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その2



 『まったく気らくにやってるさ、

  クイーンの消えたトランプで。

  かべの花などかぞえてみたり。

  ひとつ、ふたつ、みっつ……』



 自宅のベッドでネットのラジオを聴きながら佐倉八千代は、ポカンとした顔で天井を見詰めていた。食事も終わり風呂にも入り、大学の課題は……まあ、また明日考えるとして、今夜やる事と言えば、あとは眠りに付くだけだった。


 だったのだが、それでもなんだか頭は冴え、彼女は上手く眠りに付くことが出来ないでいた。きっと、今夜のバイトがあまりに忙しく、身体がいまだに興奮しているからなのだろう――と考え掛けて彼女は、「あ、なんかちがうかも」とそう想った。


 もちろんそれもあるにはあるが、それ以上に、ここ数日見続けている夢、特に今日の昼間に見た夢、世界が終わる直前の夢、その光景が頭から離れないからでもあった。


「うーん?」ポカンな口をキュっと閉じ、「ふんす」と小さく寝返りを打ってから彼女は、枕もとにあるスマートフォンに手を伸ばした。



 『まったく気らくにやってるさ、

  クイーンの消えたトランプで。

  かべの花などかぞえてみたり。

  ひとつ、ふた――』



 ネットのラジオを途中で切って、メールとラインを確認する。ひょっとすると、問題の行政書士・石橋伊礼から何かしら返信が届いていないかと考えたからだ。が、しかしそれも、


「うーん?」とふたたび彼女をうならせることになった。「やーっぱ、届いてないッスねえ」


 彼女はつぶやくと、スマートフォンを元の場所に戻そうとして、頭をぶるぶるぶる。と素早く振った。小さく。今日の昼間に見た風景。世界の終わりの直前。彼・石橋伊礼が大量の血を流していたシーン。それらを想い出しそうになる自分がいたからだった。


「もう、もう、もう、もう」彼女はうつ伏せ、枕に頭を叩き付けた。見えてしまったそのシーンを、頭から消して追い払おうとするかのように――が、しかし、それはこの物語と彼女の能力が許さなかった。


 何故なら彼女の能力は、彼女に彼女が見なくてはならないものを見せ続けるし、この物語はこの物語で――ほんとゴメンね、八千代ちゃん――彼女と彼女のその能力、特に彼女が持つ一番強力な能力を必要としているからだった。


「むーん」彼女はうなった。みたび。顔を枕に押し付けながら、「むーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん」と、長い手足をバタバタさせつつ。そうして、


「あー、もう!」と彼女は叫んだ。「あーもう、あーもう、めんどくさい!」と。


 それから彼女は、ベッドから飛び降りると――正確にはドシン。と尻もちを付いてそこから落ちたのだが、そんな正確さはこの場面では関係がなかった――電気を点け、壁の本棚へと向かった。


「えーっと? たしか小学校のときの――」そうつぶやきながら彼女は、本棚の一番上、古い落書き帳や映画のパンフ、修学旅行の旅のしおりとか、いつか何かに使えるかもと重ねて束ねて押し込めておいた書き物たちの中から、「あ、あった、あった」と一枚の、少し大き目の地図を取り出した。


 それは、小学六年の春、社会科の授業で使って余った、石神井公園を中心としたこの辺りの白地図だった。彼女は想った。ほこりを払い、その地図を開きながら――もしも、


「もしもあの夢が本物なら、どこで何が起こるか、起きたか、実際の街と矛盾なく重なるはずよ」と。


 それから彼女は、机の上のペン立てから赤い細マジックを一本取り上げると、彼女が見た夢の風景、どこで自分が何を見て、どこで何が起きていたのかを整理し始めた。これが実際、なんの、どんな役に立つのかは分からないが、彼女の好きなマンガのキャラの言葉を借りつつ、


「“大丈夫”」そうつぶやきながら、「“まだ、時間はあるよ”」


 そう。


 この物語は本当に、彼女と、彼女の持つ一番強力な能力を――ほんとゴメンね、八千代ちゃん――必要としていた。


 そう。


 そうしてそれは、ただただ、「決して希望を捨てられない」そんな能力であった。そうして――、


     *


 そう。


 そうして、その女性は小柄で、浅黒い肌の、なんだか妙にきれいな声の持ち主だった。


 リュック・ベッソンが撮ったジャンヌ・ダルクのような髪型をしていて――色は見事な玄色だったが――どこか日本人らしくない印象をマリサ・コスタに与えたし、と同時に、そんな彼女の印象は、こんな小柄な女性に天台烏山――問題の実業家兼不動産王――の秘書が務まるのか? と彼女に想わせるものでもあった。


