131.それは難しい夢でも
お部屋はほんのりとお茶の良い香りがした。
これも紅楼のおもてなしってやつなのだろうか。
ベ・ゲタルの後だからかもしれないが、飾られた陶器のやわらかな色合いや柱の深い朱と少しの金色、木製の床に敷かれた麻のくすんだ緑が、目に優しくてホッとする。
机や椅子はどれも脚が低いし、花瓶は一輪挿しだし、シュテープともまた趣が違うけれど、それがまた上品だ。
「素敵なお部屋ですね!」
「気に入ってもらえてよかったよ。机の上にある茶菓子はサービスだ。景色も良いし、ゆっくり楽しんでくれ」
エンさんはにこりと笑って「それじゃ、また近いうちに顔を出すよ」とお部屋を去っていった。
「ありがとうございました!」
「エン、また」
私たちはエンさんを見送って、お部屋に戻る。
シュテープでも、ベ・ゲタルでも、床に直接座ることなんてほとんどなかったけれど、紅楼ではそれが普通みたいだ。
荷物を下ろして、薄いクッションのようなものに腰をかける。
リビングと寝室の二部屋の間は、スライド式の扉で仕切ることが出来るみたい。
寝室も、ベッドではなくお布団を敷くタイプのようで、ネクターさんが「お嬢さまは寝室を使ってください」と早速、寝る部屋を分けようと準備する。
私はそれを邪魔しないように、寝室の奥にあった窓を開けた。
木枠に薄紙が貼られただけのそれを開けた先は、一枚ガラスがあって、二重窓になっていた。
なるほど、これなら雨も大丈夫そう。
窓ガラスも開けて下を覗き込む。そこには綺麗に手入れされたお庭が広がっていた。
「ネクターさん、見てください! 中庭になってますよ!」
身を乗り出して声を上げると、「危ないですよ」と後ろから声がかかる。
「後で見に行きませんか?」
「そうですね、温泉もあるようですし。館内も広いので、ゆっくり見て回りましょう」
「はい! でも、まずはちょっとのんびりですね!」
ゴロン、と床に寝転がる。
寝室側は畳になっていて、そのまま寝転がることができるなんて最高……。
「お茶を入れましょうか」
「良いんですか?」
「えぇ。お茶菓子もあるそうですし、いただきますか?」
「お願いします!」
ネクターさん、なんて優しいんだ……。
私なんて、食べて、ごろごろして……はっ……これじゃあまるでアオみたい。
アオは、今頃天国で紅楼の景色を見ているのだろうか。
コポコポと優しい音がして、お茶の香りがする。
紅楼のお茶は、お花のような甘さと爽やかな草の香りが混ざっていて好きだ。
「ネクターさんとの旅も、もう三か国目なんですね」
「えぇ。あっという間ですね」
「後、二か国でおしまいですよ⁉ 寂しいです!」
「気が早いですよ」
「ねぇ、ネクターさん?」
「はい、なんでしょう」
「エンさんがお昼に言ってたこと……本当に、料理人に戻る資格がないって思ってますか?」
「……お嬢さままで。やはり、エンに何か吹き込まれましたか?」
「そ、そういう訳じゃ‼ でもっ! 旅が終わって、ネクターさんはテオブロマのお屋敷に戻らないのかなって……」
「……戻る資格など、僕にはありませんよ」
「だけど! 私はまたネクターさんのお料理が食べたいです! テオブロマで、料理長として働いてほしいです!」
「お気持ちは嬉しいですが……気持ちだけでは、どうにもならないこともありますから」
「ネクターさんは寂しくないんですか⁉」
「旦那さま方のご指示ですから、仕方ありません」
なんだか悔しくて、ネクターさんの顔を見れない。私はごろん、と体勢を窓の方へと向けて「バカネクターさん」と小声で呟いた。
ネクターさんの言うことも本当は理解できる。私だってもう子供じゃない。ネクターさんとは、そもそも『お仕事』で旅をしているんだし。
それに――私には、テオブロマのお屋敷の料理長を任命する権利がない。
ネクターさんもきっと、それが分かっているから「仕方がない」と言うのだろう。
任命権を持つお母さまとお父さまがネクターさんを私の『付き人』にしたのだ。その時点で、彼はもうお屋敷に戻れないと悟っているのだろう。
「お嬢さま、お茶が入りましたよ」
「……ありがとうございます」
エンさんの話を聞いて、もっとネクターさんのことが知りたいと思っているのに。
プレー島群の国を見て回ろう、と始まった旅だから、それが終わったら、きっとおしまいになるはずだ。この旅も、私たちの関係も。
終わる前に――ネクターさんが抱えている荷物を、一緒に背負ってあげたいと思うのは、変なことだろうか。
ソロソロとネクターさんの顔を見ないように、私は机に向かう。
机の前に置かれた座椅子に腰かけると、見計らったようにお茶の入った陶器椀が差し出された。
「お嬢さまがそのようなお顔をされては、僕も悲しくなってしまいます。まだ、紅楼にもついたばかりですから。あまり先のことを考えても仕方がありませんよ」
ネクターさんの諭すような物言いが、ツンと胸の痛みに変わる。
「まずは、紅楼を楽しみましょう。晩ご飯は、お嬢さまが食べたいとおっしゃっていたドラゴンの唐揚げをエンに頼んでみましょうか」
「……そう、ですね!」
ネクターさんになぐさめられるなんて、これじゃいつもと正反対だ。
でも、彼の言う通り。お別れだって、まだまだ先のことなんだし! せっかく来たんだから、紅楼を楽しまなくちゃ。
私は無理やりに笑顔を作って、顔を上げた。
「やはり、お嬢さまには笑顔がお似合いですよ」
たおやかな、花が開くような美しい笑みに瞬殺されて、私は再び顔を伏せる。
くそぅ……イケメンネクターさんめ。
こんな時ばっかり、優しくてずるいんだから。
「……お嬢さま、お顔が怖いです」
「なんでもありません! まったく! どうしてネクターさんって、ネガティブなくせにイケメンなんですか!」
「すごい文句ですね」
「もう! お茶までおいしいなんてずるいです!」
「それは良かったです」
ネクターさんと一緒に飲む紅楼のお茶は、甘くて優しい。
やっぱりネクターさんは、料理人に戻るべきなのだ。何があっても。彼が、何を抱えていても。




