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その5



 ジリリリリリリ、

 ジリリリリ、

 ジリリリリリリリ、



 と、とおくの何処かで古くさい電話機の音が聴こえ、祝部ひかりは目を覚ました――と一瞬彼女は想ったが、それはまったくの勘違いだった。何故なら彼女は、未だ夢とベッドの間から抜け出せずにいたからだし、



 ジリリリリ、

 ジリリリリリリリ、

 ジリリリリリリ、



 と、なり続けるベルの音も、古くさい電話機のものではなく、枕もとに置いたスマートフォン、10分前に切ったはずの目覚ましの音だったからである。


「だれよ、こんなの考え出したのは」と夢とベッドの間で彼女は見も知らぬ誰か、このスヌーズ機能ってヤツを考え付いた誰かを恨んでいた。「絶対からだに悪いわよ、これ」


 が、それでも、おかげで彼女は目を覚ました。一瞬めまいを感じたが、それでも、窓の向こうに見えるきれいなひかり、うすい雲のかかった彼女の太陽、それに一階から聞こえる母親の歌声、そんなようなものに、ここがいつもの現実で、ここがいつもの平日の朝だということを直ぐに実感することが出来た。昨夜の夢――きっと悲しい夢だったんだと想う――は、とおく記憶の後景へと消え去り、代わりに、「ひかりちゃーん!」と叫んだ清水朱央の顔が、彼女の記憶にあたたかく広がって行くのが分かった。くすっ。となんだか、妙な忍び笑いが漏れた。「やっぱり僕――」結局あいつは、なにが言いたかったんだろう?



 『お鍋はフフフフ、

  お釜はララララ、

  まな板ーはチャンチャチャン。』



 母親は絶好調だった。包丁片手に歌をうたってリズムを取って、ひかりの顔を認めるなり、


「あらー、お嬢さま。今日も可愛らしいわね、ス・テ・キ・よ♡」みたいなことを言っては、


「ほらー、あ・な・たっ。あなたも早く下りてらっしゃーい」と、二階にいる夫・優太にも声を掛ける。「い・と・し・の♡ 奥さまの作る朝ごはんが冷めちゃうわよー」


 だが、こんなにテンションの高い彼女・守希を見られるのは、ひかりはもちろん優太にとっても大変めずらしいことである。であるので当然、


「どうしたんだ? あれは」と優太はひかりに訊くことになる。一階に下りて来るなり小声で、「……今日ってなにかの記念日とかじゃないよな?」


 もちろん今日は、普通にただただ、いつもと変わらぬ普通の平日なのであって、ひかりもひかりで、

「さあ?」とただただ、空気が漏れるように応えるだけであった。「なんなんだろね」



 『みんなで、ララララ~。

  わたしが、タッタラッタ~。

  いそいで……、

  いそいで……、

  でも味わって、パッパラッパ~。』



「なあ、おい、守希。いったい何があった?」とうとう優太は訊いた。このままだと味噌汁を吹き出しそうだったし、「今日はお前の誕生日でも、ひかりの誕生日でも、ましてや俺たちふたりの結婚記念日でもない」彼は過去に、一度大失態を犯したことがあるからだ。「ひょっとして俺……またなにか忘れてるか?」


「え? あー、もう、全っ然、そんなんじゃないわよ」守希は応えた。一瞬ひかりの方を見て、「なーんでもないの。ちょおっと気分がいいだけよ」そうして彼女の手に触れて、「ねーえ、ひ・か・り・ちゃん♡」と意味深げにほほ笑んで。



 『タッタラッタ、朝ごはん。

  パッパラッパ、つくった。

  ゆーっくり……、

  ラーラララ……、

  でも遅刻は、しないでね~♪』



「じゃあ、まあ、行って来るけどな」改めて優太は訊いた。「ほんっとーに、なんにもないんだよな?」と。一昨年の結婚記念日の修羅場を想い出しながら。


「ほんとにほんと、なんにもないわよ」守希は応えた。優太のほっぺにキスをしてから、「ほらほら早く行ってらっしゃい、遅れるわよ」



 『みんなで、ララララ~。

  わたしが、タッタラッタ~。

  いそいで……、

  いそいで……、

  でも味わって、食べてね~♪』



「ねえねえ、ひかり!」そうしていよいよ守希は訊いた。優太がいなくなったのを確認してから、「あなたッ! 朱央くんとはどんな感じなのッ?!」と。


「え?」ひかりは固まった。靴下のために上げた左足もそのままに。「どど、どど、どどどど、どっどー」と、しっかりちゃんと動揺しつつ、「どんなってなにが?」


「“どーしたのー?”」守希は叫んだ。娘の声を完コピしつつ、「“なにか忘れものー?”」それから今度は、朱央の声マネも、


「“ひかりちゃーん!”」と当社比120%くらいのイケメンボイスで、「“やっぱり僕――”」とやってぴょんぴょん飛び跳ね、「あなたッ! このあとッ!! なんて言われたのよッ!!!」


