その16
さて。
結局のところ、山岸まひろと兄・富士夫との話し合いは、話し合いの体をなす前に、平行線のまま終わった。件の天台なる人物と兄との付き合いについて、彼女の直感は確実に『否』と叫んでいたが、それでも兄は折れようとしなかったし、また、
「富士夫ならその辺、自分で見極められるだろ?」
と祖母・咲子にまで言われてしまっては、家長でもなければ富士夫の仕事の手伝いをしているわけでもないまひろに、これ以上なにかを言う資格も手段もなかった――が、ってあれ?
とここで彼女は立ち止まる。祖母の家からマンションへともどる途中、輝き出した星の下、こちらとあちらの境界線――あ、いや、石神井川に掛かる橋の上で、
「なぜ自分は、彼・天台烏山を、ここまで毛嫌いしているのだろうか?」と。
彼や、彼の会社や、彼の関係者らのよくない噂ならば確かによく聞く。よく聞くが、実際問題、自分やその周囲に彼らの影響があったことはほぼないし、天台烏山本人については、なにかの会合で一度顔を見掛けただけで、直接話したことすらない。ひょっとすると向こうは、父や兄との関係から、その娘あるいは妹として自分を認識しているかも知れないが――あれ?
とここでまひろはふり返る。星の下、路の上、誰も見えない境界線に立って。「……ここって?」
すると、
「あのー、ひょっとして」と、どこかで誰かが彼女に訊いた。「前にどこかで、」とまるで、イルカとガイドと恐ろしくも無意味な木曜日の物語をいったんどこかにしまったかのような口調で、「会ってますっけ? 私たち?」
まひろはおどろき、胸の鼓動の高鳴るのを感じた。「樫山?」と彼女はつぶやいた。カフェで会ったあの女性と、ここの風景が何故だか重なったからだ。が、「ヤスコさ――」
と、彼女がそのことに気付く為には、まだもう少し時間を掛ける必要がある――と、どこかの誰かは想った。そのため、
ドンッ!
と突然、誰かが彼女の背中にぶつかり、彼女の思考・記憶は、そこでぷつり。と途切れることになる。
「うわっ」とまひろは弾かれよろめき、
バサッ。
とそこに、橋の上に、肩掛け鞄に入れておいた紙の束、『多元宇宙と流動体、その熱と情報について』のコピーを落とすことになった。
「ああ、ごめん、ごめん。ケガはないかい?」ぶつかって来た誰かが言った――本来、
「本来、着時場所には人のいない時と場所を選ぶんだけど、どうも最近、この辺りの時空は乱れているというか不安定っていうか、事前スキャンも上手く行かなくて――って、そもそもここどこ? 橋の上? あー、だったら余計に境界線だ。分からなくても仕方ない――って、ぶつかった方が言ってちゃダメだよね」
とかなんとか、よく分かんないことを、その見た目からは想像し難い――彼は赤毛に白い肌の丸顔の少年? 青年? だった――とっても流暢かつ早口な日本語で。
「しかし、実際ここはいつだ?」彼は続けた。右手の人差し指を口に咥え、取り出し、風向きを測るためピンッと立て、「ああ、うん。時間と場所はおおむね間違ってはいないようだな」そうして、靴のかかとで地面を蹴って、「うん。重力も安定しているし、星は輝き、鳥は歌をうたっている」
まひろは少しく戦慄していた。この男性はひょっとして、アレでアレなアレのひとなのではないか? と。
「えーっと?」と彼女はつぶやき彼から離れ、「それは……、よかったですねえ」彼の顔に見覚えがあるような気はしたものの、「じゃ、じゃあ、僕はこれで……」と、先ほど落とした紙の束を拾い上げつつ逃げようとして、
「あっ、なんだ、まひろ君じゃないか」と突然、彼に呼ばれて固まった。「ごめん、ごめん、暗くてよく見えなくてさ」男は続けた。「亜空間酔いもあるんだろうけど、正直、目の焦点もまだはっきりとは――」
すると男は、ここで言葉を切ると、コツコツコツ。と彼女に近付き、ジィ。としばらくそのきれいな顔を覗いてから、
「あれ?」と言って首を傾けた。「ひょっとして、ぼくが誰だか、まだ分からないかい?」
まひろは首を縦に振った。いまにも逃げ出したかったが、下手な感じにほほ笑んで、「ええ、はい、たぶん……」と返すのが精々であった。
「あー、それならそれは」と男は言い掛け、「あ、でも」と、まひろが拾おうとしている紙の束に気が付いた。彼は続ける。
