その11
左武文雄は悩んでいた。
誰が、あるいは何が、そんなに彼を悩ませていたのかは分からないが、たぶん、それは運命らしきなにかであって、取り敢えずその運命らしきものは、先ずは彼を困らせ悩ませようとしていた。取り敢えずは、奇妙な耳鳴りというかたちで。
そう。その耳鳴りは、月面の不毛な大地にいくつものスコップを入れるような音のときもあったし、忘れられた死体が急激に乾燥された時のような音のときもあった。無理な労働がたたって肺の病気になった男の呼吸のようなときもあったし、見知らぬ子どものクスクス笑いや、数羽の鳥の言い争う泣き声のようなときもあった。
この耳鳴りは、前日、不審な男を見かけ、声をかけ、その前後数分間の記憶をマルッと忘れさせられ、ボケーッとした頭のまま職場である石神井東警察署を私服で訪れ、非公認の相方である右京海人に起こされた直後から始まったものであった。
そう。そうしてその耳鳴りは、最初はまったく当人にも気付けない、極些細なものでしかなかったのだが、夜、彼がベッドに倒れ込んだ直後、
サ……、
ザワ……、
ザワザワザワ、ザ……、
サワッ……、
ザワワ……、
ザワザワザワザワ、
ザワザワザワザワ、
ザワザワザワザワザワ、ザワ……。
と前述した、いくつかの物語性を持った音、それらの混合体として彼の耳に届いて来た。
「……?」と彼はいぶかしんだが、生来の気の強さ鈍さのせいだろうか、それとも直前に飲んだ高い度数の焼酎のせいだろうか、彼は目を閉じそのまま眠りに付くことにした。暗闇が訪れる直前、昼間出会って忘れさせられた男の顔が一瞬脳裏を過ぎったが、それも他の、些細な音の集合体に静かに流され消されて行った。
*
「なんだ? まだ酔ってるのか?」翌日、彼に最初に声を掛けたのは右京海都だった。「なんだか難しそうな顔をして」
彼は昨日の左武の――ボケーッとした顔で非番の警察署を訪れていた彼の――様子を心配して声を掛けて来たのだが、その時の左武文雄に、右京のそんな心配を理解する余裕はなかった。
「うるせえ」左武は答えた。右手の指三本を額の真ん中に当てながら、「酔ってるわけじゃねえよ」
サ……、
「うるせえってのはなんだよ」右京は続けた。彼の横を歩きながら、「ちゃんと寝たのか? あの後」
ザワ……、
これも小紫かおるの力に触れたせいなのだろうか、本来、彼の能力がこれほど急激・急速に目覚めることはないはずだった。何故なら、他人のこころの声、思考を大量に、その中に取り込むことは、生身の人間の脳には大変な負担だからである。であるが、
ザワザワザワ、ザ……、
「うるせえなあ」続けて左武は答えた。いつもの警察署の廊下が、何故だか傾いて見えた。「言われなくてもきちんと――」
と直後――、
ザワワ……、
ザワザワザワザワ、
ザワワ……、
ザワザワザワザワ、
ザワワ……、
ザワザワザワザワ、
ザワザワザワザワ、ザワザワザワザワ、
ザワザワザワザワ、ザワザワザワザワ、
ザワザワザワザワ、ザワザワザワザワ、
ザワザワザワザワ、ザワザワザワザワ、
ザワザワザワザワ、ザワザワザワザワ、
ザワ、ザワ……。
「お、おい! 左武」と右京海都は叫んでいた。
彼の横を歩いていた左武文雄が、その場に突然倒れ込んでしまったからである。そうして――?
*
「彼女は枯葉の固まりのようなナニカになると、そのまま、彼女が削り取る空間のように、どこかへそのまま、ひゅいっと消えてしまったんです」
そう。そうして、樫山昭仁が語った奇妙な少女の物語、その物語を聞きながら祝部優太は――特に「枯葉の固まり」「ひゅいっと消えて」といった部分に躓きながら彼は――幼かった頃の娘・ひかりのことを想い出していた。
と言うのも、彼女が養女であること、彼女の身体が生まれつき弱かったことは、これまで何度か書いて来たとおりであるが、幼い彼女を医者のもとまで抱いて運んだり、熱が出たからと朝まで付き添っていたときに彼を襲ったあの感覚、それはまさに、彼女が「枯葉の固まり」のように「ひゅいっと消えて」しまうのではないかと想わせるものだったからである。
「大丈夫さ」優太は答えた。手袋越しの娘の手を優しく握りかえしながら、「俺なら大丈夫だよ」と。こいつだけは誰にも奪わせないし、もちろん消させたりもしない、と。そう想いながら。
*
そう。問題は、『リスト』をどうするかだった。その製作者であるあの男とともに。
会社のことを考えるのなら、あのリストは有用だろうし、あの男も上に紹介するべきだろう。彼の経験は貴重だし、問題のリストには、会社が把握している(少なくとも自分が知っている)対象者の名前と共に、会社が把握していない(少なくとも自分は知らされていない)対象者らしき者の名前もいくつかあった。詳しい原理と状況を聞く時間はなく、その精度も不明であったが、まったくのでたらめとも言い切れないだろうし、しかも、そこには彼の娘の名前も――と、そう。そこが一番の問題だった。
これも以前に書いたことだが、祝部ひかりはあくまで、会社が優太ら夫妻に預けているだけの存在であった。普通の子どものように育て、愛情を与え、もちろん与えられながら、そうすることを本人に望まれ、且つ、彼ら夫妻がそれを望んでいたとしても、それでも、仮に彼女に何らかの能力が、その兆候が現れたら、優太は彼女を会社に返さなければならない。妻の記憶は消されるだろうか? 私の記憶はどうなるのだろうか? かおるや深山の顔が脳裏を過ぎり、彼らが――もちろん自分も――して来たことが想い出された。
「そうだな」とここで突然優太は喋った。「たしかに。今日の仕事は相当イラついたが」わざと明るく、「これがまた、話の長いおじさんでな、よく分からない話をずーっと、ずーっとされていたんだよ」となるだけふざけた調子となるように。
幸い、今日彼に会ったことは誰にも伝えていない。
「が、まあ、そうだよな」と優太は続けた。「だからと言って、ずーっとイライラしてても仕方がないな」と娘の方を向きながら、「三連休も今日で終わりだ。たまには外食でもするか?」
「いいの?」ひかりはよろこび訊き返した。が、外食云々よりも突然明るくなった優太の様子が気になった。「無理してない?」
「無理なんかしてないさ」優太は答えた。今度は本当に明るく、「この前、お前と母さんが話していたイタリア料理、場所は知らんが、そこなんかいいんじゃないか?」
リストの件は、そこからひかりの名前を消せばいいし、場合によっては、あの男の記憶を――場合によってはあの男自身を――消してしまってから、残ったリストを会社に渡せばいい。それくらいなら、いつもやっていることの延長である。
「うん」優太はひとりうなずいた。スマートフォンを取り出しながら、「それじゃあ先ずは、お母さんに連絡だな」
(続く)




