121.彼は何かを隠してる
結局、グラスの中のお酒が空っぽになるころには、すっかりネクターさんも出来上がっていて
「だいたい、エンはいつも勝手なんです。俺がどんなに嫌だと言っても料理勝負を持ち掛けてきて……」
なんて愚痴が始まった。
「飲み過ぎだ」
先ほどとはうってかわって、今度はエンさんが面倒くさそうにネクターさんをあしらう。
「絡み酒は良くないぞ、ネクター。そろそろ部屋に戻ったらどうだ?」
「戻りませんよ! お嬢さまを置いて、一人で戻れるわけがありません」
「お嬢さまなら俺が見ててやるから」
「それがダメだと言ってるんです。エンは昔から手癖も悪い」
「……人聞きが悪いな。ちょっとつまんだだけだろ」
「フランさんに指一本でも触れたら容赦しませんよ、エン」
それはまるで鬼の形相。そんなネクターさんを見るのは初めてで、しかも、珍しく名前で呼ばれたものだから、私もどうして良いのか分からない。
っていうか、怒ってもイケメンってすごくない?
「わかった! わかったって、悪かったよ。まったく、お嬢さんも大変だな」
「いえ、ネクターさんは普段、お酒も飲まれないですし! 今日は珍しいです。強気なネクターさんっていつもと違って面白いです」
個人的には、ネガティブなネクターさんも好きだけど、強気モードなネクターさんも嫌いじゃない。
イケメンに大人の色気が混じって、心臓にはよろしくないけど!
それでも、ネクターさんをもっと知ることが出来たみたいで嬉しいし。
「そんなに違うか? ネクターはいつも強気だろ?」
「え?」
「少なくとも、俺の知ってるネクターは絶対に何があっても自分が正しいって思ってる頑固者だけど……」
エンさんは昔のネクターさんとのやり取りを思い出したようで、苦々しく呟く。
「ま、それも、ネクターの体質を考えりゃ、仕方がないことなんだろうけど」
「体質?」
「エン。喋り過ぎだよ」
ネクターさんの冷たい一声に、エンさんがため息を一つ。
「今更何を隠すことがあるんだよ。しかも、このお嬢さん相手に」
眉根をよせるエンさんに、ネクターさんは頑として譲らなかった。
「もう俺は料理人じゃないし……」
ネクターさんは少し言いよどんで、空になったグラスをあおる。つぅ、となまめかしく紅色の液体が一筋ガラスの表面を伝って、ネクターさんの唇を濡らした。
「大切な人に迷惑をかけたくない」
ネクターさんの熱い視線が――とろけるようなアンバーの瞳が、私を射抜く。
ドクン、と大きく心臓がはねた。顔が熱い。これは……そう! 私もお酒を飲んでいるからに違いない! そう! 絶対そう!
ブンブンと頭を振って、私は脇に避けていた水の入ったグラスを一気に飲み干す。ひやりとした水が体温を下げてくれるみたいで心地よかった。
「……ずいぶん変わったな」
エンさんはガシガシと頭をかいて、ガタリと椅子から立ち上がった。そのままネクターさんの脇をひょいと掴んで
「部屋まで送って来る。お嬢さんは少し待っててくれ。すぐ戻る」
と私にウィンクを一つ。
それなら私も、と立ち上がろうとしたけれど、エンさんが「良いから」とジェスチャーで座るように促した。
ネクターさんはすっかり酔いが回っているのか、エンさんにがっしりと捕まえられても文句一つ言わない。
先ほどまでの威勢はどこへやら。借りてきた猫のようだ。
「エン……俺は……別に一人でも……」
「無理だな。ほら、肩貸して」
ネクターさんも相当背が高いはずだけど、エンさんはネクターさんよりさらに頭一つ分くらい背が高い。
ネクターさんの腕を肩に回して担ぐと、「それじゃ、ちょっとだけ待っててな」と私の頭をくしゃりと撫でて、船内のレストランを後にした。
*
エンさんがレストランへと戻ってきたのは、十分後のことだった。
とはいっても、私もぼんやりと先ほどのネクターさんが言ったことを思い返していたから
「待たせたな」
と再び頭を撫でられて、ようやく彼が戻ってきたことに気付いたのだけど。
「どうして」
私に待っているように指示をしたのか。
そう尋ねようとしたところで、エンさんがウェイターを呼びつける。
私とエンさんのグラスに、それぞれ黄緑色のお酒が少しだけ注がれた。
「青酒……シュテープの言葉で言うなら、青酒かな。食後に飲むと消化が促進される。アルコールが強いから少しだけな」
「……ありがとうございます」
エンさんがグラスを持ち上げたので、私もつられて乾杯する。
ネクターさん以外の男の人と二人でお酒を飲むなんて初めてで、なんだか緊張する。
エンさんはイケメンだし、大人っぽいから余計に。
お互いにちびりと口をつける。
草のような爽やかな香りがしたかと思えば、見た目に反して柑橘と砂糖の甘みがぶわっと口に広がる。
これはこれで中々……。アルコール独特の苦みはあるものの、想像よりも飲みやすい。
私がグラスを置いたのを見届けて、エンさんはニコリと微笑んだ。
「どうして待たせたのか、だったな」
注文しながらも、私の疑問はしっかり感じていたらしい。
「お嬢さんに聞きたいことがあったんだ。それに、お嬢さんも、俺に聞きたいことがあるんじゃないのかと思ってね」
カラリとグラスに入った氷が揺れる。
エンさんの赤い瞳が好奇心をあおるようにチラチラと輝いた。
「本人のいないところで話すのもなんだと思ったが、あの態度だからな。頑固なところは相変わらずだ」
「……そう、思っているのに、どうして私にその話をするんですか?」
「お節介かもしれないが……俺は、ライバルとして、友人として、ネクターの料理にほれ込んでる。あいつは料理人をやめたと言ったが、あいつが料理をやめられるはずがないんだ。たとえ神であっても、ネクターから料理を取り上げることは出来ない」
エンさんの声色は至極真面目で、そこにはネクターさんへの心配が多分に含まれている。
「ネクターは何かを隠してる」
きっぱりと言い切った彼の言葉に、私も思い当たる節があって――結局、私はエンさんの誘いを断りきれなかった。