「それって、ヤスコちゃんのお父さんのだよね?」そうして、「だったら、もうすぐだよ。ぼくが必要になるのはさ」
*
「三番さーん、もやしナムルと牛すじ大根出来たよー、持ってってー」
「はーい。あとご新規七番さん、大根サラダと鶏唐揚げお願いしまーす」
「ちがう、ちがう。彼は九州に行ったんだよ。たしか、大分のなんとかってとこ」
「なら、俺が昨日話していたあの人は誰だよ? 同じ苗字だったぜ、あの人」
「それが気になって今日は誘ったのよ。あなたなんだか、とっても怒ってるっていうか、不満をお持ちのように見えたんですもの、私が冥王星の話をしている間中、ずっと」
「でも、だったらどうして彼女、あんなことを言ったのかな?」
「それはお前の自信を失くさせるためさ。女はよくやるんだ。男の自信を喪失させるにはそれが一番よく効くからな――まくらは使ったりしたか?」
公園通りの居酒屋は、酔客と食事客と子連れの団体でごった返していた。左武文雄は、奇跡的にも無傷な身体で、問題の病院と事情聴取から解放されると、「明日でいいですよー、報告書」という小張千秋の有り難いお言葉に感謝をしつつ署へ戻り、拳銃その他を返却してからひとり住まいのアパートへ帰宅しようとしたのだが、「いや、ダメだ、酒がいる」と、スーパーあるいはコンビニで、つまみとビールを買う選択肢もあったのだが、今日あった奇妙な出来事たち――ひとつは例の化け物で、ひとつは例の夢であるが――の余波でもあろうか、いつもなら決してひとりではいることのない、ひといきれでむせ返る、所謂大衆酒場へと立ち寄ることにしたのであった。
「はーい。アジのたたきとキュウリの浅漬け、お待たせしましたー」と愛想のよい女性店員が注文を持って現れ、「あれ? もう飲んじゃったんですか?」と左武に訊いた。「どうします? 次も生中でいいですか?」
「あ、うん、そうだな」左武は応えた。少々ペースが速い気もしたが、「次も、生中でたのむ」
「はーい。カウンター十三番さん。生中お代わりー」
踊るように歌うように厨房へと戻って行く彼女を見ながら左武は、「今日のあれは、ひょっとして夢だったんじゃないか?」と一瞬だが想った。銃弾を止める男? バカバカしい。女の子の声が聞こえた? それもバカバカしい。
『話してくれていいんですよ、私でよければね』不意に、夢に出て来た看護師の声が耳に響いた。『戦争のこと、苦しかったんでしょう?』
左武文雄は首を振った。激しく。ブルブルブルブル。彼女が彼女のはずがなく、ベッドの彼も彼ではなかった。が、しかし、
*
『あるものすべてはうつくしく。
そうして誰も傷つかなかった。』
*
これはいったい、どこで聴いた歌だっただろうか? あの年配の看護師に教えて貰った歌だったろうか?
いやいやいやいや。ふたたび左武は首を振った。激しく。変な妄想ばかりがよみがえる。現実の音、現実の声に耳を傾けなければ。そう。この居酒屋に集う人たちの声のような。
「ことしはもっと、派手な水着にしようと想うの、ダイエットにも成功したし」
「そしたら彼女、コンタクトを落としたって言い出して、目もなんだか痛むって言って」
「今度中国の工場に一週間ほど行くことになったんだがな、この雇った通訳ってのが――」
「おーい。ポテサラ追加しといてくれー」
「すみませーん。灰皿お借り出来ますかー」
うん。そう。これだ。これがいつも聴いている街の、世界の声だ。と、左武文雄は想った。あまりに異常な現場を見たんで、それですこし気持ちや記憶が混乱しているだけさ、と。
「はーい、生中お代わり、お待たせしました」愛想のよい店員が彼に声を掛け、
「あ、ありがとう、早かったね」と左武は返した――ほら見ろ、世間の人たちは皆、いつも通りの日常を過ごしている。
「でもほんとスッキリしたわよね、私も見習わなくちゃ」とか、
「じゃあ、そのロンってひとは、まるっきりあっちの住人になってるってことですか?」とか、
「ほら、見てくれ、うちの甥っ子。かわいいだろ? 幼稚園でもモテモテらしくてさ」とか、
『バッカねー、こいつ。自分の彼氏が私に夢中だってことも知らないで』とか、
…………うん?
