表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
89/180

その4


 気になることはいくつもあったが、それでも最初に気になったのは、やつれた彼のその顔だった。


「ペトロ?」ふたたび彼女はつぶやくと、彼の手を取り抱きしめるよりもはやく、「ちゃんと食べてるの? あなた」と言って、そこに置かれたイスへとすわった。


 すると、問われた男も男で、気になることはいくつもあったが、突然あらわれた愛しき妻の姿と、彼らのレストランの風景におどろいたのだろう、


「マリサ?」ふたたび彼もつぶやくと、こちらもこちらで、彼女の手を取り抱きしめるよりもはやく、「もちろ……いや、あんまり」と言って、近くの壁にもたれかかった。


 トォオォォウゥォオゥォオゥオォオォン。


 と、例のすきま風かネオン管のうねりを想い起こさせる音は続いていた。マリサ・コスタの開いた《結界》。それが、いまだ光をはなち、彼女たちを取り巻いていたのである。


 であるがしかし、それでも彼らは、そちらに意識が向くこともなければ、ましてやそれがなんであるのかを確認し合うことも、口に出すことも話し合うこともなかった。彼らはただただ、互いが互いの顔を見詰め、きっとあちらからなにかを話し出すであろうと、待ち構えつつすわり続け、あるいは立ち続けていた。夫は夫で、妻は妻で、互いにただただ呆然とした心境のまま。そうして、


 ォオォ……ォウゥォオ…………ゥォ……ゥオ……ォオ…………ウォ、


 とまるで風が吹くのを止めるように、まるで波が動きに飽きたかのように、《結界》の音はちいさく細く消えて行き、それに合わせて、《結界》そのものも、そのまま、まるでそこに何の用事もなかったかのような表情で、ぽつ。と消えてしまったのであった。


「おなか」とうとうマリサは言った。光が消えるのに合わせるように、「すいてない?」


「おなか?」ペトロは応えた。彼女が好きな、あの優しい声とほほ笑みで、「すいてる。すごく」


 彼がひとを殺した? あり得ない。例の中年警官の顔が一瞬脳裏を過ぎったが、マリサはそれを一笑に付して立ち上がった。


「なにか作るわね」レストランのフロアを横切り、厨房へと向かった。「と言っても、パスタとチーズくらいしかないんだけど」


     *


「それはもちろん信じるわよ」と、それからしばらくしてマリサは言った。最後のパスタを口に運び、「問題は、なぜあなたが疑われてるかってこと」


 夫婦再会の食事は結局、スパゲッティに塩気の強いチーズを混ぜたものだけであった。ただし、黒こしょうはたっぷりふったが。


「借金の件もそうだが」ペトロは答えた。こちらは水をひと口含んでから、「やっぱり誰かが、俺をはめようとしているらしい」


 ペトロ・コスタが、レストラン運営のための資金を、件の実業家・天台烏山から借りたこと、そうして、それが発端となり、天台の手下たちによる借金の取り立てや店への嫌がらせが続いていたことは、これまでに書いて来たとおりである。であるが、


「でも、いったいなんで?」とマリサも言うとおり、「借金の額も、あなたなら返せないほどじゃないし」このお店だって、天台が狙うには立地もサイズも微妙だし、「あなたをはめて、いったい誰に、なんの得があるっていうの?」


 とマリサが疑うのも当然のことではあるが、この彼女の問いへの答えも、以前にすこし書いたとおりである。ペトロが応えた。


「いいか? マリサ」と。「俺は誰も殺していない。それは確かだ」しかし、疑われても仕方がない場面が作られた。「俺の目の前で男がふたり、天台の手下の男がふたり、突然消えていなくなったんだ」そうして彼らは後日、ある山林で死体として見つかり、「今回の件へと繋がったんだ」と。


