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その6


 さて。


「ヤスコ? さん?」と山岸まひろが橋を、境界線を渡り始めたころ、樫山ヤスコはなんだかやたらとドタバタしていた。ドタバタして、わちゃわちゃしていた。自宅の浴室とリビングと書斎の間を行ったり来たりしながら。


 ドタバタドタバタ、

 わちゃわちゃわちゃわちゃ、

 ドタバタドタバタ――スッテン、


「うぉおおっと!」と、だっさいグレーの部屋着姿でスッテンコロリンしそうになるのを、どうにかこうにか踏ん張りながら、「やっばい、やっばい、あー、もー、なに着ようー」


 と、言うことで。


 どうして彼女が、こんなにもテンヤワンヤワンダーのアタフタアタフタアフタースクールしているのかと言うと、さかのぼること二十分ほど前、すっぴんメガネ&髪ぼさぼさモードで今日の仕事の段取り(締め切りオーバーの短編とちょっとした書評の準備)を考えていた彼女のもとに、


 ピロン。と、


『よければ、これからお伺いしてもよろしいですか?』というメールが、小紫かおるから届いていたからであった。『実は駅には、すでに着いておりまして――』云々。


 うん。


 たしかにふたりは昨日電話で、ヤスコの父の遺品がらみで、今日の午後遅くに会う約束をしていた。いたのだが、どうやらかおるの予定が変わったらしく、


『ぜひ、午前中にお会いしたいのですが』と時間の変更を求めて来たのであった。『もちろん、ヤスコさんのご都合次第ですが――』云々。


 うん。


 たしかにヤスコは、年末調整と確定申告の時期以外はお気楽・ご気楽な時間フリーの自営業者、専業の物書きであり、趣味も仕事も生活も、ほぼほぼこの家の中で完結出来る半引きこもり社会人である。であるので、


「そりゃーまあ、ご都合は付けられますよ、ご都合は付けられますけれども」


 こう見えても彼女も一応女性である。いくら男性に興味がないとは言っても、完全ノーメイク&髪ぼさぼさ&だっさい部屋着&取っ散らかったリビングで殿方をお迎えするワケにはいかない。ヤスコにだってプライドはある。


『実はいま、ウェブ会議の真っ最中でございまして』と、そんな経験皆無のくせにウソを吐くと、『一時間後くらいなら、ご対応出来ますが』とか云々、書いてメールを送信し、いまのドタバタへと繋がるのであった。であったが、


「うん?」とここでヤスコは手を止める。眉根のそり残しを気にしつつ、「ちょっとうれしくなっちゃってる? わたし」と。


     *


 さて。


 とそれからほどなくして小紫かおるは、樫山家のすぐ近く、ゆるい坂の下、あと数メートルも上ればあの家のしろい壁とうすい緑の屋根が見えるところにまで来ていた。なのでそのため、ここで彼は足を止めると、


「うーん?」とひと声つぶやいてから、ヤスコからの返信メールを再度確認。ついでに時間も確認しつつ、「ま、あの人も女だしな」苦笑してから方向転換、「すこし遅れて行きますか」と、すこし遠回りをして行くことにした。


「こらー! ちゃんとカバーにはいれッ!」


 と、近所の中学から体育教師の怒鳴る声が聞こえかおるは、


 くふ。


 とひとつ、困ったような嬉しいような、そんな忍び笑いをひとつした。そうして、そんな忍び笑いをしてしまった自分にひとりハッとすると、今度はどうにか、その忍び笑いを噛み殺そうとしたのだが、


「わぁっはっはっはっはっは! そうだ! それでいいんだ!」


 と、先ほどの教師のバカ笑いが続けて聞こえ、そのため彼は、どうせいまここに遠慮する相手もいないことに気付いたのだろうか、


 くふ。


 ともうひとつ、困ったような嬉しいような、そんな忍び笑いを、ひとり漏らしてみた――「報告書が確かなら」


 報告書が確かなら、あの“お嬢さん”は男に興味がなく、そのためもちろん、彼女の過去の恋人たちも、みな女性であったワケで、だから、自分と彼女がどうこうなるなんてことはまずあり得ないワケだが――「って、ちょっと待て待て」


 ちょっと待て待て、小紫かおる。あの“お嬢さん”は、あくまで調査対象のひとりであって、上から言われて近付いただけ。必要な情報が得られればそれでおさらばバイバイバイ。二度と会うこともなければ、会うこと自体も上から止められるだろう――「って、だから待て待て待て待て、小紫かおる」


 いいか? そもそも俺は、あーゆー、ひょろっとしたタイプは好みじゃないし、顔だって、まあ、けっして不器量とは言わないまでも、それでもなんだか、アニメ映画のムーランみたいな顔してやがるし、まあ先ず俺が彼女を女として見ることは――、


「ない……」とここでかおるは立ち止まる。首をかたむけ腕を組み、「……よなあ?」


 が、それでもなにか、こころと言うか記憶と言うかの片すみに、なにか引っ掛かりのようなものを感じるのもたしかなのだが――なんだ?


