その16
と、言うことで。
祝部ひかりは戸惑っていた。と言うか正直……、あ、いや、今度はほんとに、ただただ、ただただ戸惑っていた。なにに? そう、先名かすみに。というか、彼女のやたらとキレイなその顔に。というか、やたらとキレイなその顔と、やたらとキレイなその顔が、こちらをジッと見ていることに。そう。彼女は言う。ひかりに向かって。
「“ただ一言、ただ一言、僕を恋人と呼んで下さい。さすれば僕は新しく洗礼を受けたも同様。今日からはもう、絶えてロミオではなくなります。”」とか、
「“おお、ジュリエット、あなたの美しさが僕を弱虫にしてしまうのだ。僕の中の勇気の鋼を、鈍らせてしまうのです!”」とか、
「“いままで心が愛をしたことがあったか? いいや、目よ! 僕は今宵この時まで、真の美を見たことがなかっただけなのだ。”」とか、
まあ、そんな男っとこ前なセリフを、内海祥平の六千倍はするであろう男っとこ前な声と雰囲気で。本読みもまだまだ始まったばかりだったので、手には台本を持って、服も制服のままだったけれど、それでも、下ろしていた髪はアップにしたし、声も表情も男の子っぽくしたりしたもんだから、
「ほぁー」とか、
「あぁあん」とか、
「か、か、カッコよ過ぎで御座らぬか?」みたいな?
そんな桃色吐息と感想が、主にクラスの女生徒たちを中心に聞こえて来たりなんかしちゃって、それに当てられたワケでもないのだろうけれど、それでひかりも、すっかり彼女に魅了されたりなんかしちゃって、
「“ジュリエット、僕は誓うよ。見渡す限りの樹々の梢を白金色に染めている、あの美しい月の光にかけて。”」
とか言われた日にはあなた、
「“いけないわ、ロミオ。月にかけて誓うだなんて。ひと月ごとにかたちを変える、あんな不実な月に誓うだなんて。あんな風にあなたの愛まで変わってしまったら大ごとだわ。”」
とかノリノリで返すし、
「“相逢う恋人たちの喜びが、退校時のあの学童どもの心なら、別れる時の悲しさは、登校時のひどく浮かないあの顔か。”」
と言うかすみに対しても、
「“おやすみなさい! おやすみなさい! 別れは甘い悲しみ。だから朝までおやすみなさいを言い続けるの!”」
といまにも泣き出さんばかりのヒロイン声で言ったりするし、更には、
「“おお、まことの薬剤師よ。確かにお前の薬は速い。僕はこのまま、彼女に口づけをして死のう。”」
と、ジュリエットが死んだと想い込んだロミオが、自ら毒薬を飲み命を絶つ間際、彼女に最後の口づけを与えるシーンなんかは――あ、いや、もちろん実際にはやらないんだけどね、劇だからね――床で聞いてて涙が出そうになっちゃうし、だもんだから、仮死状態からよみがえったジュリエットがロミオの死体を見付けて、
「“ああ、しあわせな短剣よ。ここがあなたの鞘よ。ここで錆びて、私を死なせて。”」
と、彼の持っていた短剣でこちらも自ら命を絶って終わる場面なんかでは、なにを想ったのか突然、短剣を持ったままロミオの顔に手をやると、彼女に対してこちらから口づけを――って、おい! こら! ひかりちゃん!!
