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その11

 さて。


 木花エマの叔母であり、街の小さな喫茶店、青い扉の『シグナレス』の現オーナーでもある逢坂美里は、絵描きであり、それも信じられないほどに売れない絵描きであった。


 あ、いや、絵そのものの出来はよく、例えば『シグナレス』に飾られたそれらの絵を見て、


「ほぉ」とか、


「あら」とか、


「ステキね、この絵」とか、


 事情を知らないお客さんのハートをしっかりきっちり、だけれどほっこりつかむこともしばしばあるにはあったのだが、それでもそれを売るためには、引っつかまえて引きずり込んで、相手にきっちり、


「買わなければ!」


 という強迫観念を植え付けなければいけないワケなのだが、しかし、この美里の絵というのがなんと言うか、こう、若いころは個展なんかも開いていたそうなのだけれど――、


     *


「うん。この絵描きさん、なかなかいい絵を描くじゃあないか。あたしゃ好きだね、この人の絵」


「しかし社長。資産価値という意味では、この絵描きの絵にはまったく、ぜんぜん、これっぽっちも、価値はないそうです」


「え? そうなの? 将来的にも?」


「はい。将来性という意味におきましても、まあまずゼロ……ということらしいです」


「はー、それじゃあ買ってもしょうがないかね、この絵。お金にならないんじゃあ」


「ええ、もう、それは、ほとんどの評家も同じようなことを言っております」


     *


 みたいな? 売れる絵、売り物として流通するような絵とは対極にあるようなものばかりだそうで――いや、私も好きは好きなんですけどね――いまでも彼女は、絵を描き続けてはいるものの、そちらはあくまで趣味の趣味、日々の生計は、この『シグナレス』――亡き夫が遺してくれたこの想い出の喫茶店――を経営することで成り立たせているそうなのであります。彼女は言います。


「夫が愛した店を、私が守り抜くの!」


 となんだか、昭和の朝の連続テレビ小説みたいな感じに。なのですが――、


     *


「つ、つ、つ、つっかれたー」


 と、先ほど書いたお客さまラッシュもどうにか乗り越え、このお店のアルバイター、看板娘の佐倉八千代と、厨房係の木花エマ(腐女子)が、休憩室の机にたおれ、へたり込んでいる横で、売れない絵描き兼喫茶店オーナーの逢坂美里は、ほくほく顔でその日の売り上げを計算しているところでありましたが、


「すっごいじゃない! ふたりとも!」と美里さん。いまにも小躍りしそうな感じに叫びます。「まさに飛ぶように売れるってはこのことね、今期一番の売り上げよ!」すると、


「はぁ……」と青息吐息に八千代は応え、


「ってか売れ過ぎよ、叔母さん」とエマも続けます。疲労困憊ここに極まれりと言った感じで、「あんなに材料仕入れて、絶対あまると想ったんだけどなあ……」新メニューでよくあんな冒険出来たわね、と。


「あ、うん、まあね」と美里。この問いには応えずに、「ねーねー、八千代ちゃん?」とこちらの看板娘に訊く。


「なんですか?」と八千代は応え、


「エマに八千代ちゃんにも試食してもらうよう言っておいたんだけど、どうだった? 新メニュー」と彼女の方に身を乗り出す美里。


「え? あー、まあ、すっごく美味しかったですけど……」


「お客さんにたっくさん食べて貰いたいって想った?」


「え? あー、それは……、まあ……、そうですよね」


「ねー♡」


「……はい?」


     *


 と、どうもこちらの美里さん、絵描きとしてはまったく売れなかったものの、飲食店オーナーとしての嗅覚はやたらと鋭かったようで、


「八千代ちゃんって、お客さん呼び込む誘蛾灯みたいなところあるわよね」


 と、もともと皿洗い役として雇った彼女をウェイトレスに抜擢したり、


「もうちょっと八千代ちゃん好みの味にした方がいいわよね」


 と、もちろん八千代の能力のことなど何も知らない彼女だけれど、それでも、八千代の気分やお気に入りがお客さんを呼び込む“ナニカ”に繋がることに気付き、それに合わせてレシピを変えたり、食材の仕入れ先を変更したり、店内BGMのプレイリストを彼女に選ばせたりといった、はたから見るとよく分からないが、それでも、お店の売り上げを伸ばすための貴重な素材・判断材料として八千代を重宝しているようであった。彼女は言います。


