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その9

「おばあちゃん!」


 幼いアーサー・ウォーカーはそう叫ぶと、うれしそうに階段を上って行った。一段飛ばしで、背中のバッグを揺らしながら。細くうす暗い階段の上に彼の祖母――正確には彼の伯父の母親――の姿を見つけたからである。


「おーおー、よく来たね、アーサー、ひさしぶりじゃないかい」


 伯父の母親は答えた。彼女の足もとに飛び込んで来たアーサー・ウォーカーを抱きしめながら、その肩と背中をなでながら、「ごめんね、元気だったかい」


 彼女の名前は、パトリシア・カタリーナ・コスタ。アーサー・ウォーカーの伯父、つまりは現在失踪中のペトロ・コスタの母であり、アーサーと直接の血のつながりはないが、それでも、ペトロとマリサの間に子どもが出来なかったことや、彼の境遇に深く共感したことなどもあって、彼女は彼を本当の孫のように想い、またそう接してくれていた。


「さあさあ、はいって。お菓子でも食べるかい?」


 彼女は現在、大きな公園の南側にある古いアパートで暮らしている。小柄な、肌の白い女性と共に。ボストンからずっと一緒だった夫は、とうの昔に亡くなっていた。


「アリスなら今日はいないよ」


 扉の前で彼女は言った。うしろに立つ息子の嫁、マリサ・コスタの様子をすこしおかしく感じたからだ。だがこれは、彼女と彼女の息子が疎遠……というか、ある種の緊張状態に長くあり、それがマリサと彼女の関係にも少なくない影響を与えていた部分が大きかった。


 と言うのも、彼らの緊張状態の理由――それはあまりに多く、且つ細かく奇妙に入り組んでいて、当の本人たちにもはっきりしなくなっているくらいなのだが、それでも――そのひとつには、ペトロとマリサの間に子どもが出来なかったことが挙げられるからだし、挙げられるからだと、三人が三人ともそう勝手に想い込んでいたからである。


「すみません。気を遣わせてしまって」マリサは応えると、


「え? ちがうちがう」と言ってパトリシアはわらった。「もともと、出かける用事があったんだよ、あの子は」


 アーサーたちを部屋に上げ、リビングで作り置きのお菓子やお茶を出しながらパトリシア・コスタは、先ほど感じたマリサの“すこしおかしい”が、いつもとはまたちがうタイプの“すこしおかしい”であることに気付いた。自分や社会や夫への不満・気遣いというよりは、彼女が彼女自身、あるいは彼女も知らない何者かの影に怯えているような感じだったからである。もちろん、夫が突然蒸発し、お店の方でもなにかゴタゴタがあるようだから、“すこしおかしい”感じになるのも当たり前と言えば当たり前だが――、


「ペトロだよね?」彼女は訊いた。アーサーを隣の部屋へ行かせてから、「残念ながら連絡はないよ、そっちは?」


 マリサは首をふって応えた。「こころ当たりを探してはいますが……」


「そうかい」パトリシアは続けた。彼女が知ってるこころ当たりをいくつかマリサに伝えたが、それらは既に、彼女が確認を取ったところばかりであった。


「すまないね」彼女は言った。マリサの手を取りながら、「ほんと、ごめんね」彼女に子どもが出来ないと分かったときに言ってしまったひどい言葉を想い出しながら、「私に出来ることなら、なんでもするからさ」


 彼女の言葉に嘘はなく、マリサは涙を流しそうになった。が、ここで、


『ほだされてんじゃないわよ、このバカ』と、彼女の中の“すこしおかしい”が彼女にささやいた。『ぶっ殺してやりたいって想ってたじゃない。ずっと、このババアのこと。なんなら私がやってあげようか? いま、ここで』


 マリサはハッとすると背を伸ばし、からまりかけた義母の手をほどいた。


「あ、ありがとうございます」マリサは言った。その“すこしおかしい”を意識の奥へと追いやりながら、「じ、実は――」


 実は、彼女が今日ここへ来たのは、ペトロの情報を探るとともに、一時アーサーを義母の下で泊めて貰えないか? と相談するためでもあった。「もちろん私も、朝と夕には顔を出しますから」


「え? それはもちろん構わないけれど……」義母は答えた。様子の変わったマリサの“すこしおかしい”に改めて戸惑いながら、「あんたは? ひとりで大丈夫かい?」


「ええ、はい、実は家がひどいありさまで」マリサは言った。「色々やることもたまっていますし」ここで預かっていただけた方が、私もアーサーも気楽ですし、「それに――」


 それに、『“ひとり”ってワケでもないもんね』という“すこしおかしい”の言葉は、彼女と一緒に意識の奥へと追いやった。こんなこと、義母には到底話せないだろうから。


     *


 本庁からの電話は、入院中のパウラ・スティーブンスに関するものだった。


 クローゼットの奥から――家族が殺されたその家のクローゼットの奥から――救け出されたとき彼女は、もちろんそれは怯え切っていたけれど、それでもそこに目に見えるような外傷はなかった。


「ええ、はい、それはよかったです、高嶺さん」小張千秋は応えた。電話向こうの女性に向かって、「それで? 話の方は?」


『ちょっと、かなり、難しいですね』電話向こうの女性は答えた。『こちらの病院でカウンセラーの先生に話を聞いて貰おうともしましたが』父母と弟を突然奪われたショックはやはり大きく、『彼女なりに何かしら伝えようとしても、身体がそれを拒絶する感じなんだそうです』と。


「なるほど?」とつぶやくと小張は、しばし沈黙していたが、


『小張さん?』と呼びかける相手の声で我に返った。


「あ、すみません。なんでもないです」


 そうしてふたりは、二つ三つの事務的なやり取りのあと、そのまま電話を切った。


「うーん?」と小張はうなった。置かれた受話器の丸いところを眺めながら。仮にパウラの話を聞けたとしても、それは随分、先の話になりそうである。「うーーーーーん?」


 前にも書いた通り、このパウラ・スティーブンスという少女は、一連の殺人事件の――【SQ】ないし【GA】と呼ばれる犯人あるいは犯人グループが引き起こしたとされるいくつもの惨劇の――現在唯一の生存者であり、且つ、その特異な殺人方法以外、手掛かりらしい手掛かりを残していない犯人に近付くための、こちらも現在唯一の手掛かりであった。そのため、彼女の話を聞くことは、それほど重要なことなのだけれど――、「九才の女の子ですからね」と小張はつぶやく。


 家族を失くしたばかりの九才の女の子に、彼女の身体がそれを拒否しているにも関わらず、当時の状況を語らせるのは、やってやれないことはないだろうが、流石の小張でも、それがあまりに残酷なことであることは分かった。


「うーん?」とふたたび小張はうなった。署長室の天井を見上げると、蛍光灯がひとつ、チカチカとぶらつき始めているのが見えた。が、ここで彼女は突然、


「ひょっとして左武さんって――」


 と、先ほど自問しかけた問いを想い出した。電話の件で腰を折られ――それにそもそも、あまりに突拍子もない問いだったし――自答を控えていたあの問いであるが、それでも、今回のパウラの隠れていた場所や状況、それに小張の部下・左武文雄の言葉を正面から信じるとするならば、次のような仮説は成り立っても仕方なく、また成り立たざるを得ない――と彼女は考えてしまった。突拍子もない事件になら何度も会ったし。彼女はつぶやいた――ひょっとして左武さんって、


「ひょっとして左武さんって、他人のこころの声が聞こえるんじゃないですか?」



(続く)

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