「ちょちょちょちょ、ストーーーーーップ!!!」
と、自身の興味や欲望より教育者としての倫理観を発動させた石田文子(独身、腐女子、百合も大好き32歳)に止められることになったりするのであった。そう。そうして、
「え……? あれ……?」
と祝部ひかりは戸惑っていた。何故なら今度は本当に。床に倒れたかすみの顔を見詰めながら、なんだかとても悲しい気持ちに、そうしてなんだか、前にも同じような気持ち、同じような場面に立ち会ったことがあるような、そんな不思議な感覚に襲われたのだから。
*
と、言うことで。
ここで突然、時間と空間と登場人物は入れ替わる。みたび。当然、いつものように。
が、もちろん、その切り替わり先は、例の山岸まひろのマンションでもなければ、例の奇妙な橋の上でもなく、今度は同じ練馬区でも練馬区石神井台一丁目、皆さまお馴染み、東京都立石神井公園、そのまん中あたりにある『石神井公園けやき広場』である。
そうして、この切り替わった時間と空間と同じように切り替わった登場人物と言うのが二人、いや、三人いて、そのひとり目と言うのは、
「おーい、深山ー」と部下の名を呼ぶこちらの中年男性であった。「どうだー、いたかー?」
年の頃なら四十後半、地味な吊るしのスーツを着て、まっ白なシャツとこちらも地味な紺のネクタイ。背は気持ち高めで筋肉質に見えなくもないが、それはどちらも平均的。賢そうな顔をしてはいるが、こちらもどうにも普通人、人畜無害な善人のように見え――要は、皆さまお気づきのとおり、祝部ひかりの父親、祝部優太であった。そうしてその次、ふたり目の登場人物と言うのが、
「あ、はーい、部長」と彼に応える若い女性、深山と呼ばれた彼の部下である。「あれ、そうじゃないですか?」
彼女は、大きな目と大きな口、それにとてもきれいな脚をしていて、いまは公園探索にだぼついたズボンを履いているのでそうでもないが、これが例えば、短めのスカートでどこかのカフェの窓際にでも座れば、「ほぉ」と店内の野郎どもから感嘆のため息を引き出すほどの脚であり――要は、今話の冒頭で優太とふたり、例のひげ面刑事・左武文雄をどこかに幽閉していた、あの女性である。
「どこだい?」彼女の横に立ちながら優太は訊いた。
「ほら、あそこ」深山は答えた。手にした懐中電灯を上に向け、「って、あれ? あれひょっとして全裸じゃありません?」
「え? あー、そう言えば」優太も答えた。光の先を確認しつつ、「“服を残して消えた”って言ってたな、友枝さん」
「え? ちょっと! 知ってたんなら言って下さいよ! 部長」
「いやいや、すまん。あまりに急だったから伝え忘れた」
「まったく……、あのババアもババアで私たちを使いっぱしりにしやがってさあ、管轄ちがうのに」
「まあまあ。それでも、この辺の土地勘は我々の方があるからね」
「むーん」深山はうなった。「で? どうします? いやですよ私、全裸のおっさん運ぶのなんて」
「うーん?」優太もうなった。「まあ、大事な部分は俺のズボンで隠すとして……しかしそもそも、あれ、どうやって下ろせばいいんだ?」
と、言うことで。
切り替わった三人目の登場人物。彼はいま、ふたりが見上げるケヤキの木、ひときわ高いその木の上に、気を失った全裸すがたで引っ掛かっているワケなのだが――、
彼の身体は中肉中背。年の頃なら優太と同じかすこし下。この位置からだとご立派な(*自主規制ガ入リマシタ)が邪魔してよく見えないが、彼の目はちいさく、ほお骨は高く、長くゴツゴツとした顔の下には大きな口が付いている様子であった。いわゆる美形ではないにしても、それでもなかなかかわいらしく、女性に敬遠されつつ好意を持たれるような――要は、今話の後半あたりで突然、天台烏山所有のホテルから
ぐっ
ぎゅっ
ひゅっ
と、《壁》に取り込まれては消えて行った、山岸富士夫その人なのであった。
*
と、言うことで。
ひき続き祝部ひかりは戸惑っていた。なにに? あ、いや、もう、自分でもどれのなにに戸惑っているのかも分からないくらいに彼女は戸惑っていた。
あ、いや、そうは言っても一番戸惑っているのは、先名かすみにキスしそうになったことなのかも知れないけれど、まわりのみんなは、
「よっぽど役になり切ってたんだねー、すごいよー」とか、
「いや、先名殿のあのイケメンぶりなら致し方ありませんな」とか、
「あれは私だってチューしたくなるよー、仕方ないよー」みたいな?
そんな風には言ってくれているのだけれど、そういうのとはまた違う、なんか、こう、もっと具体的な切実感? 切迫感? 臨場感? みたいな気持ちが…………って、ダメダメ、そんな正当化しようとしてちゃダメよ、ひかり。ぶっちゃけかすみちゃんもちょっと引いてたじゃない。あーあ、あとでちゃんと話さないとなあ……、って、そうそう。あとでちゃんと話さないと、と言えば内海くんよね。こちらはこちらで大変と言うかなんと言うか……。
「お、おう、祝部」
「あ……うん、内海くん」
「す、すごかったな、先名とお前」
「う、うん、なんか女の子たち(というかブラスバンドのメンバーたち)が、試しにやらせてみてって先生に言ったらしくて――」
「いや、でも、なるほど。さすがは先名だなって想った」
「ほんと。すごいわよね、彼女」
「いや、祝部もすごかったぜ。本物のジュリエットみたいで」
「いやいや私なんて、あれはかすみちゃんがリードしてくれたから――」
「やはりライバルがいた方が盛り上がるからな。これで俺も、ロミオ役により一層ちからを――」
って、ちょい待ち、内海くん。え? なに? さっきのかすみちゃんの演技を見て、まだ自分にも可能性があるとか想ってるの?