「それで私も、※※さんみたいになりたくて、今の仕事についたんですけど」
「若い女性と知り合って、とってもいい子なんだが、**にあんな事を言われてしまうとな」
「灰皿お待たせしましたー、あ、空いてるお皿お下げしますねー」
『なにが最高の関係だ。女同士でなんて、まったく汚らわしい』
………………いま、なにか変な声が?
『しっかし長いな、このおっさん。話が。あんたの武勇伝なんか誰も聞きたくないってのに』
『あんなゴミをふくらませたような本読んで、なにを喜んでんのかね、バカな女だ』
『あー、もう、疲れた。あー、もう、疲れた。あー、もう、帰りたい。帰りたい。帰りたい』
え?……いや、たしかにこれは――、
『分かってねえなあ、結局あいつは飛ばされたんだよ。次はお前さ』
『うん。これなら浮気ってバレないわね』
『怒ってるわよ、怒ってるに決まってるでしょ? なによこいつ、ほんと今すぐ死ねばいいのに』
たしかにこれは……と左武文雄は想った。たしかにこれは、例の少女、パウラ・スティーブンスの声を聴いたときと同じ現象だ、と。人々の声――多分こころの声、頭で考えているその言葉――が、自分の耳に届いているのである、と。
『ま、お前のあれじゃあ、**は満足しないだろうがな』とか、
『なにが成功よ。トドみたいなからだして』とか、
『それはあんたが、キモがられてただけよ』とか、
『いっそのこと、こいつの飛行機、落ちてくんねえかな?』とか、
『やっぱいいケツしてんなあ、こいつ。いちどやらせてくんねえかな』とか、
『あ、ネコにエサやるの忘れてた』とか、まあ、色々。
彼が意識を集中、あるいはそれらを聴くまいとすればするほど、実際の声は現実の背景へと後退して行き、人々のこころ、頭で考えている言葉は増え続け、勢いを増し、いまやこの居酒屋全体を覆い尽くすかのようであった。
ぶるぶるぶるぶるぶる。
みたび、左武文雄は首を振った。それらの声を払いのけようとした。が、それらの声の勢いは止まることを知らなかった。
ガヤガヤ、
ガヤガヤガヤ、
ガヤガヤ、
ガヤガヤガヤ、
ガヤガヤガヤガヤ、
ガヤガヤガヤ、
ガヤガヤガヤガヤ、
ガヤガヤガヤ、
ガヤガヤガヤガヤ、ガヤガヤガヤガヤ、
ガヤガヤガヤガヤ、ガヤガヤガヤガヤ、
ガヤガヤガヤガヤ、ガヤガヤガヤガヤ、
ガヤガヤガヤガヤ、ガヤガヤガヤガヤ、
ガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤ、ガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤ、
ガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤ、ガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤ、
ガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤ、ガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤ、
ガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤ、ガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤ、
ガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤガヤ――ガタッ!
左武文雄は立ち上がり、目を閉じ、耳をふさいだ。このままでは気が触れてしまう。このままでは、気が触れてしまう。この、ままでは、気が、触れてしまう。この店から出なければ。この、ひといきれから、離れなければ。と彼は想い、そこから飛び出そうとした。したのだが、そこに、
「あのー」と彼に声をかける者があった。こころの声や頭の中の言葉ではなく、実際の人の声で、「お隣り、よろしいですかあ?」
え?
と左武は目を開け、ふり向いた。するとそこには、若い、とてもきれいな脚の女が立っていた。
「なんか今日、お店激こみですよねー」女性は言った。返事を待たずに席に着き、「あ、すみませーん。生ひとつ下さーい」と愛想のよい女性店員に注文をし、「どしたんですか? ぼーっと突っ立って」と左武に座るよう促した。
「え? あ、そう。そうですね」左武は応えた。とても不思議な、腑に落ちない顔をして、「あのー」と言い掛け、
「はい? なんですか?」と返され、
「あ、いえ、」と言って口淀み、「なんでもありません」そう続けてビールを飲んだ。
先ほどまでの喧騒、周囲の人のこころの声が、この女性の登場によって、不意に、まったく、突然、聴こえなくなっていたからである。
(続く)