 とまるで自分ごとかのように。そうしてまるで、17才の女の子に戻ったかのように。そうして更には、本当に彼女も、清水朱央の次の言葉を聴きとれて――いや、そこの部分の時間がまったく抜け落ちているかのように。


 そうして――、


     *


「石橋……伊礼?」とこちらの女性も、ある部分の時間、というか記憶がいくつか抜け落ちている様子だった。「“お告げ行政書士”?」


 いま彼女は――山岸まひろは、自宅マンションまでの帰り道をひとり歩きながら、カトリーヌ・ド・猪熊から貰った一枚の名刺を見返していた。


「それじゃあぼくは、先生たちと話があるから、また後でね」と例の赤毛男は言っていたが、それがどれくらいの“後で”なのかや、彼と猪熊先生との関係、もっと言うと、何故この名刺を自分に渡したのかについて、彼はもちろん、猪熊先生もなんだか言葉を濁している感じだった。だったのだが、


「会えるときになったら会えるし、分かるときになったら分かるよ」と男は言った。「重要なのは、居るべき時に、居るべき場所に居ることさ」と余計にこちらを混乱させつつ、ふっと口がすべったのだろうか、「そしたら、会うべきひとにもまた会えるからさ」


「え?」とまひろは訊き返していた。最後の言葉に何故かつまずき、「“また”?」


「おっと」すると男は口をふさいだ。が、「これはまだ、“ネタバレ禁止”だった」


「ねえねえ」とそこに例の悪魔的女性が割って入った。「別にばらしてもいいんじゃない? この子しっかりしてそうだしさ」


 どうやらこちらの女性も、赤毛や猪熊先生同様、まひろについてなにやら知っている様子なのだが、


「おい、こら、ミア」と連れの男性はもちろん、「変なこと喋るんじゃないぞ」


「そうよ、ミアさん」と猪熊先生も彼女を止めに入った。「黙ってるって約束でしょ?」


「でっもさー、なーんかイライラしちゃってー」女性は言い、


「それでも約束は約束だろうが」男性は応えた。


「悪魔の私に口約束なんか無意味よ、契約書起こさなくちゃ」


「だったらまた書いてやるから、いまは黙れよ」


「えー、でもさー」


「ミスターさんの計画にはお前も納得してたじゃないか」


「でもでもー、本人見ちゃうとさー、はやく会わせてあげたいって想うじゃない――ねえねえ、まひろ君さー」


「あ、おい! こら、ミア!」


「あなた絶対おぼえていると想うんだけど、ヤ――」


 ハッ。


 とここで突然、まひろの記憶と時間は途切れ抜け漏れ、彼女はひとり、自宅マンションまでの道を歩いているシーンへとひき戻された。片手に一枚、カトリーヌ・ド・猪熊から貰った名刺を持って。


「石橋……伊礼?」と、先ほどと同じ言葉をくり返した。そう言えば、猪熊先生のマンションからここまで、どうやって来たのだろう?


 え?


 そうしてまひろは立ち止まった。ふたたび。うすい雲のかかった太陽の下、境界線の――あ、いや、石神井川に掛かる橋の上で。


 あれ?


 それからまひろはふり返った。今度もふたたび。星の下、路の上、あかるい朝の景色の中、そこに、誰にも見えない玄色の境界線が見えていた。「……ここって?」


「それじゃあ、もう黙るけどさ」どこかであの、悪魔の声がした。「だけどさ、これだけは言わせて」いや、これは抜け漏れていた彼女の時間だ――あのね、まひろ君。「私さ、ハッピーエンドが大好きなのね、悪魔なんだけどさ」――だからね、絶対ね、「だからね、絶対ね、想い出してあげてよね、あの子たちのこと」


 あれ?


 そうしてまひろはおどろいた。こちらもふたたび。何故だか胸を高鳴らせ、「樫山?」と。数日前カフェで出会った女性と、ここの風景が何故だか重なりあっ――そうだ。


「そうだ」彼女はつぶやいた。境界線の方へと歩き出しながら、「ここには前にも、なんどか来たことがあるぞ」ちいさな、一軒の、しろい壁とうすい緑の屋根をした古びた家を想い出しながら、「ヤスコ? さん?」



(続く)

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