その12
「それであなたがジュリエット?」母が娘に訊いた。洗い終えた皿を彼女に渡しながら、「付き人Aから大出世じゃない」
「決まったわけじゃないけどね」娘・祝部ひかりは応えた。皿を受け取り拭きながら、「他にも数人、石田先生が声かけて、内海くんがどうにもならなかったら改めて考える感じ」
「そんなにひどいの?」母親・祝部守希は訊いた。
「冗談でやってんのかと想ったくらい」
「顔はいいのに残念ね、野球も出来るのに」
「かすみちゃんなんか大変よ、あきらかに怒っちゃって。内海くんの前でロミオのセリフ言い出したり」
「あ、それで?」とここで守希。やっと合点がいったのか、お皿を洗う手を止めて、「ロミオじゃなくてジュリエットの代役を考えることになったわけね」
「そうそう」とひかり。次のお皿を催促しつつ、「他の男子はかすみちゃんのセリフで及び腰になっちゃったし、なにより石田先生が乗っちゃって」
「そんなにきまってたの? かすみちゃん」
「これがねー」とひかり。かすみとのわだかまりも一瞬わすれ、「かっこいいんですよ、奥さま、彼女。まわりの女の子たちもポーッとしちゃって」
「たしかに。王子さまの方が似合うかもね、あの子。背もちょっと高いし」
「本人はジュリエット役をやりたいんだろうけど、それでも、釣り合うロミオがいないんじゃあね――って感じ?」
「いいじゃない、いいじゃない。あの子ロミオであなたジュリエットなら最高よ。きっと似合うわよ」
「えー、でもあれ、キスシーンとかあるのよ?」
「それこそいいじゃない。宝塚みたいで。そしたらわたし、最前列で見るわよ、スマホ持って、録画して」
「あ、だめだめ、やっぱり断ろう」
「なんでよー、お母さん見てみたいなあ、ひかりちゃんとかすみちゃんのキス。お父さんもきっとよろこぶわよ」
「え? うわ? え? やだ、気持ち悪い。それこそやっぱ断るわ」
「えー、なんでよー」
「うん。決めた。やっぱ断わる。断わるからね、このことはお父さんには内緒よ」
「えー、でもさー」と、ここで更に守希が続けようとしたとき、
カチャッ。
と玄関扉の開く音がし、「おーい、いま帰ったぞー」と叫ぶ主人・祝部優太の声が続いた。
「あ、ほら、うわさをすればよ」守希は言うと、最後のお皿をひかりに渡してから、「おかえりなさーい、あなたー、あのねー、ひかりがねー」と優太のもとへと走って行った。
「あ、ちょ、ちょっと、お母さん?」とひかり。それでもお皿を拭きながら、「ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、絶対」と彼女の後を追うのであった。「断るんだから、お父さんには言わないでよ」
*
「なあ、おい、ひかり」それからしばらくして、祝部優太は声をかけた。仕事用のスマートフォンをなにやら触りながら、「さっきのお母さんの話、ジュリエットの件」
「あー、もー、最悪ー」ひかりは応えた。ソファに座る優太の前にひざを突きつつ、「言わないでって言ったことに限って言っちゃうんだから、あのひと」
「うん?」祝部優太は訊き返した。スマホの画面を閉じながら、「なんだ、おまえはイヤなのか?」
「イヤって言うか、なんて言うか」とひかり。
彼女はお風呂から上がったばかりで、そのきれいな明るい髪は、まだ乾き切ってはいない様子だった。なので優太は、
「ああ、おい、こら」ひと声上げると、彼女の肩にかかっていたタオルを奪い取り、「もっときちんと拭かないと」と彼女の髪を拭き始めた。彼女を預かってからこっち、何度くり返したか分からない、彼女が幼かったころとまったく同じ動作で、「風邪でも引かれたら大変だ」
「むーん?」ひかりはうなった。アヒルのように口をとがらせ、それでも父に髪を拭かれ、すこし機嫌を直しながら。
「なんでそんなにイヤなんだ?」ふたたび優太は訊いた。親バカなのは分かっているが、「似合うと想うぞ、お前がいちばん」
「レンちゃんに、オウセさん」ひかりは応えた。「キレイな子ならいっぱいいるし、みっちゃんなんかはもーっとかわいいし」
「それでもお前がいちばんさ」優太はくり返した。いま名前が出た子たちをひとりとして知らないが、それでも、「それにロミオはあの子なんだろ?」と、かすみのことを悪く言っていたことも忘れ、「あの子とお前のからみなら、ちょっと見てみたいかもな、父さん」と言って笑った。が、これは、
「え? うわ、え? やだ、最悪」と言うひかりに距離を置かれる結果になった。「やめてよ、そういうの。友だちの前とかでは絶対言わないでよ」
「え?」と優太。タオルのやり場に困りつつ、「しかし、さっき、母さんが――」
「女同士はいいのよ」とひかり。父からタオルを奪い取ると、「だけど、男の人にそういう風に見られるのはいや、たとえお父さんでもね」
「はあ?」と優太。どうも話が見えてこない。「うん? それはつまり、それで嫌がってるってことなのか?」
「うーーーーーん?」ひかりはうなった。ふたたび。ゴシゴシ髪を拭きながら、「うーーーーーーーーーん?」とふたたび、口をアヒルのようにとがらせて――さて。
ここで一応、念のための補足をしておくと、彼女がいま、どうしてそんなにジュリエット役を嫌がっているのか? その理由を示しておくと、それは、そもそも彼女の性格が役者向きではなかったことに加え、出来れば、小道具や衣装係に集中したかったこともあるにはあるが、それよりなにより、先名かすみが、彼女の元・親友が、ジュリエット役を熱望しているように――少なくとも彼女には――見えていたからである。
であるがもちろん、この時のひかりに、そこまではっきり自身の気持ちを整理出来ていたワケもないし、また、仮にそれが出来ていたとしても、それは父に話すには、少々微妙なトピックでもあっただろう――彼女との友情がどうなるか、どうしたいか、男の人にはきっと分かって貰えないだろうから――彼女は続ける。
「とーにーかーくっ」そう、とにかく。こんな会話はさっさと終わらせてしまおう。「イヤなものはイヤだし、衣装や小道具の方が向いてるの、私は」と。
「はあ、」優太は言った。娘の晴れ舞台を見たい気持ちはあるものの、「でも、もう少し考えてみても――」という言葉は、つぶやきかけてそのまま止めた。「そうだな。お前がやりたいようにやるのが、一番だろうな」と、理解ある父親役を演じながら――と、さて。
ここでも一応の補足をしておくと、このとき優太は、先名かすみのロミオ役は、既に決まった決定事項だとばかり想っていたし、先ほど彼がつぶやいた、「でも、もう少し考えてみても――」という言葉は、彼の意に反し、ひかりの耳へと届き、実際にその後の彼女の判断に影響を与えることにもなった。そう。そうしてそれが、今後起こるひとつの悲劇の一因ともなるのだが…………、あ、いや、うん、これはもう少し、お話が進んでから語ることにしよう――優太は訊いた。
「あ、おい、ひかり」と。リビングを出て行く娘に向かって、「もう寝るのか?」
ひかりは応えた。「あ、うん」と、それでもすこし考えて、「宿題やって、本とか読んで、それから寝るわ」
「そうか」優太は言った。先ほど閉じたスマホの画面を、改めて開きながら。「それじゃあ、おやすみ。ゆっくりな」
「うん」ひかりは応えた。それでもすこしほほ笑んで、「お父さんもね、おやすみなさい」
(続く)




