その17
そう。
そうして、季節は動き始めた。
動き始めて、動き始めて、動き始めて、佐倉八千代はまどろみから目を覚ますことになった。
左の手に、誰かの温もりを感じた。もちろんそれは、あのひとの温もりではなかったけれど。
それでももちろん、それは彼女のことを想ってくれる誰かの温もりでもあった。
部屋はさむいほどだった。
だからあんな夢を見たのかも知れない。
きっとお母さんがエアコンの設定を間違えたのね。
今年もきっと、梅雨らしい梅雨もないまま、夏が訪れる。
「エマちゃん」ささやくように彼女は言った。
友人は眠っていた。彼女のかたわらで。毛布もかけずに。
「起きて、風邪ひいちゃうわよ」八千代は続けた。ベッドの上に起き上がりながら、「ごめんね」
なぜだか勝手に、涙がながれた。
「ごめんね、心配かけて」もちろんそれには気付かないまま。
「ヤッチ?」木花エマも目を覚ました。
彼女も、八千代と同じ夢を見ていた。
そのため、「大丈夫?」なんて言葉を彼女にかけることは出来なかった。
彼女の目からあふれる涙に気付いていたが、それを拭いてやることも出来なかった。
ただただ、「ねえ」と自身の顔を指差し、彼女にそれを伝えるのが精いっぱいであった。
そう。
それから彼らは、あまりの寒さにエアコンの設定を直すと、互いに夢で見た内容を確認し合った。
すれ違いは、ほとんどなかった。
詳しい原理は不明だが、これも八千代の共感覚的知覚のなせる業なのであろうし、あるいは手をつなぎあっていたことが、あるいは森永久美子の遺した意思が、この奇妙な現象を引き起こしたのかも知れなかった。
と言うかそもそも、そんな難しいことがこの作者に分かるはずもなかった――『愛の力』でいいんじゃない? 知らないけど、と。
「止めなきゃね」エマが言った。
「止めなきゃね」八千代は応えた。「“あいつ”はこれからも、誰かを殺して、彼らを盗み続けるんだから」と。
そうして――?
*
そう。そうして彼女はつぶやいた。
「うん」とちいさく。「大体、こんなもんよね」と。目の前のノートを見返しながら。
ノートには、彼女特有の右肩上がりの、けして上手とは言えない文字で、人々の名前が、場合によってはそのおおよその所在地とともに書き込まれていた。
「結局書いても、これがなんだか分からなかったけど」それはこれから確かめていけばいいし、机の隅のココアには、分厚い膜が出来ていた。
「うん」と彼女・樫山ヤスコはくり返した。窓の外の暗闇――いや、町はそろそろ動き出そうとしていた――未明の空間に目をやり腕と背筋を伸ばした。
ぽきっ。
という肩と背中の鳴る音を聞いてから彼女は、ノートの、問題の『リスト』の、一番上の人物……の連絡先は不明だから……ひい、ふう、みい、よぉ……六番目にある人物に連絡……を取るにはまだまだ時間が早すぎるので、取り上げかけていたスマートフォンは机に戻し、ノートにペンをはさんで閉じた。最初の連絡は明日、というか、今日起きてからにしよう。
「うん」そうつぶやくと彼女は、そのまま、机の横のベッドにぽすっと痩せぎすの身体を放り出した。「ちょっとだけ……、おやすみなさい」と。
『おやすみなさい。ヤスコ先生』どこからか、年老いた女性の声が聞こえた。
(続く)
『こころの窓を覗いてごらん。
そこにはもっと別の物語が、
あったかも知れないだろう?』
『そんな世界見たことないよ、
あなたはそう言うだろうか。
だけどあなたが見たすべて、
それらもいつか消えていく。』
『そう。だから目覚めるんだ。
まどろみに救世主はいない。
さあ。あの扉の向こう側へ。
夏はいまこそが花のさかり。
暖炉のそばにいて?
そんな顔はやめて?
そんな言葉では動けないよ。』
『彼女は待っていてくれる。
ふたりが並んで歩くには、
あまりに時が過ぎたけど、
あまりに遠く過ぎたけど、
だからお願いだ、ペギー。
どうか僕ら想い出だけは、
どうか怒りに変えないで欲しい。』




