その10
「ねえ、」と、鏡の外で彼女はわらった。
「終わったわよ」と、鏡の中の彼女に向かって、
「どうする? ずっと中にいる?」と、彼女の顔をジィッと見つめて――「今度はあんたがさ」
『ダメッ!』と、鏡の中でマリサは叫んだ。
すると直後、視界は明転し、彼女の意識もまた、鏡のこちら側へと引き戻され固体化され始めた。
「分かったわよ」彼女は応え、場所をマリサに譲った。去り際、『他にも色々準備しておいたから』と、すこしは自分に感謝するよう、そう伝えようとしたのだが、その言葉は、どこかマリサの中では尻切れトンボに終わっていた。
と言うのも彼女はいま、さきほど複数の男に襲われかけたのと同じ場所――ペトロの店のフロア中央――に立ち、問題の男たちがどこにもいないこと、窓を見ると、外が既に暗くなっていること、そうして更に、カウンター向こうの小さな鏡――彼女と話した小さな鏡――が不気味に縦にひび割れていることに気付き、それに意識が向かっていたからである。
「乱暴は?」と、自身のからだを確認してから彼女は、「されていな――」と、床になにやら光るものを見付けることになる。が、
「なに?」と、それを拾い上げようとした瞬間、彼女は数歩後ずさった。「――え?」
それは、赤い血の付いた、誰かの金歯だった。
「きゃっ」声には出さず彼女は叫ぶと、その誰かの歯をカウンターの下、すぐには人目に付かない場所まで蹴って飛ばし、そのまま店を出た――甥を迎えに行かなければ。
アーサー・ウォーカーを預けている友人の家に向かう途中彼女は、先ほどの赤い血が右の靴についているような気がしたのだろうか、土や街路樹やアスファルトなんかでそれを拭き取ろうとして、その数度目の時に、「あっ」と突然あることに想い至った――「ハダカデバネズミ」彼女はつぶやいた。
突然消えたあの男、借金取り、下卑た顔の猫背のあいつは、あの完全地中棲の齧歯類にそっくりだったのである。
*
さて。
女性の年齢なんてものは聞くだけ野暮で失礼だし、お話作りの都合上、彼女たちの生年月日や趣味嗜好、身長、体重、3サイズまで、しっかりきっちり把握して、エクセル表で管理するようなこんな面倒な作者であっても、それでもやっぱり、彼女たちの個人情報をハッキリクッキリ小説内に明記するなんてことは、(自身の安全のためにも)やめておくのが礼儀というものであろう――月の出ている夜ばかりじゃないし。
そう。
なのでそのため、いま、とあるカフェで相席となったふたりの女性――樫山ヤスコと山岸まひろ――の年齢については、まひろくんの方はそのへん気にしないそうなので明記してもよいのだけれど、なんて言うか、ヤスコ先生の方は、ほら、彼女よりもかな……り? ……けっこ……う? ……そこそ……若……若干? 若干? 若干ならいいですかね? いい? なら、その書き方にしますよ、いいですよな? うん――若干年上なので、実際の年齢を書くことははばかられるのであった。
と、“第四の壁”を突き抜けこちらを睨むヤスコ先生の気迫に負け、お茶を濁して文章を変えてしまう作者なのであった――なんだかんだで背筋がゾクッとしたので。
が、まあ、ただ、それでも、
「え? ヤスコ先生って私より(*検閲ガ入リマシタ)も年上なんですか?」
と彼女の担当編集も言うとおり、ヤスコは実際、年よりも若く見られることが多かった。
それは多分に、生まれ持った彼女の雰囲気――レモンや石鹸、朝食用のシリアルなんかを想い起こさせるそんなイメージ――によるところが大きいのだろうが、そんな彼女の印象はまた、今日はじめて会ったはずの女性、カフェで偶然相席となっただけの女性――山岸まひろに、やわらかい好意を与えるとともに、本来内気な性格の彼女に、ヤスコへの、ある種積極的なアプローチをかけさせることにもなった――ふたりの会話は弾んでいた。
「え? すると猪熊先生ともお知り合いなんですか? 大ファンですよ、僕。彼女の漫画の」
「お仕事中はこわいけど、とってもいい先生よ、お仕事中はこわいけど」
「でも、そんなイメージないですよね。怒鳴ったり、怒ったり」
「あ、ちがう、ちがう。そういうこわさじゃないのよ。なんて言うか、どっか行っちゃうっていうか、ペンが乗ると、“最高にハイッ!”って感じになっちゃう方なのよ。それでアシスタントさんの2~3倍の速さで作業するから、みーんな戦々恐々」
「樫山さんもお手伝いを?」
「まっさか。絵描けないもん、私。時々あそびに行かせて頂いているだけ。いちどなんかあれよ、消しゴムかけてるだけで止められたもの、アシスタントのひとに。「どうやったらこんなに汚くかけられるんですか?」って」
と、まるで古くからの知り合いのように。取り留めなく、想い付くまま、投げた言葉に言葉が返って来る、ただただそれだけが望みでもあるかのように。
「それからね」とヤスコは続ける。「それから、その双子の子たちもさそって海浜公園に行ったの。行ったことある? あそこの……えーっと?」
「あ、まひろです。山岸まひろ、すみません」
「いいのよ、聞き忘れてたのはわたしなんだから。で、そしたらその妹の方がイルカの水槽の前で動かなくなっちゃって――」
先にも書いたとおり、山岸まひろはカッコ付きの“ノンバイナリー”で、彼女の身体は女性だが、その性自認は男性/女性とはっきり分かれているわけでもなければ、彼女の恋愛対象となる相手も、男性/女性とはっきり分かれているわけでもなかっ……たって書くとまた誤解を招きそうなのでいまのうちにハッキリ書いておくと、彼女はこれまで、(彼女のいまある記憶の中では)誰かを好きになったことはなかった。もちろん、彼女に好意を抱く者も、彼女が友人・知人・家族として好意を抱く者もいるにはいたが、いわゆる“恋愛対象”として男性あるいは女性に好意を抱いたことはなかったのである。
そう。
なので彼女は戸惑っていた。いま、この他愛ない会話の間も、
「でね、そこで弟がいきなり歌い出したの。その子の前で、知ってるかなあ? ちょっと昔の映画の主題歌なんだけど、“So long and thanks for all the fish~~♪”って」
と、ただただ陽気に話を続ける、この年上の女性に対して。そんな彼女から目が離せなくなっている自分自身に対して。喉がかわき、そのかわきを彼女に悟られないよう必死で水を飲んでいる自分に対して。
「で、なんでこの歌をイルカの前で歌ったかっていうと、そこにはある木曜日の朝に起きた恐ろしくも無意味な災厄の――」
と、そうしてまた、こちらの女性、まひろよりも“若干”年上の女性、樫山ヤスコも戸惑っていた。たまたまカフェで相席になっただけの彼女――でいいのよね? 男の子のようにも見えるけど――の、自分を見詰める、その少年のような瞳に。そんな瞳に浮かれている自分に。彼女の編集者が待ち合わせに遅れていることに感謝しながら。
そう。
彼女の編集者は遅れていた。会議がどうとか部長がこうとか、なんとかかんとか――きっとまだまだ彼女は来ないだろう。
そう。
なのでヤスコは訊いてみた。若干、勇気をふりしぼって――「あのー、ひょっとして」と。イルカとガイドと恐ろしくも無意味な木曜日の物語はいったんどこかにしまっておいて、「前にどこかで会ってますっけ? 私たち?」と。




