ep.8 思い
「リシェルお嬢さま、おはようございます」
「んん……おはよう、イレナ」
優しいイレナの声で、翌朝目覚めた。青く澄んだ、天気の良い朝だ。窓を開ければ、心地よい空気が肌を包む。
私は、からだを起こして伸びをした。足をベッドから下ろすと、すぐにイレナが着替えを手伝う。
桶にはった冷たい水で顔を綺麗にして、髪をブラシで整えてもらう。毎朝のルーティンだ。
青色のドレスを身にまとい、ハーフアップにしてもらった。昨日とは打って変わって、私の好みの落ち着いた雰囲気の服装。やはりこちらの方が、私らしくていい気がする。
おそらく、特別授業ということは学校内で制服が配られる。それまでは、自分らしくありたいと思ってしまう。
イレナが、姿見を用意してくれた。
「リシェルお嬢さま、ステキです」
「ありがとう!」
耳元でキラリと耳飾りが光る。これからの特別授業に、心を馳せる。踊る気持ちが、抑えきれない。
朝食をいただきに、部屋を出る。いちばんのりだったらしく、食事の間では使用人たちが準備をしていた。私を見るなり、手を止めて一礼をする。普段からいちばんなので、これもいつも通り。
それぞれに決まった席があり、私の席に腰を下ろした。
静かに使用人たちが、準備を進めている。イレナがそっと、紅茶を出してくれる。お花の香りが、ふわりと包み込む。
今日は甘く飲みたい気分だ。角砂糖をひとつ取り、紅茶の中に落とした。紅茶に溶け出して、揺れを生み出す。ティースプーンで、くるりと回した。カップを丁寧な所作で口元へ運ぶ。
ゆったりと紅茶を楽しんでいると、お兄さまが顔を覗かせた。
「お兄さま、おはようございます」
「おはよう。リシェルは、相変わらず早いな」
「この時間が好きなだけですわ」
お兄さまがイスに腰を下ろすタイミングで、お父さまもお母さまも食事の間に入ってきた。
「お母さま、お父さま。おはようございます」
私とお兄さまの声は綺麗に重なった。
お母さまはセンスを軽く手に打ち、お父さまは視線で会釈をした。それぞれサッと自席に腰を下ろした。
静かな朝食の時間が流れる。
変に小言を言われないだけ、気が楽だと思ってしまう。淡々と食事を済ませ、各自そのまま解散となった。
お兄さまだけは違うらしく、立ち上がった私の方に近づいてきた。
「リシェル、今日からだな」
「ええ。しっかり学んでまいりますわ」
私は、にこやかな笑みを浮かべた。心配そうな表情になったお兄さまは、無理に笑っているように見える。こうして特別授業と向かう前に、お兄さまが戻ってきてくれて本当に良かった。
気にかけてくれ、お兄さまが本当の家族のように思えていた。お兄さまのあたたかな手のひらが、頭に触れた。
「そんなに心配なさらないで」
「どんなときも、僕はリシェルの味方だから」
「ありがとうございます」
お兄さまは、また直ぐに海外へと向かうのだろう。私もしばらくこの屋敷には戻らない。今度会えるときには、今とは状況がガラリと変わっているかもしれない。
離れ難い思いをぬぐい、私は気持ちを固く結ぶ。
いままでの学校もそうだったが、イレナは入れない。どんな使用人も連れて行けないので、ひとりきりだ。
「行ってまいりますわ」
私は使用人たちに背を向け、特別授業を行う校舎へ向かう馬車に乗り込む。
「リシェルお嬢さま!」
大きなイレナの声がして、私は足を止めた。学校に通っていたときも、この屋敷から通っていた。私は、はじめて屋敷から出るのだ。ずっと近くにいたイレナと離れるのは、今回が初。
振り向くと、イレナが黄色の手のひらサイズの袋を手渡してきた。
「ご無理なさらないでくださいね」
青色の鳥の刺繍が丁寧にされた、黄色の袋の中はかたい。手先の器用なイレナの美しい模様に、見惚れてしまいそうになる。
「嬉しいですわ! 私は、やれることをやるのみ……イレナ、心配なさらないで」
「はい」
私は、彼女に心配をかけまいと振る舞う。もしかしたら、イレナには全てお見通しかもしれないが。馬車から手を振って、屋敷を後にした。
ガラガラと、馬車が揺れる。イスから振動が伝わってきて、お兄さまを迎えに行った時のことを思い出す。
手の中の黄色の包みを開き、中身を取り出した。中からは、手のひらサイズの小さな鏡。折りたたみ式で、外に花に戯れる蝶の絵柄が描かれている。
パカっと開くと、両面に光を反射する鏡面が見えた。
「鏡? ……それと、手紙?」
紙を挟むようにして、鏡が折りたたまれていた。イレナの達筆な文字。
『つらいときは、鏡面に息を吹きかけてみてください』
どういうこと? イレナの言いたい意図があまりよく分からない。じっと考えていても仕方がない。手紙にあるように、ふぅっと息を吹きかけた。
これでなにが……吹きかけたところに文字が浮き上がる。文字が彫ってあるわけではなく、お風呂場の鏡に落書きをするみたいになっているようだ。再度そこに湯気が当たると、うっすらと文字が浮かび上がる。その仕組みを使って、私を励まそうとしてくれているらしい。
「光はあなたに……イレナらしいですわ」
幼いころ、なにかある度にイレナが励ましてくれる言葉だった。胸に抱くと、イレナを感じることができる気がした。




