その8
「しっかし今日は、おとこを追っかけてばかりですね、わたし」
と深山千秋が苦笑していた頃、そんな彼女から北北東へ向かうこと数km。どこかの町のどこかの通りの、よく分からない場所にある、街のちいさな喫茶店、青い扉の『シグナレス』の店内というか従業員用休憩室では、そんな彼女たちが取り逃がした男・山岸富士夫が、気を失い、床に倒れ、両手を縛られ、まるで死体か何かのように、まっ白なシーツを頭の上から足の先まですっぽりとかけられていた。シーツをかけられているのは、その裸体を隠すためだし、手は縛っているのに足を縛っていないのは、そこを縛ろうとした際、彼のアレが目の端にぴょろん。と飛び込んで来たため木花エマが、
「ぎぃやぁあぁあ!!! 目が、目が、つぶれるうぅうぅうぅうぅー」
とラピュタのムスカばりに叫んだからであった。ほんと、美術の授業や趣味で描いてるBLマンガ(お耽美系)などでお目にかかることもよくあれば描くこともよくあるだろうに、やはり現物の生々しさ、禍々しさには、「彼氏いない歴=年齢」のうら若き乙女にはどうにもこうにも厳しいものがあったようである――が、それはさておき。
「110番でいいわよね? 110番。わたしも色々投げたしぶつけたし、なんか気絶させちゃったりもしたけどさ(アルミのフライパンで)、悪いのは突然湧いて落ちて来たこのフル――全裸男なワケだしさ、ね? 警察に突き出しちゃえばいいわよね、警察」
と、スマホ片手に“うら若き乙女”木花エマは話していた。早口に。興奮冷めやらぬ感じで。部屋の中を行ったり来たりしては、ときどき頭をぶるぶる振って、さっき見っちゃったものを記憶から追い出そうとでもするかのように。すると、そんな彼女とは対照的に、
「うーん?」
ともうひとりの「彼氏いない歴=年齢」な乙女・佐倉八千代は黙って何かを考えていた。腕を組み、首を傾げて、富士夫の、シーツに隠れた顔の辺りをジイッと見ながら。そうして、
「顔は全然ちがうんだけどさ」としばらく経って彼女は言った。「雰囲気が似てるんだよね」とひとり記憶を手繰り寄せるように。「夢で見たあのひとに」
*
そう。
そこはたしかに気持ちのよい初夏の昼下がりで、そこではたしかに世界が終わろうとしていた。
「八千代さん」と誰かが彼女に声を掛けた。彼女に抱き支えられながら、「ダメです。みんなを連れて逃げて下さい」
そのとき彼女は傷つき、自分の犯した罪にとてもこころをえぐられていたが、その誰かは、彼女以上に傷つき、自分の犯した罪にとてもとてもこころをえぐられていた。しかし彼、あるいは彼女には、それでも彼、あるいは彼女を支えてくれるものがあった。
そう。
それは、碧い水のような氷のような、しかし傷ひとつ気泡ひとつない、彼、あるいは彼女とその恋人の繋がりを象徴する、そんなカットガラスの首飾りだった。彼、あるいは彼女は分かっていた。自分がなにをすればよいのかを。
「****さん!」
と彼、あるいは彼女は叫び、佐倉八千代の意識、あるいは未来の記憶は、石橋伊礼の行政書士事務所、その窓辺へと移動した。窓の外にはいくつもの星空、宇宙、無限に近い世界の集まりが見え、ひかり、折り重なって、いままさにそれら全てが終わりを告げようとしていた。佐倉八千代は想った、あるいは想い出していた。
「ああ、間に合わなかったのね」
と先ほどの彼、あるいは彼女が、とおい宙の中央でひかり輝いている様を見詰めながら、
「****さん!!」
今度は八千代が叫んだ。また助けられなかった彼、あるいは彼女の名を。そうして――、
*
「夢?」と木花エマは訊き返した。いよいよスマホで110番を押そうとしていたところだったが、その手を止め、歩くのも止め、佐倉八千代の方をふり向きながら、「それって、例の?」
「うん、そう」八千代は応えた。傾けていた首を戻して腕は解き、問題の全裸男の方に近付きながら、「例の、世界の終わりの直前の夢」
「あ、ちょっと、ヤッチ」エマは止めようとしたが、
「大丈夫よ」と八千代は言った。床に倒れたままの全裸男の前に屈み、「顔はこわそうだけど、わるい感じはしないもの」と顔のシーツを除けながら。
「ほんとに?」とエマは返したが、手もとのスマートフォンは既にエプロンのポケットにしまわれていた。八千代の言う「いい感じ」「わるい感じ」が外れたことはこれまでなかったからである。エマは続けた――「そのひとも?」
「そのひとも? そのひとも出て来たの? その夢に?」
