勉強不足のペナルティ 1
教室の窓際の席でユウリは黒板に目を向けることもなく、手袋を纏う左手で頬杖を突いていた。
考える事はただ1つ、押し付けられた護衛任務の事。
ある程度の武力を誇示し、嫌がらせの首謀者を撃退し、ストーカーの1人を拿捕した。だというのに陳はユウリに任期満了を告げる事はない。
つまり、陳が恐れている敵はまだ居るという事だ。
しかしそれが分からない、とユウリは深いため息をつく。
ただのストーカー程度なら明神の力を使えば葬るのは容易く、ユウリという危険分子を抱えておくメリットはない。得体の知れない雇用主というのは、強大な敵以上に気持ちが悪かった。
パコンという間抜けな音を聞いたのが先か、音とは裏腹な激痛と重みを後頭部に感じたのが先か。頬杖を突いていたユウリの顔が机の天板に叩き付けられる。
異様な空気と沈黙に満たされた教室で右頬に机の固さを感じたユウリは、重い痛みを訴える後頭部を擦りながらゆっくりを目を開く。
目に飛び込んできたのは真っ黒なタイトスカート。そのまま視線を上げていけば同色のジャケットと真っ白なシャツ、振りぬかれたままで止められた腕。そこにはユウリをまっすぐ見下ろしてくる女性教師――蘭響子の顔があった。
「いい度胸ですね、不知火君。担任の授業で考え事なんて」
「……問題が難しくて考え込んでたんですよ」
敵意以外に対するアンテナを張っていなかったユウリは、敵意を越えた何かを発露する蘭に表情を強張らせる。振りぬかれた教科書は斉藤泉が持っていたナイフよりも、ユウリに恐ろしい何かを感じさせていた。
蘭の眉間に一瞬で刻まれた皺の深さにユウリが覚悟を決めようとしたその時、教室内にスピーカーからのチャイムの音が響き渡る。
途端に教室内の緊張と沈黙は霧散していき、蘭は教科書を持っていない左手で顔を覆ってため息をつく。
形ばかりの特待生制度があるとはいえ、選民思想が色濃く残る進学校である星霜学園でこんなにも問題がある生徒は居なかったのだ。
しかし例外を許すわけにはいかない蘭は、ユウリの襟首を掴んで無理矢理起き上がらせる。その際にユウリの喉から発せられてはいけない類の声が出るが、蘭の手による拘束は緩まる様子すら見せなかった。
「でしたら、しっかり問題が理解出来るように課題を出してあげましょう。出来なければ補習、あるいは留年です」
「え、マジっすか!?」
「マジです、他の先生方も困ってらしたから。後で職員室に取りに来て下さい。忘れて帰ったら――」
そう言葉を切った蘭は立てた親指を下に向けて首筋で横に引いて去って行く。その動作の躊躇いのなさにユウリは返す言葉もなく、教壇の荷物をまとめて教室を後にした蘭の背を見送っていた。
「ばっかじゃないの」
一瞬にしてざわめきに包まれる教室。その中でも通る声の方にユウリが振り向くと、そこには腰に手を当てた綾香が居た。
その態度はあからさまにユウリの不真面目さにあきれ果てていたものだった。
「うっさいなあ」
「授業も聞いてない人に言われたくないわよ。どうせつまんない事でも考えてたんでしょ」
「まあ、そうなんだけど」
返す言葉もないユウリは、ばつの悪さを誤魔化すように指先で頬をかく。
綾香達を守っているのは自分の目的のためで、彼女達に自分の事情を押し付けるわけにはいかない。陳との取引がなければ、ユウリが綾香達を守る事などありえなかったのだから。
「それより、アンタ課題なんて出されて――護衛の方はどうするつもりよ。ただでさえ、蘭先生の課題って自分の教科だけじゃなくて、苦手な教科とかもまとめて出して来るって有名なのに」
「……マジでか」
「マジよ。それも、単位が取れなさそうな教科を集中的に」
気を遣ってくれたのか、途中から小声になった綾香の言葉にユウリをがっくりと肩を落とす。
課題をいい加減に終わらせるのは容易いが、訳ありの不良生徒に教科書を振り下ろせる教師が許すとは思えない。たとえ蘭の教科だけを終わらせたとしても、他の教科を誤魔化したりすれば補習は避けられないだろう。
加えて、ユウリに誰かを買収するほどの資金はなく、蘭が誘惑や脅迫に屈するとは思えない。
予想以上の窮状にユウリが頭を抱えていると、綾香はただただ深いため息をつく。
この事態を招いたのは紛れもなくユウリで、同情できる要素など何1つとしてない。
だが、面倒見のいい綾香がそんな少年を放っておけないのも事実だった。
「仕方ない、か。アンタ、今日の放課後空いてるでしょ?」
「そちらさんに予定がなければ……もしかして代わりに――」
「やってあげるわけないでしょ」
綾香の申し出に期待したユウリは机の天板を叩いて勢いよく立ち上がるも、返された当然の答えにすごすごと椅子に戻る。彩雅に勉強を教えてもらっているとはいえ、愚直なほどに真っ直ぐな綾香がそんな事を許す訳がない。
まるで目の前に出された餌を手品で隠された犬のようなユウリに、今度は綾香は毒気を抜かされたように肩を落とす。
陳という優秀なエージェントが信用するだけの能力を持ち、詩織と彩雅に対する脅威を撃退したボディガードと、目の前で自業自得にうなだれる少年がどうにも同一人物とは思えなかった。
「まあ、悪いようにはしないわ。最後はアンタの頑張り次第だけど」
口を着いて出たその言葉が、自然と優しく肩を叩いた手が、何かを誤魔化すようで綾香にはどこかおかしかった。