「もちろん。天賦の才という意味では先名には敵わないかも知れないが、それでも俺だって努力すれば――」
って、いーやいやいや、いやいやいや。あなたまだ一行もまともに読めてないじゃない、セリフ。
「しかし、俺の野球の師匠も、『念ずれば花ひらく』が口ぐせで、おかげで俺も四番の座を――」
って、いーやいやいや、いやいやいや。それはあなたに野球の才能があったからで、世の中には叶う努力と叶わない努力が――、
「うん。しかし、叶うか叶わないかは、やってみないと分からないだろ?」
って、うん。ダメだ、このひと。運動音痴の子にも、
「お前も、努力すれば140kmの球が投げられるようになるよ!」
とか笑顔と白い歯で平気で言っちゃう子なんだった――とか。まあ、そんな感じで、「話通じるかな? こいつ」ってところなんだけど――、
「そ、そ、それ……それにッ。ラ、ラ、ララ、ライバルッは、いった方が、盛り上がるしな」
いや、だから、あなたとかすみちゃんじゃ、ライバルにもならな――、
「こ……恋ッ、も、演劇も……」
は?
「お、おま、おまえの、か、か、彼氏……お、俺とは、ぜ、ぜんぜん、ち、ちがうタイプだけ、だけど――」
彼氏?
「お、お、おれ、おれも祝部を――」
え?
「ちょ、ちょっとまって、内海くん」
「な、なんだ?」
「彼氏? ってなんのこと? わたし彼氏なんかいないよ?」
「え? え? で、でも、ち、千尋が……」
「千尋? 千尋って風見さん? ブラスバンド部の?」
「お、おう。ち、千尋が、公園通りのマ、マックで、い、祝部と、か、彼氏が、デ、デートしてるとこを――」
「はあ?」
「お、おれ、おれに、写真をおくってく――」
「え? は? ちょ、ちょ、ちょっと、それっていま見れる?」
「え? お、おう、こ、このスマホに――」
と、言うことで。
祝部ひかりは戸惑っていた。
と言うか、顔は真っ赤に、頭の中は真っ白になってパニクッていた。彼女は続ける。
「じゃ、じゃあ、なに?」と上ずった声で、「あ、朱央とのこの写真が、み、みんなの間で回覧されてるってこと?!」
「み、みんな、と言うか、ち、千尋発信で、ブ、ブラスバンド部を中心に……あ、で、でも、せ、先名さんも見たって言ってたから、ほ、ほぼクラスの全員に――」
「きゃーーーーーーーーーー!!!!!」
と、言うことで。
祝部ひかりは戸惑っていたし、混乱しつつパニクッていたし、それはどれぐらいのパニクり具合かと言うと、そりゃもう、かすみにキスしかけたこととか、朱央に告白(仮)されかけたこととか、そんな朱央の前でデッレデレしている自分の顔をクラスっていうか、学校中に知られてしまったこととか、あー、もう、そんな、色んなタイプの恥ずかしさが混然一体となっては記憶と意識のまっただ中をビッグウェーブしながら押し寄せては引き返しては押し寄せて来るをくり返すほどのパニック具合であって、しかも、そのパニック具合ってのは、なんと、なんと彼女に、彼女の持っている《窓》の能力を、無意識のままに使わせてしまうほどのパニック具合でもあって、だからそうそう、もうもうもう、それはもう、こう、無意識のものでもあるワケだから、そこで彼女は、そのまま、そのパニック具合のまま、
ぐぉおん!
と、ちいさな《窓》をひとつ開けると、いま、目の前にあるパニック因子のひとつ、内海祥平の身体を、
ぱっ
きゅっ
ひょんっ
と取り込んでは、また別の何処かへと飛ばしてしまうほどにパニクッていたわけなのであった。
(続く)