「天台からは、貴女によくするよう言われておりまして」と小柄なジャンヌ・ダルクは言った。「もちろん、貴女の甥のアーサーさんにも」


 ここは、その天台烏山が所有しているビルの一室。中には彼女らふたりだけで、マリサをここまで連れて来た金平瑞人――細身で背の高い烏山の手下――とその新しい相棒は、こちらのジャンヌの、「男たちは出ていなさい」とのセリフで、別室で待たされているところだった。


「さ、どうぞ。お座り下さい」ジャンヌは続けた。部屋の真ん中に置かれた円テーブルを示しながら、「立ち話もなんですし。そうですね、お茶か……それともお酒の方がいいかしら?」


 これに対してマリサは、彼女に促されるまま席に着くと、それでも少し考えてから、「お茶を」とだけ言って答えた。


 部屋は涼しくおだやかで、女性の態度にははっきりと彼女をもてなそうという雰囲気が見て取れた。が、それでもやはり、消えたペトロや義母の下に預けているアーサーの顔が目に浮かび、そうしてもちろん、ここが例の男の所有する建物であることを想い出すと彼女は、とてもではないが、お酒を頼む気にはなれなかった。


「ペトロさんの居場所が分からない。というのはなるほど、納得致しました」しばらくして彼女は言った。小さめのグラスに注いだ蒸留酒をひとくち口に含んでから、「彼の行方については、我々の方でも、全力を懸けて捜しておりますので、見付かり次第、マリサさんにもお報せ致しましょう」


 出されたお茶は上品で、いくつかのベリーやスモモの類を女性の方でブレンドしたものらしかった。飲むとマリサの身体を中から温め、その舌をなめらかにするような感じがしたし、そのため彼女も、ジャンヌ・ダルクの質問に、問われるままに答えていたのだが、


「ところで彼、金平なんですがね」という彼女の言葉にマリサは、急に身体が固まり、口をきゅっと閉じることになった。女性は続けた。「彼と一緒に仕事をしていた男、覚えてないかしら? 猫背で、こう、ちょっとずんぐりした体型のひとなんですけれど」


 もちろんマリサは彼を知っていたし、これが今日、ここに呼ばれた本来の目的かも知れない、そう彼女は想った。なのでそのため、


「ええ、はい」と言って彼女は答える。出来る限り自然な態度となるよう、「私のところにも、金平さんと一緒に何度か来られたことがありますよ、名前は忘れましたけど」


 彼が数人の男とマリサを襲おうとしたこと、その後彼らが不意に消えてしまったこと、彼の口にあった金歯らしきものが、大量の現金や宝石類とともに、いま、マリサのマンションにあること等々が強烈な勢いで脳裏をかすめて行ったが、そんなことには気付かないふりをして、「そう言えば」とマリサは続ける。「そう言えば、今日は来られていませんでしたね」


「なんだか急に、連絡が取れなくなったとかで」黒髪のジャンヌ・ダルクは応えた。「ひょっとして貴女なら、何かお知りじゃないかしら? と少々気になりまして」


「私が?」マリサは応えた。本当に何も知らないふりをして、「さあ、どうしてそんな風に?」


「あ、いえ、別に」彼女も応えた。話が横道に逸れるのを警戒するかのように、「ただ、金平がそんな事を言っていただけで」そうして実際その話題は、彼女にとってはただの横道でしかなかった。「ご存知ないのであれば、ただ、ご存知ない。そう言って頂ければ」


 女性の後ろの壁には、とおい葬礼の列を眺める若い牛飼いの少女と、その横で草を食む白い牝牛の絵が掛けられていた。もちろんマリサに絵の良し悪しは分からないが、それでもその絵はきっと高価なものなのだろう。そう彼女は想った。


「マリサさん?」女性が訊いた。


「え? あ、はい」葬礼の列から意識を戻しながらマリサは応えた。「ええ、はい、存じ上げません。まったく」


 改めて周囲の壁に目をやると、そこには、これらもきっと高価な物なのだろう、いくつもの美しい絵画が掛けられていて、そこはまるで第一級の美術館、その特に優れた展示室を想わせる場所であった。「実は、」と、なかば出し抜けに女性が言い出した。


「実は、マリサさんに会って頂きたい方がおりまして」声音こそ柔らかいが、有無を言わせぬ口調であった。「お引き受け頂けないかしら?」


「私に?」マリサは応えた。あまりに突然の申し出に、その有無を言わせぬ口調に、想わず声が上ずってしまったが、「それは……私の知っている方ですか?」


「ええ、はい」と言い掛けて女性は、小さく首を横に振ると、「あ、いえ」と言って、彼女に彼の写真を見せた。「山岸さん。山岸富士夫さんと言われる方なのですが……、多分、ご存知ありませんよね?」



(続く)

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