その10
プルルルルルル、
プルルルルルル、
プルルルルルルルル――カチャ。
「あ、もしもし、石橋さんですか? わたし、樫山ヤスコで――」
『お電話ありがとうございます。こちらは、石橋伊礼行政書士事務所でございます。せっかくのお電話恐縮でございますが、あいにく本日は臨時休業とさせて頂いております。まことに恐れ入りますが、明日以降、改めておかけ直し頂きますようお願い申し上げます。お電話、ありがとうございました。…………お電話ありがとうございます。こちらは、石橋伊礼行政書士事務所でござ――』
プツっ。
とここまで聞いて樫山ヤスコは電話を切った。小首を傾げ、手もとのスマホのメッセージボックスとラインアプリを続けて確認する。が、一時間ほど前に送ったメールに返信はなく、その前送ったラインには既読すら付いていない。まじめを絵に描いてネクタイを締めさせたような石橋伊礼にしてはどうにも奇妙であるが――?
「バカンス?」
と、彼と彼の恋人の仲睦まじい2ショット写真を想い描きながらふたたびヤスコは小首を傾げたが――結局あのふたり、ハネムーンにも行ってないのよね――、それでも相手はあの伊礼、困った顧客のためならば、自身の結婚式すら遅刻するあの石橋伊礼である――だからこそ重雄さんも、最初っからハネムーンは諦めていたワケだもんね。
「うん?」
と、みたびヤスコは小首を傾げると、不意に、妙な、なんとも言えない、彼女の足もとだけでちいさな地震が起きたような、そんな、世界がすこしズレかけたような、そんな、奇妙な不安に襲われることになった。
「え?」
彼女は続けた。あたりを見まわし、部屋には、家には、彼女以外誰もいないこと、台所の流しには、先ほど小紫かおるに出したお茶とお菓子のお皿が、洗われもせずに放置されていること――そんな細々としたことを確認した。
「あ、そっか」
と彼女の頭は想った。今日の仕事は残っているし、さっきのお皿も洗わなければ、と。しかし、
「え? でも」
と、彼女のこころと身体はそうは想わなかった。左手中指の爪を噛み、亜麻色のサマーコートを羽織った。靴を履き、玄関のカギを締めながら、
「――くん」
と不安に駆られ、あるひとの名前を呼んだ。よく知っているはずなのに、ほとんど知らないあのひとの名を。もちろん彼女は、自分が彼女の名前を呼んだことすら気付いていないのだけれども。
「――くん」
彼女はくり返した。無意識に。外はまだまだ明るく、とおくの何処かで、ちいさな男の子がその友だちを呼んでいる声が聞こえたが、あまりに青いその空に、樫山ヤスコは、言い知れぬ怖れと不安を感じてもいた。
「――くん」
彼女は歩き出した。よく知っているはずなのにほとんど知らない恋人の名を、自分にも聞こえない声でつぶやきながら。まるでそれが、なにかのお守りにでもなるかのように。まるでそれが、終わり掛けている世界に向かって発すべき、なにかの祈りであるかのように。
*
さて。
実際のところ、我々の住むこの世界はほとんど終わり掛けている。まあ、厳密に言えば、我々の住むこの地球は、という意味だけれど。
が、まあ、それでもとにかく。この世界はほとんど終わり掛けている。それも、例のホモ・サピエンスとかいう愚かなサルの末裔どもが、歴史だとかいう破産するまで終わらないゲームを始めてしまったがために。
土地は荒らされ、大気は汚され、資源は喰らい尽くされながら。植物は枯らされ、動物も減らされ、なんなら奴らは、同じホモ属の仲間たちをも根絶やしにしてしまっ――あ、いや、同じサピエンス種同士でも殺し合いをしているんだったが、まあ、いいか。
なにはともあれ、彼らの乱痴気騒ぎは続いており、結果、この世界、この地球って世界は、奴ら以外の生命にとって大変住みにくい場所へと変化させられ、させられ続けているし、なんなら奴らは、この地球って惑星を、10回前後メチャクチャに出来得るだけの武器を造り、保有し、それを破棄する方法すら忘れたかそもそも考えていなかったりする――え? なんだって? 「“奴ら以外の生命にとって”という表現は微妙では?」?
