その3
世界中の多くの人々がそうであるように山岸富士夫もまた、今日もきっと、世界中の奴らがグルになって自分を痛めつけてくるのでは? というそんな不安を抱えながら朝を迎えていた。ベッド脇の時計を見、枕に深く顔を埋め、
「ちくしょう! こっちはまだなんの準備も出来てないんだぞ!」
と叫びたくなる気持ちをどうにか抑えると、ずるずるずるずる。ベッドから這い出し、浴室へと向かった。
「どうせ、いずれにせよ、不意打ちのようなこの朝と、情け容赦のないこの一日は、始まっては終わり、終わっては始まり続けるのだ」
と、目覚め切っていない頭で、自分でも理解し切っていない考えに囚われながら彼は、ヒゲを剃り、シャワーを浴び、シャツを着て、ネクタイを締めると、そのまま今度は、台所へと向かって行った。
「あら、おはよう」妻の美紀が、菜箸片手に彼に声を掛けた。「今日もステキよ、あなた」
もちろん彼女のこの言葉は、「ちゃんと起きれてえらいわね」あるいは「私の事を褒め称えなさい(先に起きて朝食作ってるのよ)」くらいの意味なので、それに応えて富士夫も、
「君こそ今日は一段とキレイだよ」と彼女の肩を軽く抱いては、「なあ、一緒にもうひと眠りしないか?」と言って彼女の匂いを確かめた。
が、もちろん彼のこの言葉も、半分冗談、半分日々のルーティンワークのようなものであって、互いにそれは十分過ぎるほど十分に分かっていたので――いずれにせよ我々は、この不意打ちのような朝と情け容赦ない一日を乗り越えなければならないのだ――先ずは美紀が、
「だーめ」と調理の手を止め、彼に向き合い、そのごつごつとした頬にかるくキスをしてから、「今日もお仕事、お忙しいんでしょ?」と言って、彼の両手を、こちらもかるく、握ってやった。すると続いて富士夫は、
ふーん。と、ため息とも気合とも諦めとも言い切れない変な音を出してから、「“時間と忍耐、忍耐と時間。時間と忍耐、忍耐と時間。”だな」そう続けて自分のひたいを彼女のひたいに押し当てた。もちろん優しく、「――結局、俺の人生は」
そうして夫婦は、しばらく無言で、時を止めつつ互いの存在を確認し合っていたのだが、
「そうね」と言う美紀の言葉に時はふたたび動き出した。「きっとそうなのよ、あなた」と、この情け容赦ない一日というやつに戻りながら、「ほら、ニノとマコトを起こして来て。ごはんよそっちゃうから」すると富士夫は、
うむ。と今度は、希望とも気合とも諦めとも言い切れないが、それでも目を開け前を向くための変な音を出すと、彼らの愛すべき悪ガキどものため、その台所を出て行った。彼の両手を握った美紀の手が、日に日に細く、弱くなっていることには、敢えて気付かぬふりをして。あの女と結婚して本当によかったと、そんな気持ちも、そっと心にしまうことにして。
*
「おーい。行って来るよー」
「はーい。気を付けてねー」
それから富士夫は家を出た。小学生と幼稚園の子どもをどうにか起こし、朝食を食べ、歯を磨き、ネクタイを締め直してから、さわやか、とは到底言い切れないが、それでも少し軽い気持ちと、家族を守らねばならないといういつもの使命感を持って。いつもの道を、いつもの会社へ、いつもと同じ速度でもって、いつもの角を曲がったところで、彼はひとりの女性とぶつかった。なんだか地味な、ひょろっとした感じの女性と。そう。問題は、パン屋の前の犬だった。
彼は大きく、黒く、耳をピンと立てていた。この近所ではまだ見掛けたことのない、グレートデンだかドーベルマンだかの合いの子のような犬だった。もちろん、彼に悪気はないだろうが、正直、小さな子どもが見たら泣き出してもおかしくはない顔をしていた。いや、小さな子どもだけでなく、そこそこいい年の大人でも、彼を見たらひるむかも知れないし、実際、その女性は、彼のせいでそこのパン屋に入れないでいた。「ひゃっ」とか「ひっ」とか、「ごめーん、もうちょっと入り口から離れてくんないかなあ」とか、およそ大人の女性とは想えない声を上げながら。