「ううん」八千代は応えた。「このひとじゃないんだけどさ」山岸富士夫のゴツッとした横顔を眺めながら、「でもやっぱりよく似てる。顔はちがうけど、雰囲気が」
「うーん?」エマはうなった。「ま、わるくない顔ではあるけどさ」それでも八千代の肩越しに、「それで?」
「それで?」
「そのひとの名前とかは?」
「――名前?」
*
「ああ、間に合わなかったのね」
ふたたび八千代は想い出していた。とおい宙の中央に浮かぶ、先ほどの彼女、あるいは彼を、ふたたび見上げながら。
「****さん!!」
ふたたび八千代は叫んでいた。また助けられなかった彼女、あるいは彼の名を、今度はいま目の前にいる、山岸富士夫の、ゴツとした横顔に重ね合わせながら。そうして――、
*
「ヤマギシ? さん?」ここでふたたび佐倉八千代の意識あるいは記憶は、いま、ここ、現在の、『シグナレス』の休憩室へと戻って来ていた。彼女はくり返した。今度ははっきり、「ヤマギシさん?」と。
「ヤッチ?」とここでエマが彼女に声をかけた。「大丈夫?」八千代の意識あるいは記憶が、どこか遠くへ行っては帰るをくり返していたからだし、「ヤマギシ? ってだれ?」と、いままで聞いたことのない名前を突然彼女が言い出したからでもあった。であったが、
「え?」と意識を戻した八千代が、エマの方をふり返ろうとした瞬間、またしても奇妙な現象が彼女たちの前で起こった。
目の前に横たわる山岸富士夫の身体が――というか彼の下の床が、急にぽわ。と光り出し、かと想うと、
ぐっ
ぎゅっ
ひゅっ
という奇妙な音とともに山岸富士夫の姿を、そこから消してしまったからであった。両手をしばっていた紐と、まっ白なシーツだけを残して。そうして――、
*
『世界が終わる直前、そこは気持ちのよい初夏の昼下がりだった。』
樫山ヤスコが石橋伊礼のノートを拾い上げたとき、まず目にはいって来たのは、そんな一文だった。彼にしては珍しい乱れた文字で、まるでなにかに追い立てられるか溺れさせられているかのような走り書きであった。ノートは続く。
『世界が終わる直前、彼女たちは傷ついていた。その犯した罪に。』
そうして。
『世界が終わる直前、それでも世界は、彼女たちを見ようとはしなかった。彼女たちの傷や、彼女たちの痛みを。』
とここで、
「ヤスコ先生?」彼女のうしろで声がした。「こいつ、着替えさせちゃいますんで、その……」
石橋伊礼の恋人、川島重雄だった。
「あ、うん、そっか、そうですね」ヤスコは応えた。彼の方をふり返り、「じゃあ私は、リビングの方にいますんで」
伊礼が裸を、恋人以外の人間――とくに女性――に見られることを極端にきらう傾向にあることを、ヤスコは想い出したからである。
「なにか持って来るものとかあります?」ヤスコは続けた。ノートを机に戻しながら。
「あー、いえ、特には」重雄は応えた。「先生も、のどとか乾いてたら、冷蔵庫から適当に飲んどいて下さい――っても、麦茶とかしかないですけど」
と、言うことで。
こちらは場面変わって石橋伊礼の住むマンション。橋の上で赤毛のエイリアン・ミスターなんとかと別れた樫山ヤスコは、彼の忠告にしたがい、当初考えていた伊礼の事務所ではなく、以前聞いていた住所を頼りに、彼のマンションまでやって来たのだが、そこで、彼女と同じく、連絡の取れない伊礼を心配して帰って来た彼の恋人・川島重雄と偶然出会い、
「なんか、まっくらですね」
「おーい、伊礼―、いるかー」
と重雄の持つ鍵で部屋まで入ったところ、
「靴も鞄もありますし、たしかに事務所へは行っていないようですけ――」
「お、おい、伊礼! どうした!」
と、寝室の床に突っ伏し倒れている伊礼を発見、ベッドへ戻し、先ほどのやり取りへと続くわけであるが――、
『世界が終わり始めたとき、それでもそこには緑があふれ、鳥は歌をうたっていた。』
寝室を出ようとするヤスコの目に、伊礼のノートの続きが見えた。
『風はやさしく、花たちはその身を誇らしげに咲かせていた。』
その、けして名文とは言えないが、それでもその詩のような預言の文章は、ヤスコの心をつよく惹き付け彼女は、改めてそのノートを手に取ると、それとともに部屋を出て行こうとしたのだが、そこに、
「ヤスコ先生……?」石橋伊礼のつぶやく声が聞こえた。「おられるんですか?」ちからない、いまにも消え入りそうな声だったが、「実は……、先生にもお聞きしたいことが」
(続く)