うん? あー、そう、たしかにそれはそうだったな。
この世界にとって、特にホモサピ連中にとって、とても大変重要で、しかもとてつもなく大きな問題のひとつというのは、それは、この世界に住むほとんどすべてのホモサピが、大抵いつでも不幸せ、ということであった。
ほんと正直、こんな世界にした当事者連中が何言ってやがんだと想わないこともないが、それでも、この世界に住むホモサピの多くは、大変こころがせまく、日々劣等感に打ちのめされてはうち震え、他人を攻撃しては自分を痛めつけ、世を呪い、他者をにくみ、生まれたことを後悔しては、生まれて来る前に後悔しておくよう子どもたちに諭したりした。奴らは問う。天の神さまだかお天気の女神さまだかに向かって、
「いったい、そもそもの過ちはなんだったんですか?」
答えは様々だった。リンゴを手にしたからだとか、変な男から炎を貰ったからだとか、木から降りさえしなければとか、いや、あそこで海から這い上がったのがまずかったのではないか、とか――まあ色々。どうやら神さまの間でも統一した見解は出せないようだった。
そう。なのであるとき、こころ優しきどこかの誰かはこう言った。
「あのさ、たまにはさ、お隣さんにもやさしくしてもいいんじゃない?」と。
が、しかし、こんな男の戯れ言なんかが彼らホモサピの心に届こうハズもなく、この男はほどなくして高い木の上にくぎ付けにされるワケだし、それから二千年ほどが過ぎたある晴れた朝の木曜日、アジアの東の外れのすみっこにあるとある小さな島国の、とある小さな喫茶店では、ひとりの少女がこう考えることにもなった。
「ひょっとして、あのひとが言おうとしていたのって、こういうことなんじゃない?」と。
彼女の考えはほぼほぼ八割正解で、彼女のこの考えを、この世界のせめて10%ほどの人が理解出来たとしたのなら、この世界ももう少しは生きるに値する素晴らしい世界になっていたのかも知れないのだが、そもそも彼らホモサピに、特にそのオスどもに、まともな人語を解す能力など望むべくもなく、そんな彼女が、そんな素敵な考えを、そんな他の誰かに伝えようとしたところで彼女は、ここに書くのもはばかられるような、大変不幸な目に見舞われることになった。彼女は想った。
「もう、こんな世界、一秒たりとも生きていたくない」
そうして彼女は、現世の無常に見切りを付けると、来世の幸を夢見つつ、走って来たトラックに飛び込んだり、ビルの屋上から飛び降りたり、大量の薬物を飲んではベッドにダイブしたりするわけなのだが、どうしてここで、私が、彼女の死に様を記すに際し、こんな複数の例を出したのかと言えば、それはもちろん、この“彼女”がひとりではなかったからである。
そう。それは例えば、このアジアの東の外れのすみっこにあるとある小さな島国なら、毎年だいたい二万数千人ほどの老若男女が、この世とやらに嘆息しては絶望し、自ら命を絶っていたりするわけだし、そのうちの数~数十%の人々は来世なるものを本気で信じ、願い、望んで、「あっち」に行こうとして来たからだし、いまも実際そうしているということを示してもいる。彼らは言う。くり返し、くり返し、くり返し。
「もう、こんな世界、一秒たりとも生きていたくない」
なんともはや、まったく驚くほどに恐ろしく、且つ、無意味で救いようのないお話のように聞こえるが、実は、これら自殺者、と言うか、その後実際に「あっち」へ行ってしまった者たち――と言うか、彼ら彼女らの魂が、引き起こしている、引き起こそうとしている災厄の恐ろしさ、救いようのなさと言うのは、実は全然、こんなレベルのものではない。いや、分かる。分かるよ。かく言うわたしも、こんな世界、とっとと辞めちまいたいなって想っているし。「あっち」へ行ってしまった、行きたいと想わざるを得なかった人たちの気持ちってヤツもね、分かるよ、分かる。大体はね。
でもね、それでもね、実はね、このお話ってのはね、そんな不幸な彼ら彼女らの、恐ろしくも無意味なある晴れた朝の木曜日のお話――なんかではなく、これからきっと来るであろう、きっと到来するであろう、さらに恐ろしく、さらに無意味で、さらに救いようのない出来事と、その無意味で恐ろしく且つ救いようのない出来事を、どうにかこうにか、抑え込もうとした人たちの、努力と希望と奮闘と、その後の結末についてのお話なんですよね、実際のところはね。
そう。だから、もし、これを読まれている方々の中に、例えばまるでわたしのように、さっさと「あっち」へ行ってしまいたいなあ、と少しでも想っているひとがいたのなら、そいつはもうちょい待って頂いて、せめて、彼らの努力と希望と奮闘と、その後の結末を見届けてから、また考えて頂ければなあ――と、そんなことを想う次第なのであります。ほんと、頼むからさ。そうして――、
そう。そうして、それは例えば、いままさに孤軍奮闘しているあの行政書士さんもきっと、私と同じように感じ、考えていると想うから。
(続く)




