161.失って、手に入れたもの
「……味覚を、失ってる?」
理解が追い付かなくて、私はもう一度ネクターさんの言葉を繰り返す。
ネクターさんが? 今まで一緒に何度もご飯を食べてきて、そんな素振りは見せなかったのに?
「前料理長が退職され、僕が料理長の座を譲り受けてから半年ほどのことでした。僕は、前料理長をとても尊敬しておりましたし……何より、僕を拾ってくださった旦那さまと奥さまに恩返しができると息巻いていたんです」
ネクターさんは、私の理解が追い付いていないことには気づかず話を続ける。
私もひとまずはネクターさんの話を聞こう、と一度思考を止めた。きちんと話を聞けば、もっとちゃんと理解できるかもしれない。
「当時の僕は絶対味覚を持っていましたし、周りからも天才ともてはやされていましたから、常に自分が正しいと思っていました」
自分で言うのもなんですが、と苦々しく笑って、ネクターさんは続ける。
「それが原因で、周りの料理人とは対立してばかりで。ですが、僕はそれでもなお、本当においしいものを提供すれば、料理人として相手に認めてもらえると信じていたのです」
「知ってるさ。だからこそお前は、努力を怠りはしなかったし、俺は、そんなお前を尊敬している」
「……ありがとう、エン」
エンさんの擁護をネクターさんは素直に受け取った。が、「でも」と首を横に振る。
「それだけじゃダメだったんです。前料理長は、僕を認めてくださいましたが……他の料理人たちはそうではありませんでした。料理長として仕事をしていくうち、次第に皆、僕から離れていってしまうのです」
初めて上の立場となり、多くの人をまとめなければならなくなったネクターさんは、きっと思い悩んだに違いない。
ただでさえ料理長として、日々の献立を考え、指示を出し、味を見て、アドバイスや指導をしなければならなかったはずだ。
けれど、テオブロマ家ではそれだけじゃない。
テオブロマはシュテープでも指折りの大企業だ。それなりに立場ってものがあって、お母さまやお父さまは他の企業の人や取引相手を招いた懇親会もよくやっていた。
その時に出す料理については、料理長がすべての責を負う。
テオブロマ家に恥じをかかせぬよう、考えなければならないことも多かったのではないだろうか。
「何もかも、うまくいきませんでした。いつの間にか僕は、すべて自分ひとりでやれば良いのだ、と考え――気づけば、料理の味が分からなくなってしまった」
ネクターさんはそこで口をつぐみ、作り笑いを浮かべた。
覇気のない笑みから、その言葉の意味が簡単に想像できてしまってゾッとする。
ストレス、プレッシャー、過労……なにより、孤独がネクターさんを蝕んだのだろう。
料理人たちの間でトラブルがあった、なんて聞いたことがないけれど、大きな衝突だけがトラブルじゃない。大人は、我慢もすれば、黙秘もするから大人なのだ。
「たまたま生まれ持った『絶対味覚』だけが全てだったんだと、僕はその時、初めて気づいたんです。努力もしたつもりでしたし、技術だって持っていたつもりでしたが……絶対味覚なしにそれを発揮することは出来ませんでした」
「それで、ネクターさんは……」
「そうですね。持っていたものを全て奪われたような感覚で。ぽっかりと穴が開く、というんでしょうか。当然、それまで持っていた料理人としてのプライドは全て折れましたし、自信なんて持てるはずもなくて……」
「もういい。それ以上言うな」
頼む。
エンさんの口から漏れた懇願に、ネクターさんは再び口を閉ざす。
私も、いつぞやのネクターさんが脳裏をよぎって息を飲んだ。
僕には何もない――
あの時、ネクターさんは、どんな思いでその言葉を口にしたのだろう。
「怪しいと思ってたんだ。初めから。何もかも、以前のネクターとは違うって……。でも、それはテオブロマで良い料理人に出会ったからだと、思いたかった」
エンさんは悔しそうに唇を噛みしめた。両手は固く握られ、相当な力が入っているのか、小刻みに震えている。
「どうしてっ……俺に、何も言ってくれないんだ! お前はいつもそうやって独りで‼」
握られたままの拳が振り上げられる。
「エンさんっ‼」
ネクターさんに振り下ろされるんじゃないかと咄嗟にその手を引けば、エンさんは目を見開いて……だらりと、力なく拳を下ろした。
「……王城勤めの時も、お前がいじめを受けてたことは知ってた。でも、俺は見て見ぬふりをしたんだ。お前がすごい料理人なのは、俺だけが知ってればいいって……そんな、浅はかな優越感に俺が浸るためだけに……お前のことを、助けてやれなかった」
エンさんは後ろで一つにまとめていた赤髪をほどいて、ぐしゃぐしゃと自らの頭をかきむしる。
「お前の親友だなんて……ライバルだなんて……笑えるよなぁ」
乾いた笑い声が、むなしい響きをはらんで静かな夜に降る。
ネクターさんはしばらく黙っていたけれど、やがて、エンさんの方へそっと近づいた。
「それは違う。俺は、エンがいたからなんとかやっていけたんだ。そうでなくちゃ、王城勤めの間で味覚を失っていたかもしれない」
「だが! 俺があの時、お前ときちんと向き合っていれば! 今も……!」
「……テオブロマの旦那さまと奥さまは、孤立している僕を受け止めてくださった」
ネクターさんは小さく首を横に振って、優しく微笑んだ。
エンさんは何の話だ、と顔をあげ、ネクターさんはゆっくりと私の方へ視線を向ける。
「もしも、味覚を失っていなければ……そんな優しい旦那さまと奥さまから生まれた、素晴らしいお嬢さまの付き人にはなれてなかったよ」
だから、良いんだ。
ネクターさんは穏やかな声色でうなずくと、再びエンさんの方へ向き直る。
「エンには感謝してる。それこそ、出会った当時から。エンはいろんなことを俺に教えてくれたし、いつだって俺を引っ張ってくれた」
エンさんがゴクンと唾を飲み込む。
互いに逸れない視線。そこに出来た二人の空間には、私でさえ立ち入ることの出来ない想いがつまっていた。
「あの時はその……俺も尖っていたから……言えなかったことがたくさんあるんだ。でも今は、味覚を失って、自分が凡人になって、自信もなくなって……謝罪も、感謝も、出来るようになった」
ごめん。ありがとう。
ネクターさんがゆっくりと頭を下げる。
エンさんの頬に一筋の涙が伝って――それはまるで、流れ星のように綺麗だった。




