142.それは推測と願望
「ネクターさんが、病気……?」
「あくまでも俺の推測だ。勘違いかもしれない。ただ……」
エンさんはぱっと目を伏せて、少しの間黙り込んでしまった。
ネクターさんが病気だなんて、そんなことあるわけない。
そりゃちょっと気が弱かったり、ネガティブだったりはするけれど、体に支障があるようには……。
いや、でも。
「……お薬を飲まなきゃいけない時って、お酒は飲んじゃダメって言いますよね?」
一つ、思い当たる節があるとするならば。
私の質問に、エンさんはきょとんと首をかしげる。
「あぁ、そうだが……。ネクターと何か関係が?」
「エンさんと会った日はお酒を飲んでましたけど、ネクターさんって普段はあんまり飲まないんです。飲めないわけではないみたいですけど、控えてるっていうか。昔からですか?」
「まさか」
その言葉だけで、以前は飲んでいたのだと分かる。
決してお酒が嫌いなわけではなさそうだとは思っていたけれど。
「少なくとも、料理に酒を使うことだってあるし、味見だってする。料理人同士で飲みに行くこともあったし、参加はしていたはずだが」
エンさんは記憶を辿るようにゆっくりと言葉を吐き出して、ついでに大きく息を吐いた。
「朝と昼はともかく、晩に薬を飲むならお嬢さんの言うことも一理ある。寝る前に飲むなら、お嬢さんにもばれることはないだろうし」
「……そういえば‼ ネクターさん、ホテルの部屋は別々が良いっていつも言ってます!」
「そりゃ、普通に考えてそうだろうが……。普通以外の理由があるのかもな」
最近は慣れてきたのか壁で仕切られていれば問題ない、と考えるようになったみたいだけど、とにかく最初のころは部屋を別々にしてくれと懇願されたくらいだ。
お薬を飲んでいるところを見られたくないのかも。それなら納得もいく。
「ネクターは、お嬢さんのところの料理長だったんだよな?」
こくりとうなずけば、エンさんは腕組みして目を閉じる。眉間にうっすらとしわを寄せて考え込む様子はどこか深刻そうでもあった。
「……どうして料理長であるネクターが、お嬢さんの付き人として屋敷を一緒に追い出されたのか」
エンさんは静かに口を開いて、続いてゆっくりと目を開く。深紅の瞳が切なく揺れた。
「例えば、だ」
彼は例え話であることをやけに強調する。一拍おかれた呼吸が余計に説得力を持たせるとも知らずに。
「ネクターが、もともと持病を理由に退職願を出していたんだとしたらどうだ」
「どうって……」
「このお嬢さんとの旅は、料理長の職を辞めさせて従者へと職種を変更するための異動かもしれないし、退職前最後に慰安旅行のつもりかもしれないって考えられないか」
「そんな、こと……」
「少なくとも、老光旺飯店ではたまにあるんだ。希望すれば、清掃員が受付嬢になることもある。それこそ料理人が顧客対応の事務職になることだって」
エンさんが椅子にもたれかかると、ギシリ、と椅子が音を立てる。
彼は納得がいったのか、一人小さくうなずいた。
「料理長を付き人にする理由なんて、俺にはそれくらいしか思いつかない」
あくまでも俺の推測だ、と付け足して、彼は再びお茶に口をつける。どことなく漂う緊迫感を振り払うように前髪をかき上げる仕草は気だるげだ。
「だけど……どうしてそれが病気ってことになるんですか? 少なくとも、今まで一緒に旅をしてきて、ネクターさんが風邪を引いたことはなかったですし!」
「風邪を引くだけが病気じゃないだろ」
「そう、ですけど」
「昨日、ドラゴンジーチャの感想をお嬢さんたちに聞いただろう」
「それがどうかしたんですか?」
「あいつの言ったこと、覚えてるか?」
昨晩、ネクターさんはなんと言っていたっけ。確か、エンさんのことを素直に褒めていたはず。
「あ! そうだ、エンさんが昔より腕を上げたって!」
エンさんは神妙にうなずいた。
「それが変なんだよ」
「変、ですか?」
「お嬢さんには黙っていたが、俺は昨日、失敗作のドラゴンジーチャを提供した」
「えっ⁉」
あんなにおいしかったのに失敗作⁉
驚きのあまり想像以上の大きな声が出て、周囲の人たちから視線が集まる。ごめんなさい、と慌てて軽く会釈して、私は意識的に声のトーンを落とした。
「……あれって失敗作だったんですか?」
「あぁっと、悪い。誤解があるな。正しくは、ネクターが食べる分だけ、わざと失敗作にしたんだ」
「そんなこと出来るんですか⁉」
「シャオに取り分けてもらっただろう? 俺は事前にいくつかのドラゴンジーチャをネクターに取り分けるようシャオへ指示したんだ」
言われて思い返せば、ドラゴンジーチャだけはシャオさんが取り分けてくださったことに気付く。
それ以外のお料理は、全てネクターさんが取り分けてくれたのに。
「ネクターに食べさせたのは超薄味のドラゴンジーチャで……昔、ネクターと出会った時、初めてあいつに食わせた料理だ。散々嫌味と皮肉を言われた自信作だな」
「なんで、そんなこと……」
「純粋に、あいつが本当に料理人を辞めたのか気になってな。ネクターは生まれながらの料理人だ。だから、昔みたいに文句を言ってくれると思ってた。それを逆手にとるつもりだったんだ。やっぱりお前は料理人なんだって……あいつに、それを自覚してもらおうと思ってたんだがな」
けれど、フタを開けてみたら結果はどうだ。
ネクターさんは、過去に自分が文句をつけた料理を「おいしい」と褒め、それどころか「前より腕をあげた」とまで言った。
「だから、本当にあいつはどうかしちまったんじゃないか、と思ってな」
エンさんが、ネクターさんに返した言葉、表情。そのすべての意味が分かって、私は閉口する。
普段は褒めないネクターさんが素直に褒めた。その事実にエンさんは驚いたのだと思っていたのに。
「病気なんじゃないかって言うのは俺の願望が含まれた推測だ。ネクターは何か理由があって料理人を辞めるしかなかったんだって……俺が思いたくてさ」
悔しそうに顔をゆがめたエンさんの後ろから、優しい香りがする。
「何をしんみりしてるんだい。ほら、これでも食べて元気だしな!」
顔を上げれば、おばさまが湯気の上がったお粥を持って立っていた。




