その13
「富士夫さん――」
妻の病気のことを想い言葉を詰まらせる山岸富士夫の肩に、ひき続き、マリサ・コスタの右手は置かれていた。そうして、鏡にうつるその風景、それはまるで、長年連れ添った老夫婦のようにも見えたし、幼少期よりともに育った仲のよい友人同士のようにも見えた。が、ここでマリサは、ある奇妙な事実に気付くこととなる。それは、彼の肩に触れているはずの彼女の右手から、その彼の鼓動や体温というものがまったく伝わって来ない――という事実であった。そう。そうしてそれはまた、
「富士夫さん――」
とふたたびマリサが口にしたその言葉が、彼女の口から出ている言葉ではなかった――という事実でもあった。
そう。それは、彼女の目の前、ホテルの窓ガラスに閉じ込められた彼女の目の前で、彼女そっくりの女が、シルバーブロンドの彼女が、富士夫にささやきかけている言葉であった。
「え?」
とマリサ・コスタはそうつぶやいたが、窓の向こうの富士夫は気付かず、彼女によく似たその女も、一瞬こちらを見はしたが、それをそのまま無視すると、富士夫の肩に置いていた右手を彼の左耳に、のこった左手を彼のほおに当て、彼に彼女をよく見るようにとうながした。とろけるような、どんな聖人君子をも堕落させてしまうような、そんな、ささやきとともに。
「ちょ、ちょっと!」
とマリサ・コスタは叫んだ。ガラスに映った世界の中で。彼らに向かい、彼と彼女の唇が、相い重なることが我慢ならないようすで。
「なにやってんのよ! あんた!」
が、しかし、それでも富士夫は彼女に気付かず、彼女によく似たその女は、横目で彼女を笑うだけであった。続けてマリサは叫んだ。
「ダメよ! 富士夫さん!」
そうして、彼と彼女の唇が重なろうとした瞬間、マリサの叫びは頂点となり、と同時に、彼女を閉じ込めた窓のガラスはゆがみ、たわみ、時間と空間に亀裂は入った。そうして――そう。そうして、“ソレ”は、そこにあった。
「は?」
先ずそれに気付いたのは、山岸富士夫であった。彼は目をまるくすると我に返り、前にいる女からはなれ、“ソレ”の前へと歩いて行った。
「なぜ?」
“ソレ”は、高さ1mほどの、世界の終わりで現れるあの《壁》によく似た、時空の裂け目、その向こうに見える無限にちかい光の集合体であった。
「なんで?」
そうして、それに彼が気付いた瞬間、《壁》は、先ほどマリサの窓ガラスがそうであったようにゆがみ、たわみ、自身に亀裂を、時間と空間と意識とに亀裂を入れ始めた。そうして――、
「どうして」
と富士夫がつぶやくが早いか、今度は彼を、その亀裂の内側へと吸い込み、取り込み、と同時に、
ぐっ
ぎゅっ
ひゅっ
とそこから不意に、富士夫ごと消えてしまうのであった。そうして――、
*
「あれ?」
と丁度そのころ、石橋伊礼の事務所を目指していたはずの樫山ヤスコは、なぜか止まった橋のうえにいた。
いや、正確には、止まったのは時間の方だったし、「止まった橋」というのも意味不明なのだが、要は、石神井川に架かる橋――山岸まひろが赤毛の男と出会ったあの橋――その橋の所有空間だけが周囲から切り離され、時間を止められ、且つ、その止まった時のなか、その時間停止から解放されているヤスコにとって橋は「止まった」ように感じられたという意味なのだが(ややこしいな)、ここで、
「ちょっと、」とヤスコはつぶやいた。空を見上げ、家を出てからここまでの時間の流れがおかしくなっていることに気付き、「まさか……じゃないわよね?」と。
それから彼女は、それでもすこし躊躇って、スマートフォンを取り出すと、時間を確認し、その受信状態を確かめようとしたのだが、「ひょっとして……」そこに、
ガッツン!
とナニカとナニカ、橋の上空でぶつかり合うナニカとナニカの音が彼女の耳へと届いた。
「ああ、もう!」彼女は言った。心底こまったという声で、「やっぱりなの?」すると今度は、
ドッスン!