「なんだ? この変な感じは?」が、ここで彼の記憶、こころ、思考回路のようなものはストップされる。と言うのも、


「あのー、すみません」とひとりの男性――だよな? やたらと小ぎれいな顔してやがるが――が、彼に声を掛けて来たからである。「この辺に、“樫山”さんというお宅は?」


 例の境界線、石神井川に架かる橋の上から、あったかも知れない時間と記憶、それに自身の直感だけを頼りに、ここまでやって来た、山岸まひろであった。


     *


「樫山?」ほんの少しの間があって、小紫かおるはそう訊き返していた。


 この少しの間は、気まずい。とまではいかないまでも、かおるの本性が外に出てしまうような、そんな奇妙な間であった。であったので彼は、


「あー、いえ、」とすぐにそれを訂正しようとしたのだが、それでもまだ言葉にとげがあるように感じたのだろうか、「聞いたことありませんねえ、そんなおうち」と、とげを急いで隠して続けた。どうしてそんなとげが混じってしまったのかも分からず、気も回らないまま。「住所は? この辺で合っていますか?」


「あ、いえ」相手は応えた。少年みたいな声だな、とかおるは想った。「景色を頼りに来たもので、住所までは」


「景色?」かおるは応えた。鼻で笑いそうになったが、それも隠して、「下の名前は? 樫山? 誰さんですか?」


「あ……」と相手は口をひらき、すこし戸惑い、すこし考えてから、それでも、「ヤスコさん?」と言って答えた。何故だかすこし、顔を赤らめて、「あ、そう、ヤスコさん。ヤスコさんです。樫山ヤスコさ――」すると、


 プツ。


 とここで突然、かおるの中でなにかが途切れた。いや、つながったのかも知れないが、目の前の相手・山岸まひろのその顔に、男とも女とも少年とも少女とも区別が付かないその顔に、とてもうつくしく整ったその顔に。いや、それ以上に、それ以前の、彼女の雰囲気、彼女の持っている記憶のようなものに対して、それがなにかも分からないままに、


「樫山? ヤスコさん?」かおるはあごに右手をやった。すこしく考えるふりをしてから、言葉に“ちから”を乗せた。「いやあ、そんな名前のひとは聞いたこともありませんねえ」


 ひょっとすると組織の資料で見た顔かも知れないが……いや、想い当たる範囲では見た記憶はない。


「その方が? どうかされましたか?」かおるは続けた。もちろんこれにも“ちから”を乗せて、「その方と、どんなご関係で?」


「関係?」ふたたびまひろは戸惑った。カフェで一度会っただけの彼女との関係?「あ、いえ、それは……」と言い掛けて更に戸惑った。「はっきりとは……、想い出せないのですが……」それでもなにか、彼女との間には何か関係があったはずなのだが――、


「ふむ」とかおるは応えた。引き続きあごに手を当て、言葉に“ちから”を乗せながら、「すると、あまりご存知ない女性のお宅を探されている?」


 彼の言葉は柔らかかったが、それでもまひろに、彼が彼女を不審がっているように、気付かせ、想わせ、実際自身が不審者であるかのように想い込ませるような働きをしていた。かおるは続ける――「それは、」


「それは、あまり、聞き捨てならないと言いますか――」いまでは右手はあごから離れ、左手とともに彼の腰のあたりに当てられていた。「強盗? 待ち伏せ? ストーカー? の類いのように……、聞こえなくもないですよねえ?」


 みたびまひろは戸惑った。「え? いえ、僕は――」道を訊いただけだったのに、想いも掛けぬ方向に話が転がって――あ、いや、ちがう。たしかに自分の行いは、他人から見ればそういう風に見えるのかも知れな――あ、いや、これもちがう。「別に、僕は、そんなつもりで彼女を――」


「ふむ」かおるは続けた。まひろの言葉をさえぎるように。さらに言葉に“ちから”を乗せて、「あなた、お名前は?」ここまでむきになっている自分を、何故だか不思議に想いながら、「お住まいは? この辺りですか?」


「え?」まひろは絶句した。「あ、いや……、その……」まるで自分が本物の犯罪者になってしまったかのように――あ、いや、でも、これも……、「山岸……、まひろ……」


 これも違う。


 と、そうして彼女はやっと気付いた。あまりに不用意に自身の名前を告げたところで、


「住んでいるのは……、駅前の……」と、もう少しで、自宅の住所を伝えてしまいそうになったところで、

「あ、いえ、なんでもありません」そう言って逃げ出して行く途中で、


「なんだ? あのひとは? あのひとの言葉は?」と。


 彼女の戸惑いの一番の原因。それは、ヤスコとの関係が結局よく分からないことでも、自分が犯罪者扱いされそうになっていることでもなく、彼・小紫かおるの言葉そのものであった。何故なら、それは彼女に、その言葉通りに感じ、考え、想い、その言葉に素直に応じるよう彼女に請求し、要求し、実行させようとしているかのようだったから。


「ふん」去っていくまひろのうしろ姿を見ながらかおるは鼻を鳴らした。「山岸? まひろ?」――やはり聞いたことのない名前だが、探りだけは入れておくか?


「よーし! そこまで!」


 とここで、例の体育教師が大きく叫んで、小紫かおるは我に返った。


「あ、くそ」そうつぶやいて時計を見、「やれやれ」と言って樫山家の方を向いた。


 少々やり過ぎたかも知れない。とかおるは想った。あの女のことになるとむきになる自分がいるな、と。


「やれやれ」ふたたびつぶやき首のあたりをカリコリ掻いた。地面に、なにか一枚、白いものが落ちていることに気付いた。さっきの山岸なんとかが落として行ったものだろうか?


「石橋?」こちらも、聞いたことのない行政書士の名刺だった。「大通りの方か?」


 住所を確認し、そのまま破り捨てようかとも想ったが、これも何故だか、自分でも分からぬまま、スーツの胸ポケットへと押し込むことにした。



(続く)

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