 そうして、これはマリサもペトロもまだ知らないが、それを指揮した人物、ペトロ・コスタをはめようとしている人物こそ、実は天台烏山その人であり、結局彼が欲しがっているものとはペトロ本人、いや、それにマリサやアーサーも含めた彼ら三人の能力であった。そうして、


「しかも、それと前後して、俺は俺で、妙なことが出来るようになっちまった」


 とペトロも言うとおり、いま彼らに起こっている様々なことは――昨夜のマリサと富士夫の邂逅も含めて――彼らの能力を引き出し目覚めさせるための天台烏山の策であり、且つ、それこそが彼の目的にもなるのであった。そうして――、


     *


「“真実こそが死だ!”」と、突然男が叫んだ。ひとり、野外ステージに立って、「“俺はいままでそいつとうまく渡り合って来た。ともに着飾り、舞い、踊り、そうしてワルツを踊った。なんども、なんども、なんども……”」


 彼は手足がながく、全体的にひょろっとしていて、けっして美形とは言えない鼻のかたちをしていたが、それでも声はすばらしかった。


「“彼らを止めろ!”」男は続けた。そこにはいない雑踏を止めようと、ほとんど絶叫するかのように、「“それ以上は一歩も進ませるな!”」


 ステージ横には恋人だろうか、ひとりの女が、クリップ止めしたA4紙の束を持って立っていた。そこに書かれた文章を目で追い、彼のセリフを聞きながら。男の叫びは続いていた。


「“彼らを凍り付かせろ!”」と。「“それ以上! 《壁》に近付けないように!”」と、無人の客席に背を向けながら、「“そこで……、その場所で……”」とここで声を落とし抑えてから、「“これ以上!”」と天に向かい絶叫した。「“これ以上! 彼らが消え去らないように!!”」すると――、


「ヤッチ!」と木花エマが声を上げた。道の先からふり返り、「なにしてんの? 行くわよ?」と、ステージ前で固まっている佐倉八千代に向かって。


「あ、ごめーん」と応えて八千代は走り出した。セリフの続きが気になりながらも、「なんかちょっと見入っちゃってたー」と続けて小走りに。


 と、言うことで。


 こちらは場面戻って東京都立石神井公園。大学を休んだエマと八千代が、八千代の見た『世界の終わりの直前の夢』、そこで彼女が見た、通った場所を歩いてまわり、あれが結局なんだったのか? その確認と、それを理解し、可能ならば解決するためのヒント・手掛かりを探しているところであった。


「ひょっとして、あのひとも出て来たの?」エマが訊いた。「ヤッチの見たその夢に?」


「え?」八千代は応えた。一度うしろをふり返り、「あ、いや、ううん」とまたこちらを向いてから、「ほんとちょっと見入っちゃっただけ。すごいよねー、役者さんかな?」


「うーん?」とエマ。すこし伸びをし舞台を見たが、きっとタイプでもなんでもなかったのだろう、「きっとどっかの大学の演劇部とかじゃない?」なんか彼女連れっぽいし、「セリフもなんか、アングラっぽかったし」


「あー、たしかに」と八千代。「なんの話かよく分かんなかったわよね」とそれでも、「《壁》って結局、なんなんだろうね?」自身が感じた引っ掛かりをサラッと口に出しながら。が、しかし、


「さあねー、巨大な社会システムとか将来への不安とか、乗り越えるべき父性とかなんとかかんとか」というエマの言葉に、その引っ掛かりはそのまま受け流されることにもなった。「でなんだっけ? このまままっすぐ行けばいいんだっけ?」


「あ、うん。そう」八千代は答えた。もう一度舞台の方をふり返ろうとしたがそれは止め、「けやき広場を抜けて、野球場からテニスコート、そこから国道に出る感じ」と自身が通った夢のルートを改めて想い出しながら。


 ちなみに。ここで名前の出た「けやき広場」とは昨晩、天台所有のホテルから飛ばされた山岸富士夫が最初に落ちた場所、いわゆる“ケヤキのボブ”が立つ、あの広場のことである。



(続く)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