクセサリーにしても良いですし、カバンなんかにつけても良いんだそうです。デシの国では、感謝を伝える際によく贈られる花だと聞いて……」
ネクターさんは、花の名前をカンパニュラと呼んだ。
ハンドベルのような形が鈴のモチーフにもぴったりだ。やわらかな鈴の音もすごく癒される。
ネクターさんには「顔を見ないでくれ」とお願いされたけれど、我慢できなくなって私はもう一度身を乗り出す。
壁の向こうのネクターさんは、いまだ耳まで真っ赤に染まったままだ。
「ありがとうございます! ネクターさん! 一生大切にします!」
光の祭典でもらったお花は生花だったから、形には残らなかったけれど。
この贈り物ならずっとずっと大事に持っておける。
早速、後で使っていないネックレスに通そう。明日のコンテストでこれをつけていれば、なんだか無敵でいられる気がする。
「これがあれば、百人力ですね!」
「そんな大げさな……」
「大げさじゃないですよぉ! ネクターさんがずっと一緒についていてくださるみたいで心強いです!」
私の言葉に、ガラス向こうから咳払いが聞こえる。
ネクターさん、何にむせたの? 大丈夫?
「それにしても、いつの間に用意したんですか」
ネクターさんだって忙しかったはずだし、ずっと私に付き合っていて、買い物を満足にするような時間があったようには思えないのだけど。
「……光の祭典で花をお贈りしたでしょう?」
「えっ⁉ まさかあの時から準備してたんですか⁉」
「偶然といえば、偶然なのですが……花だけを買うつもりが、隣のお店にあったそれも目に付きまして。お嬢さまのようだな、と思っていたら手にしていたんです」
ネクターさんはチラリとこちらに視線だけを送って、すぐさま目を逸らす。片手でメガネを持ち上げると、空いた片手で顔を覆った。ため息が一つ聞こえる。
「……気持ち悪いと、自分でも自覚しているんですが」
十も年の離れた、家族でも、恋人でもない異性からの贈り物なんて。
ネクターさんはそれでも感謝を伝えたかったのだと呟いた。いつも通りの謝罪も付け加えて。
「ネクターさんは、もう、家族みたいなものですよ」
私にとっては、お兄ちゃんのようであり、お父さんのようでもあって、お母さんみたいな時もあれば、まるでずっと一緒にいた親友のような存在だ。
これから先も、ずっと一緒にいたいと思える、大切な人。
「ありがとうございます。ネクターさん。私、頑張ります。明日、絶対に優勝しましょう」
優勝して、ネクターさんを料理長に戻してもらえるようにお父さまたちを説得すること。
それがネクターさんへ感謝を伝える方法だろう。私が出来る最大限の。
「さあ、お嬢さま。お体が冷えてはいけませんから。そろそろ休みましょう」
ネクターさんの優しい声が、素敵な贈り物が、いつの間にか私の緊張をほぐしてくれていたみたい。
すっかり心が落ち着いて、今ならぐっすり眠れそうだ。
「はい! ネクターさんもおやすみなさい!」
ガラス越し、彼に声をかけると、向こうからも「おやすみなさい」と穏やかな声が聞こえた。