彼女は華奢で、ひょろ長く、運動音痴の運動不足だったし、ついでに胸もお尻もぺったんこだったので(って、うるさいわね)、もし犬に襲い掛かれでもしたら、絶対逃げ切れないとの自信があるのだろう、柱に繋がれた犬の首輪や、嬉しそうに振られる彼の尻尾にも気付けない様子であった。
「大丈夫ですか? お嬢さん」と富士夫は彼女に声を掛けた。いつもの彼ならまずしないことだが、それでも何故か、「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ」と優しい声で、問題の柱や鎖や犬の尻尾について説明してやった。「ね? 怯える必要なんかないでしょう?」
「え? あ、はあ……」女性は応えた。「まあ……、たしかに……」が、それでも、怖いものは怖いのか、「そうなんですが……」と貧相な腰をへっぴりさせたままであった。
そのため富士夫は、おかしくて笑い出しそうになるのを必死で堪えると、「おい、こら、ワン公」と今度は犬の気を逸らすことにした。「ほら、こっちだ、こっちへおいで」と。
そうして彼は、犬を出口から離れたところへ移動させると、女性に店の中へ入るよう促がし、それに続いて自身も店へと入って行った。犬の主人らしい小柄な老人に声を掛け、彼なりのユーモアでもっていまの顛末を老人に説明した。
「あーっはっはっはっはっは」と老人はわらい、
「それでは、よろしくお願いしますね」と富士夫は言った。
もし老人が女性より後に店を出ることになったら、老人も女性と一緒に店を出て、犬の気を逸らし、彼女を無事逃がして貰うよう、そう取り決めたのだった。
「あ、ありがとうございます」店を出て行く富士夫に女性は声を掛けたが、
「いえいえいえいえ」と富士夫は手を振り返すだけだった。ふたたび笑い出しそうになるのを、必死で堪えつつ。
それから、しばらく行くと彼は、腕の時計を確認すると、会社には十分間に合うだろう、そう考えてから、
「あーっはっはっはっはっは」と老人の真似をしてわらった。「美紀に話しても、絶対信じないだろうな」と自問し自答し、それでもすこし、「はて?」とも想いながら。「なぜ自分は、こんなことをしてしまったのだろうか?」
たしかに。興味深い女性と出来事ではあったが、それでもやはり、普段の彼からは想像し難い行動でもあった。例えばこれが、彼の好みのタイプとかなら分からないでもないのだが……彼は、女性らしい身体つきの女性がタイプだった…………いったい何故?
「いったい何故?」とここで富士夫は、奇妙な、一度それに気付くと拭い去るのが難しい、ある種の既視感に捉えられそうになった。なったが、しかし、その既視感は直ぐに、彼の考えと記憶からすばやく立ち去ると、その代わりに、「うん?」とある事実を彼に気付かせることになった。
それは、その事実とは、彼女・樫山ヤスコの匂いと云うか印象が、どこか、彼の妹・山岸まひろの記憶や想い出と近く、重なる部分があった、見え隠れした、と何故だか彼に感じさせてしまった――という事実であった。
「うん?」と言って彼は立ち止まった。が、だからと言って、なにかそれに該当する想い出が、いまの彼にあろうはずもなく、そのため彼は、そのまま続いて、「ああ、ちくしょう」と口の中だけでつぶやくことになった。
と言うのも昨晩彼は、祖母の家で、妹・まひろと、なかばケンカ別れのように別れてしまっていたからだし、にも関わらず、と言うか、だからこそと言うか、結局富士夫は今夜、問題の天台烏山との食事会に出席することを決めていたからでもあった。――「あいつにどうやって、説明しよう」
(続く)