と彼女の背後、橋の丁度入り口付近に、肉の塊のようななにか、ひょろっとしてなよなよっとした感じのなにか、いつも突然現れてはいつも突然去って行く、そんな成人男性のようななにかが、「止まった橋」の上に堕ちて来たのであった。そうして――、
*
そう。そうして、いつの間にか大きな犬の鳴き声は聞こえなくなっていたがその代わり、窓の外では、何羽ものフクロウがのぞき込んでいるような灯が、ちらちらと点いてはふーっと消えるをくり返していた。そう。石橋伊礼を襲う音と言葉と過去と未来の洪水は、いまだ続いていたのである。
そう。それは、あふれ返り溺れそうになるそれらイメージの中で伊礼は、その中でも特に重要であろうもの、『祝い』と『ひかり』と『彼女を救けて下さい。』という青の修道士の言葉、それらにつながるものがないか探し続けていた。床に突っ伏し、ものすごい速さで、あふれる言葉とイメージの断片をノートに書き写しながら。
クークー。というハトの呼び声のようなものが聞こえた気がした。こちらも窓の外から、オリーブの枝をくわえたハトのような呼び声が。いくつも連なり重なり、ゆっくりと液体のように流れて来るのが分かった。ハトは流れ続け、あふれ続け、いよいよ窓のすき間から伊礼の部屋に侵入しようとしていたが、それでも伊礼はそれに気付けなかった。気付く必要はなかった。彼は物言わぬ石か塩の柱のようになっていた。
「くっそ」石橋伊礼はつぶやいた。無言で。だけれど強く。なぜだか彼には、とても時間がないように感じられていたから。『祝い』と『ひかり』が重要であること、そうしてそれに付随する少女のイメージ――背が低く、すこしやせ型で、だけれど誰よりも明るく笑うあの少女――がもっとも大事なイメージであることは分かった。が、しかし、彼女に関する言葉やイメージはそれ以上出て来なかったし、彼女につながるかも知れない言葉やイメージもあるようなないような、とても近くにあるように感じられることもあるが、と同時にとても遠くにあるようにも感じられていた。つながりの糸をたぐり寄せては、それが途中で断ち切られていることを知り、また戻っては、そこでまた糸は切られ玉に戻っていた。そうして、それらをほぐしたりほどいたり、そのようなことをくり返しては、フクロウのような灯とハトのような呼び声をそこから追い払った。
「くっそ」と石橋伊礼はふたたびつぶやいたが、そこで、ほどいた糸の先、そのとおいとおい糸の先に、まさかつながるとは想ってもいなかった、あるひとりの女性のイメージがあることに気付いた。
「え?」と彼は目を細めるとその糸をたぐり寄せた。途中なぜか『山岸』というひとの名前が現われ引っ掛かりそうになったが、それは無視して女性に近付いた。すると、それは確かに彼女だった。レモンや石鹸、それに買い忘れた牛乳のようなイメージの彼女――すくなくとも彼にとっての彼女のイメージはそんなものだったのだが、
「ヤスコ先生?」石橋伊礼はつぶやいた。たしかにその女性は、伊礼の知っているあの貧乏小説家だった。
「どうして?」と彼が彼女に問い掛けようとしたとき、液体となっていたハトとフクロウとオリーブの枝が急にドアのあたりで沸き立ち始め、外へと流れ出しそうになった。部屋はいつしか、彼らの液体であふれ返っていたのだ。
突然、ノートを書く伊礼の手が止まり、今度は別のイメージが彼を襲い覆い尽くした。
そう。それは以前、佐倉八千代が夢で見たあの風景――彼が亡くなった世界の続きで彼女が見た風景――であった。
そう。そこは彼の事務所であり、そこに彼の死体はあった。流れ出した大量の血とともに。
そう。これは確かに、自分の死体で間違いないだろう。と石橋伊礼は考えた。そうして、
『これは一体、誰の記憶なのだろう?』続けて彼は考えた。『誰の未来の記憶なのだろう?』八千代さん? ヤスコ先生? 彼の意識と記憶は窓の外へと移動した。
そこでは、窓の外では、見慣れた街の景色と景色が折り重なってぶつかり合って、大小無数の《壁》が現れていた。街の人々はその《壁》の向こうへ、ある者は吸い込まれ、ある者は吐き出されていた。重なり繋がり浸食し合う光のパレード。街は、世界は、恐ろしいほどの光に包まれていた。
そう。そうしてそこで彼(あるいは彼女)、石橋伊礼(あるいは佐倉八千代)は、以前別の記憶で見たそのひとを見付けた。光の乱舞の中心で。彼(あるいは彼女)は想った。その誰かの記憶の中で(一緒に? 同時に?)――「ああ、間に合わなかったのね」と。
何故なら、その人物の首もとでは、ちいさな碧い首飾りが、つよい光を放っていたから。
そう。それはまるで、碧い水のような惑星のような、しかし傷ひとつ気泡ひとつない、それこそ神話の英雄こそが持たされるような、そうしてその恋人との繋がりを象徴するような、そんなカットガラスの首飾りだった。彼は叫んだ。これも、その誰かの記憶の中で――「山岸さん!」と。
(続く)