「この調子で、もっと、もっと、もーっと、お金――もとい。お客さまを増やして行きましょうね♡」


 と、最低賃金ギリギリの姪と看板娘に向かって。すると、こちらの若いふたりも、


「おー、」とか、


「取り敢えず、今日が終わってよかったわ」とか、


 つかれた頭と身体では、資本主義のなんたるかもよく分からないまま、帰り支度を始めることになりますが、ここでエマが、想い出したように、


「そういやヤッチ、石橋さんは?」と八千代に訊ねます。「忙し過ぎてずっと忘れてたけど、返信来たの? 」


「あー、すっかり忘れてた」と八千代。スマホを確認するが、「……って、来てないわね」


「なんだろ? お仕事お忙しいのかな?」


「うーん。行政書士さんだし、季節によってはすっごく忙しくなるとは言ってたけど……」


「どうする? ヤッチの夢の件?」


「ねー、一番気になるのは、やっぱ石橋さんの部分なんだけどさあ、さすがにメールやラインで訊ける話じゃないし……」


「他にも気になる場面はあるの?」


「うん。どこから整理していいか分からないくらい」


「うーん? そしたら先ずはさあ、ヤッチの見た夢を整理して、見れるところから見に行って、その後、タイミングを見て会いに行くってのはどう? 石橋さんには」


「うーん?」とここで八千代。なんだかそれでも、気になる部分もあるにはあるが、それでもなんだか、資本主義のなんたるかも考えられないほど疲れていたのも事実は事実なので、この日はこのまま、「そうだね」とだけ答えて終わってしまうのでありました。「まずはふたりで始めよっか、調査」


     *


『キャーッ』


 と、声にならない叫びが、左武文雄の耳とこころに届き、彼は走り出していた。


「え?」突然走り出した彼の背中に向かって、「左武さん?」と小張千秋は声を掛けた。「ど、どうしたんです? いきなり?」


「聴こえました!」左武は答えた。小張の方はふり返らず、「あの子です!」自分でも信じられなかったが、たしかに、「あの時と同じあの子の声です! 助けを求めています!」


「は?」小張は戸惑い、しかし直ぐに事態を把握した。「ば、場所は?」と続け、彼の後を追った。「場所は分かりますか?」煽ったのは自分だが、まさか本当に、しかもこんなに簡単に、左武のテレパシー能力を見られるとは想っていなかった。


「詳しい場所まではちょっと!」左武は答えた。「それでも! あの子の声と、“あいつ”の悪意みたいなものは感じます!」


「“あいつ”?!」続けて小張は訊いた。


「壁の遺体を作った“あいつ”!」続けて左武も答えた。「あの子の家族を殺した“あいつ”!」腋下のホルスターを確認し、「アレを見た時と同じ感じを受けました!」それを小張にも確認させた。「署長! 銃は?!」


「え?」ふたたび小張は動揺し、同時に事態を把握すると、「あ、はい」と肩に掛けたトートバック(親子グマのイラスト入り)に手を入れながら、「い、一応、持ってます、はい」が、「ひ、必要? でしょうか?」


「署長も!」左武は答えた。出来れば彼女に撃たせたくはないが、「彼らの死体は見たでしょう?!」そうして――、


     *


 そうしてそのころ山岸まひろは、ダブルクリップで留めた紙の束を前にひとり悩んでいた。シャワーを浴び、汗臭かった服もようやく着替え、靴下を履こうかどうか……というところで悩んでいた。というのも、


『多元宇宙と流動体、その熱と情報について』


 ネットの海からすくい上げた、この論文ともエッセイとも散文詩ともつかぬ書き物について、印刷をし、クリップで留め、改めて何度か読み返してみたのだが、それでもこれが、一体なにを言わんとしている書き物なのか、彼女にはよく分からなかったからであるし、また、にも関わらず、そこにはナニカ、自分が知っておくべきナニカが書かれてあるように想われて仕方がなかったからでもある。と言うかもっと言うと、その冒頭に書かれた、まるで小説めいた文章の登場人物が、彼の祖母、花盛りの家に住む彼女の祖母によく似た印象を彼女に与えたからでもあった。そうしてそのため、


「いや、でも、それだけで?」と山岸まひろは悩んでいた。これにも、「こんな話をおばあちゃんに?」と。


 たまたま彼女によく似た印象を持つ女性がこの書き物に登場したということだけで、祖母に話を聴きに行く? どうしてそんなアイディアが浮かんだのかは彼女にも分からなかった。分からなかったがそれでも、続けて彼女はこうつぶやく。


「樫山?」と、この書き物の作者の名前と、「昭仁?」それから、「そう言えば、あの人も……」と、先日カフェで相席になった女性の顔を想い出しながら。何故だが胸が苦しく、顔は赤くなった。


「いやいやいやいや」目をつぶって頭を振った。「偶然だよ、偶然」電話なりラインなりを訊いておけばよかった。「でも……」


 山岸の家の祖母の人脈は広く、多岐にわたっており、と同時にかなり意味不明でもあった。でもあったので、まあ先ずないとは想うが、


「ひょっとして祖母と、この樫山昭仁なる人物は知り合いなのかも知れない」と彼女は想い、それに続ける形で、「ひょっとして祖母なら、彼女のことも知っているかも知れない」とまひろは想った。こちらもそんなご都合主義は、まあ先ずあり得ないとは想いつつ、それでも。


「うん」と手にした靴下を履き、「それでもひょっとして」と祖母の家へと電話を掛けながら、「万が一ってことも……」と淡い黄色の期待みたいなものをも一緒に覚えながら。そうして、


 ジリリリリリリリリ。

 ジリリリリリリリリ。


 と何度か電話のなる音がし、


 カチャ。


『はい? もしもし?』と祖母ではなく、祖母の家の居候がそれに出た。『どうかされましたか? まひろさま?』



(続く)

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