その13
テーブルの上に硬貨が三つ。十円玉と五円玉と五百――、
「あ、いや、五百円玉はやめておこう」
そう桑山敏夫はつぶやくと、改めて財布の中を探り、緑青の付いた古い百円硬貨を取り出した。五百円玉を財布に戻した。
「ちょっと、重いんだよ」照れくさそうに彼はわらった。「失敗したら、かっこ悪いからね」
この夜、どうして彼が、見ず知らずの青年をひとり暮らしのマンションに上げたのか、その理由は不明である。であるがひょっとすると、仲違い中の甥っ子ふたりに関係修復の兆しが見えたせいかも知れないし、電車で席を譲った夫人に必要以上に感謝されたせいかも知れないし、また、若しくは、この青年に自分と同じ匂い? 雰囲気? 重力の歪み? を感じたからかも知れなかった。――まあ、先ず、樫山昭仁がこの青年のようにここに直接来ていたとしても、桑山敏夫は門前払いを食らわせていたであろう。彼は続けた。
「見ていてくれよ」と、テーブルに向けた左手をゆっくり、それから素早く、スッと前へと動かしながら。直後、
ブォ。
と、彼とテーブル――テーブルに置かれた三枚の硬貨――の間の空間が歪み、たわみ、そこで生じた位相のずれ、音、あるいは光の塊が、
チッ、
ヂッ、
ヅッ、
と順に三枚の硬貨をテーブルの外へと弾き飛ばした。最後に飛ばされた百円硬貨がもっとも勢いがよく、寝室――かつての夫婦の寝室――の扉に当たり、そこに落ちては転がった。
「すごい」想わず青年は声を上げた。「どうやったんですか?」
「さあ?」肩をすくめながら、だけれど嬉しそうに桑山敏夫は返した。「自分でもよく分からないんだよ」と赤いワインをひと口すすった。「他人に見せたのは、君が初めてだしね」
その日の酒量はとうにオーバーしていたし、青年はまったくの下戸ということだったが、それでも、テーブルの上には開けたばかりのワインが置かれていた。想わぬ新規の客が嬉しかったのか、それともしらふではとても用件に応えられないとでも想ったのか、彼は続けた。
「こんなことも出来るよ」と、子ども時代の甥っ子たちに語りかけるような口調で、「ちょっと、集中力が必要なんだがね」
とそうして彼は、今度はグラスの上面一杯にまで酒を注ぐと、左右の手をその横に置き、そのまままるで、バスケットボールほどのしゃぼん玉がそこにあるような形を取ると、そのまま、ゆっくりとそれ――架空のしゃぼん玉――を、上へ上へと持ち上げて行った。
「すごい」ふたたび青年は声をあげた。「どうやってるんですか?」
が、流石の桑山敏夫も今度は、無言のままなにも返さなかった。集中力にも限界があるからである。彼は立ち上がり、それに合わせて彼の両手も、更に上へとあがって行った。
「すごい」とみたび声をあげようとして青年は、途中でそれをやめた。
何故ならいま、桑山敏夫の手の間には、球形の固まりとなった赤いワインが、プルプルプルと震えながら宙に浮かんでいたからだし、そんな奇跡を起こしている彼のまわりには、うすい光の膜、重力の歪みのようなものが見えたからでもあるし、そうしてなにより、
『さあ……』とどこからか声が、『やれるぞ……』と青年本人にそっくりな声が、『いまなら……』と彼に囁きかけて来たからである。『……盗め』と。
*
ハイボールを三杯半ほど空けたころ、ポケットのスマートフォンが鳴った。着信音からメールだと分かった。しかもあのクソオヤジからの――あのバカ、女なんかかばいやがって――あいつを殴った右手がまだ痛かった。
バーのカウンターには、彼の他に太って真っ白な肌のサラリーマンが座っていた。あちらはスコッチにレモンジュースを入れたなんとかってカクテルを飲みながらポテトチップをかじっていた。
「出ないのかい?」太ったサラリーマンが訊いた。
「あ?」彼は応えた。無視してもよかったが、「仕事のメールだよ」きっとアルコールと痛みのせいだろう、「こいつを飲み終わったら掛け直すさ」そう続けてため息を吐いた。
「大変そうだね」太っちょは続けた。「よかったら、話でも聞こうか?」
「あ?」彼は応えた。今度は舌打ち混じりに、「別に大変なことなんてねえよ」
太って真っ白なサラリーマンの顔は赤く、悪夢に出て来るイルカみたいな顔をしていた。メガネとしゃべり方は、古いマンガの少年探偵みたいだった。
「なあ、おい、クソ野郎」
彼、小紫かおるは続けた。一瞬、男漁りに来たクソ野郎かとも想ったが、こちらを見る目付きからこのクソ野郎がただ寂しいだけのクソ野郎だってことがよく分かったから。
「おまえは頭がよさそうな顔をしてるし、おまえ自身自分のことを――ああ、いい、隠すな、いい加減自覚しろ、クソ野郎――おまえ自身自分のことを頭がいいと想って周囲を見下している。だろう? 当たってたらテーブルを二回叩け。ちがってたら公園のトイレで首でもくくって死ね」
太っちょなサラリーマンは、一瞬なにがなんだか分からなくなった顔をしていたが、それでもすぐに「あ、」となると、
コン、コン。
と遠慮深げにテーブルを叩いた。かおるは続けた。
「よし。そしたら、頭はいいが、その性格のせいで絶望的に頭が悪くなっているクソ野郎に質問だ」残っていたハイボールをひと息に飲み干した。「例えば、仕事も上司も新しい同僚も、どいつもこいつもうんざりで、このままだと完全に頭がいかれちまいそうで、そもそも俺らは奇形として生かされていて、生きてるだけでも痛くてやめちまいたくて、それでも『生きて』と言われたとしたら、お前ならどうする? ウェイター!」
年老いたウェイターに新しいハイボールと、太っちょメガネが飲んでいる奇妙な色のカクテルを注文した。彼は続けた。
「さあ」と太っちょメガネに詰め寄りながら、「頼むぞ、本気で聞いてるんだ」答えなければ、養豚場のブタ以下の死に方をさせてやるぞ、と。
かおるの気迫に――と言うよりは彼の言葉に、太っちょメガネは目を見開き、下唇を噛み、一生分の汗を額から流していたが、しばらくすると、豚とイルカの合いの子のような鼻息でこうつぶやいた――「だれに?」
「ああ?」
「だれに言われたんですか? 『生きて』って」
(続く)




